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最後の語り部が覚えている世界で、最初の魔法使いが生まれた  作者: 蒼月よる


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14/15

 獣が来たのは、吹雪の翌日だった。


 夜のうちに一頭が崖下から登ってきた、という話ではない。朝、猟団の見張りが台地の東端で大型獣の痕跡こんせきを見つけた。雪の上に残る爪の跡が、人の手よりも大きかった。


 ナギは水汲みの途中でカヤの部下に呼び止められた。


「居場所は知られている」


「なに」


「今朝出た獣だ。台地の上に痕跡がある。森から出てきた」


 ナギはおけをその場に置いた。


 カヤは石壁の東門に立っていた。猟団の男が四人、やりを持って集まっている。全員の顔が固い。


「何が来た」


よろい獣だ」


 鎧獣というのは、集落の中での呼び名だ。体表を硬い鱗板うろこいたが覆っている。爪が長く、足が速い。肉がうまくて毛皮も使えるが、鱗板が厚くて矢も槍も通らない。胴に当たれば弾かれる。のどと目の周りは柔らかいが、正面から近づくと先に爪で払われる。


 これまで二度、台地で遭遇したことがある。一度は逃げた。一度は猟団六人がかりで、二人が傷を負いながら仕留めた。


「どこにいる」


「東の畑の先だ。雪の匂いに紛れてる。動いてない」


 カヤがナギを見た。


「一緒に来い」


「俺が?」


「石を持ってるだろ。使えるか」


 ナギは懐に手をやった。石は毎日持ち歩くようになっていた。布に包んで、体に近いところに。今も胸のあたりに下げている。蒼い光が布越しに漏れることはないが、肌に触れていると体温のように温かい。


「やってみないとわからない」


「それで十分だ」


 カヤが歩き出した。



 鎧獣は東の畑の外れ、枯れた芋畑の雪の上にいた。


 体長は三メートルを超える。全身が青灰色の鱗板に覆われて、光を鈍く反射している。四本足で立って、こちらを見ていた。動かない。飢えているのか、それとも様子を見ているのか、ナギには判断できなかった。吐く息が白く、鼻孔が大きく開いている。何かの匂いを嗅いでいる。空腹のときの獣はそうする、とカヤが言っていた。


 風が止んだ。雪の畑と獣の間に、静かな空間ができた。太陽が雲の後ろで薄くなっていて、影が消えている。いつもより世界が平べったく見えた。ナギは足の裏に雪の冷たさを感じながら、自分の呼吸が少しずつ深くなるのを意識した。恐怖ではない。何か別のもの——集中、という言葉が近いかもしれない。


 猟団が左右に展開した。槍を構えて、囲みを作ろうとしている。足音を消して動いている。狩人たちは冬の獣の扱いを知っている。飢えた獣は恐怖が薄い。近づきすぎると予測不能な動きをする。


 獣が動いた。一歩下がって、それから首を動かした。どちらに逃げるかを計算している動きだ、とナギには思えた。


 カヤが右翼の男に目配せした。男が前に出た。


 獣が爪を出した。


 速かった。ナギの目にはほとんど見えなかった。爪が雪を蹴り、男が跳んで避けた。それでも右腕にかすった。男が呻いた。血が雪に落ちた。


「ナギ」


 カヤの声だった。


 ナギは石を取り出した。布を外して、素手で持った。掌に温かさが来た。目の奥の痛みは——今日はまだそこまで稽古していないから、もともとない。だが石を持った瞬間、体の中の何かが明確になる感じがあった。輪郭がはっきりする感じ。


 獣がこちらに気づいた。


 頭を向けた。黄色い目がナギを見た。


 ナギは呼吸を止めた。


 稽古で繰り返したことだ。息を止めて、掌に意識を向ける。ただし今日は石がある。石がある状態でやるのは初めてだった。


 違う、とナギはすぐに感じた。


 力が来るのが早い。波打つのではなく、最初から形を持っている感じだ。掌の前に、見えないが確かに何かが集まっている。爆発の前の感覚に似ているが、あのときとは違う。あのときは感情が引き金だった。今は、自分でここを選んでいる。


 石の温かさが手首まで伝わってくる。体の内側から押し上げてくる感覚が、安定している。土台があって、その上に力を積み上げる感じだ。


 獣が動き出した。


 足が雪を蹴った。こちらに来る。


 ナギは息を吐いた。


 吐くと同時に、掌から出した。爆発ではない。一点に集めて、まっすぐ、一回だけ。


 衝撃しょうげき音があった。


 獣の首に、見えない何かが当たった。鱗板のない、喉元だ。ナギは喉を狙ったわけではない。ただ正面に出しただけだった。だが力が向かった先は、そこだった。石を握っているとき、力は自分で行くべき場所を知っている——そんな感覚があった。稽古とも違う。もっと本能的な何かだ。


 獣が倒れた。


 足が折れたように崩れて、雪の上に横倒しになった。動かなかった。


 猟団の誰も動かなかった。


 ナギも動かなかった。


 静寂が、三秒ほど続いた。


「終わったか」


 カヤが近づいて確認した。


「死んでいる」


 猟団の一人が言った。


 右腕を傷めた男が、左手で傷口を押さえながら獣を見ていた。大きな目で見ていた。怖れではなく、何か別のものが混じっている目だった。


 ナギは掌を見た。石を持ったまま、自分の手を見た。骨が透けて見えそうなくらい白くなっていた。寒さのせいか、力を使ったせいか、わからない。頭痛はない。石がある間は、こないのかもしれない。疲労も軽い。先月の稽古の後に来ていた重さが、今日はない。


 力が外に出た。自分ではなく、誰かのために。それが今日初めてのことだった。稽古では石を浮かせ、蔓を焼く。それは自分のための練習だった。今日は違う。右腕から血を流している猟師の男を横目で見ながら、ナギは力を出した。それでよかったのかどうかは、まだわからなかった。



 集落に戻ったのは昼前だった。


 門を入ると、人が集まっていた。誰かが知らせたのだろう。子供たちが石壁の上に登って見ていた。女たちが広場の端に立っている。


 猟団が獣を引いてくると、動揺ではなく、別の空気が来た。


 ナギはその空気に気づいた。


 怖れがない。今日は、怖れではない。獣の体は三人がかりで運ばれてくる。巨体を雪の上に引きずる音がした。猟団の後ろをナギが歩くと、石壁の上の子供たちがこちらを見た。大人たちの視線も来た。


 子供が一人、猟団の横に走り寄ってきた。セン——十二歳の男の子だ。集落で一番足が速い。鼻の頭が赤い。走ってきたのか、寒いのか、たぶん両方だ。


「ナギがやったって本当か」


「そうだ」


 カヤが短く答えた。


 センが目を輝かせた。ナギを見る目だった。子供特有の、隠れたものが何もない目。同じ月齢の子供たちがナギを避けるようになってから、センだけは距離を変えなかった。好奇心の強い子は、恐怖よりも興味が上回るのかもしれない。


 広場の女たちが、ナギを見ていた。


 怖れではなかった。何か別のものだ。期待、という言葉が浮かんだ。いや、それとも少し違う。もっと実利的な、「使える」という目。前とは違う視線の向け方だった。怖れの目は逸らす。期待の目は逸らさない。逸らさずに向けてくるその視線が、ナギには前より重かった。


 カヤが振り返った。


「よくやった」


 短い言葉だった。それだけだった。だが集落の全員に聞こえる声だった。カヤはそれがわかってやっている、とナギは思った。声の大きさを、使い方を、知っている人間だ。


 ナギは答えなかった。


 広場の空気を、体の表面で感じていた。半月前までとは違う。怖れは減った。だがその代わりに来たものが、ナギにはよくわからなかった。怖れの方が、まだわかりやすかったかもしれない、と思った。怖れられているときは、自分が何者かはっきりしている。期待されると、何をすればいいのか、どこまでやればいいのか、わからなくなる。


 集落の視線が変わった。


 怖れから、期待へ。どちらが恐ろしいか、ナギにはまだわからなかった。期待には終わりがない。


 夜、家に戻ると囲炉裏が赤かった。タマキが夕食を多めに盛った。何も言わなかった。ナギも何も言わなかった。食べながら、石を懐の中で指先で触れた。温かい。脈打つように光の強さが変わるのが、布越しにでも伝わってくる。力の底は静かだった。今日ほど力をきれいに使えたのは初めてだった。爆発しなかった。制御が乱れなかった。石があると、力が自分のものだと感じられる。獣を仕留めたことより、それがナギには重かった。


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