森を怒らせるな
長老会議はその日の夕方に開かれた。
小屋ではなく、広場の端の屋根付きの場所だ。屋根と言っても柱に板を渡しただけのものだが、正式な決定はここで行う慣習が澄ヶ淵にはあった。炬火を二本立てて、シズとカヤとヨルの三人が向かい合った。
シズが口を開いた。
「あの力は使ってはならない」
まず結論を言う、というシズの流儀だ。ヨルは長い付き合いで知っていた。
「理由は」
カヤが聞いた。
「森が怒る」
「鎧獣から集落を守った。それでも怒るのか」
「因果はそうではない」
シズは背を起こして続けた。
「あの力は自然のものではない。自然でないものを使えば、森から報いが来る。昔から言われていることだ」
カヤは静かに返した。
「ヒトコが槍を折られた。次にあの獣が来たとき、仕留められる保証はない。集落には今、百二十人いる」
「そのために自然に背くのか」
「生きるために使えるものは使う。それが猟団の考え方だ」
ヨルは二人の言葉を聞きながら、頭の中では別のことを考えていた。
シズの「森が怒る」という言い回しを、ヨルはこれまで迷信だと思っていた。シズは口伝を知らない。語り部ではないから、知らなくて当然だ。だがシズは集落の最年長として、祖父の祖父の世代からの話を断片的に聞いてきた。その断片が、シズの中で「森が怒る」という形になった。
口伝の第五節は言う。「空の目の命令は変わらない。人が再び蟲に触れたなら、それを止めよ」。
シズの「森が怒る」と、口伝の「空の目の命令」は——同じ恐れから来ている。
別の経路で、別の言葉になった。だが根は同じだ。
ヨルは炬火の揺れを見ながら、そのことに気づいていた。シズは正しい。正しいが、正確ではない。カヤも正しい。正しいが、見えていない部分がある。
「ヨル」
シズが呼んだ。
「口伝に、あのような力の話はあるか」
来た、とヨルは思った。
「ある」
「どう書いてある」
ここだ。
ヨルには選択肢があった。第五節を引けば、シズの立場を支持する根拠になる。「空の目の命令に反する行為は止めるべきだ」と口伝が言っている、と言えば、シズの主張に重みが加わる。集落の人間は語り部の言葉を軽く扱わない。シズを助けることができる。
だが。
口伝は政治の道具ではない。
三十年以上、ヨルはそれを守ってきた。口伝は保存するものだ。特定の立場を強化するために使うものではない。シズの言いたいことはわかる。シズが正しいかもしれない。だが口伝をその支持に使えば、今日それが通っても、次にカヤが「口伝を自分の立場に引け」と言い出す。口伝が道具になった瞬間から、口伝は終わる。
「力を持つ者が過去にいた、と書いてある。それだけだ」
ヨルは答えた。
シズの目が細くなった。
「それだけか」
「今言えるのはそれだけだ」
カヤが続けた。
「つまり前例がある。今日の件は、前例の延長だ」
シズが反論した。しばらく二人が言葉を交わした。ヨルは聞いていた。聞きながら、自分の選択が正しかったかどうかを考えた。
正しかったかはわからない。だが今は、これしかできなかった。
会議は結論を出さなかった。「今後の使用は集落全体で判断する」という言葉で終わった。それはシズもカヤも納得しないが、今日の場は収まる形だ。ヨルには、それが精一杯だった。
夕暮れ、ヨルは崖際の岩場へ歩いた。
炬火の煙が服に染みている。石が平たく張り出した場所に腰を下ろして、手のひらを眺めた。老いた手だ。七十年近く、語り部の手として使ってきた。何を保存してきたのか。何を失ってきたのか。
底白川の音が遠く聞こえる。西の空が赤く染まり始めていた。
口伝の第五節を、ヨルは一人で繰り返した。「空の目の命令は変わらない。人が再び蟲に触れたなら、それを止めよ」。
止めよ、とはどういう意味か。
力を使わせるな、ということか。集落から追い出せということか。それとも、もっと別の何かを意味するのか。
師匠はこの節を「命令として受け取るものだ」と言った。だが誰の命令か、というところには答えなかった。空の目、とは何か。命令を出したのは誰か。百五十年前、誰かがナギのような人間を「止めた」とすれば、どうやって止めたのか。
ヨルには答えがない。
足音がした。岩場に近づいてくる。振り向くと、ナギが立っていた。
「会議はどうなった」
「結論なしだ」
「俺の話か」
「そうだ」
ナギは岩の上に座った。ヨルの横に。夕暮れの赤い光が崖の縁を照らし、底白川の水面が遠く光っていた。
「シズじいさんが言うことって、あんたの話と似てるな」
ヨルは体を動かさなかった。
「何が似ている」
「森が怒る、って言い方は違うけど、どっちも——やめておけ、って言いたいんだろ」
ヨルは答えなかった。
「あんたも、俺にやめてほしいと思ってるのか」
「俺が思っているかどうかは、今日の話には関係ない」
「関係ある」
ナギが正面からヨルを見た。夕暮れの赤い光の中で、目が光っていた。
「あんたが俺に教えてる。それで俺は今日、獣を仕留めた。それはあんたも関係してる」
ヨルは黙った。
「シズじいさんと同じことを思ってるなら、なんで教えた」
問いが刺さった。
ヨルには答えがなかった。否定する言葉も、肯定する言葉も、今は出てこない。
「似ている、と言ったな」
ヨルは静かに言った。
「シズの言葉と、俺の話が」
「そう言った」
「どこが似ていると思う」
ナギが少し考えた。
「どっちも、過去を根拠にしてる。昔そうだった、だから今もそうだ、って」
ヨルは頷かなかった。頷けなかった。
その通りだ、と思ったから。
「答えられないか」
「今は答えられない」
ナギが立ち上がった。崖の縁の方を向きかけて、止まった。
「あんたの口伝に、何か書いてあるんだろ。あの力のことが」
「ある」
「それを今まで言わないのは、なんでだ」
ヨルは答えなかった。
ナギは岩場を離れた。夕暮れの光の中に消えていった。
ヨルは一人になった。
「似ている」——ナギの言葉が残っている。シズが別の道筋から、ヨルと同じ恐れに辿り着いた。それは何を意味するのか。百五十年の伝言が、どれだけ歪んでいても、核となる何かは残った、ということか。
それとも——誰もが、深くこの地と生きていれば、同じ恐れに辿り着く、ということか。
ナギの観察は、正確だった。
ヨルはそれを、否定できなかった。




