盾
獣が来たのは、吹雪の翌日だった。
夜のうちに一頭が崖下から登ってきた、という話ではない。朝、猟団の見張りが台地の東端で大型獣の痕跡を見つけた。雪の上に残る爪の跡が、人の手よりも大きかった。
ナギは水汲みの途中でカヤの部下に呼び止められた。
「居場所は知られている」
「なに」
「今朝出た獣だ。台地の上に痕跡がある。森から出てきた」
ナギは桶をその場に置いた。
カヤは石壁の東門に立っていた。猟団の男が四人、槍を持って集まっている。全員の顔が固い。
「何が来た」
「鎧獣だ」
鎧獣というのは、集落の中での呼び名だ。体表を硬い鱗板が覆っている。爪が長く、足が速い。肉が旨くて毛皮も使えるが、鱗板が厚くて矢も槍も通らない。胴に当たれば弾かれる。喉と目の周りは柔らかいが、正面から近づくと先に爪で払われる。
これまで二度、台地で遭遇したことがある。一度は逃げた。一度は猟団六人がかりで、二人が傷を負いながら仕留めた。
「どこにいる」
「東の畑の先だ。雪の匂いに紛れてる。動いてない」
カヤがナギを見た。
「一緒に来い」
「俺が?」
「石を持ってるだろ。使えるか」
ナギは懐に手をやった。石は毎日持ち歩くようになっていた。布に包んで、体に近いところに。今も胸のあたりに下げている。蒼い光が布越しに漏れることはないが、肌に触れていると体温のように温かい。
「やってみないとわからない」
「それで十分だ」
カヤが歩き出した。
鎧獣は東の畑の外れ、枯れた芋畑の雪の上にいた。
体長は三メートルを超える。全身が青灰色の鱗板に覆われて、光を鈍く反射している。四本足で立って、こちらを見ていた。動かない。飢えているのか、それとも様子を見ているのか、ナギには判断できなかった。吐く息が白く、鼻孔が大きく開いている。何かの匂いを嗅いでいる。空腹のときの獣はそうする、とカヤが言っていた。
風が止んだ。雪の畑と獣の間に、静かな空間ができた。太陽が雲の後ろで薄くなっていて、影が消えている。いつもより世界が平べったく見えた。ナギは足の裏に雪の冷たさを感じながら、自分の呼吸が少しずつ深くなるのを意識した。恐怖ではない。何か別のもの——集中、という言葉が近いかもしれない。
猟団が左右に展開した。槍を構えて、囲みを作ろうとしている。足音を消して動いている。狩人たちは冬の獣の扱いを知っている。飢えた獣は恐怖が薄い。近づきすぎると予測不能な動きをする。
獣が動いた。一歩下がって、それから首を動かした。どちらに逃げるかを計算している動きだ、とナギには思えた。
カヤが右翼の男に目配せした。男が前に出た。
獣が爪を出した。
速かった。ナギの目にはほとんど見えなかった。爪が雪を蹴り、男が跳んで避けた。それでも右腕に掠った。男が呻いた。血が雪に落ちた。
「ナギ」
カヤの声だった。
ナギは石を取り出した。布を外して、素手で持った。掌に温かさが来た。目の奥の痛みは——今日はまだそこまで稽古していないから、もともとない。だが石を持った瞬間、体の中の何かが明確になる感じがあった。輪郭がはっきりする感じ。
獣がこちらに気づいた。
頭を向けた。黄色い目がナギを見た。
ナギは呼吸を止めた。
稽古で繰り返したことだ。息を止めて、掌に意識を向ける。ただし今日は石がある。石がある状態でやるのは初めてだった。
違う、とナギはすぐに感じた。
力が来るのが早い。波打つのではなく、最初から形を持っている感じだ。掌の前に、見えないが確かに何かが集まっている。爆発の前の感覚に似ているが、あのときとは違う。あのときは感情が引き金だった。今は、自分でここを選んでいる。
石の温かさが手首まで伝わってくる。体の内側から押し上げてくる感覚が、安定している。土台があって、その上に力を積み上げる感じだ。
獣が動き出した。
足が雪を蹴った。こちらに来る。
ナギは息を吐いた。
吐くと同時に、掌から出した。爆発ではない。一点に集めて、まっすぐ、一回だけ。
衝撃音があった。
獣の首に、見えない何かが当たった。鱗板のない、喉元だ。ナギは喉を狙ったわけではない。ただ正面に出しただけだった。だが力が向かった先は、そこだった。石を握っているとき、力は自分で行くべき場所を知っている——そんな感覚があった。稽古とも違う。もっと本能的な何かだ。
獣が倒れた。
足が折れたように崩れて、雪の上に横倒しになった。動かなかった。
猟団の誰も動かなかった。
ナギも動かなかった。
静寂が、三秒ほど続いた。
「終わったか」
カヤが近づいて確認した。
「死んでいる」
猟団の一人が言った。
右腕を傷めた男が、左手で傷口を押さえながら獣を見ていた。大きな目で見ていた。怖れではなく、何か別のものが混じっている目だった。
ナギは掌を見た。石を持ったまま、自分の手を見た。骨が透けて見えそうなくらい白くなっていた。寒さのせいか、力を使ったせいか、わからない。頭痛はない。石がある間は、こないのかもしれない。疲労も軽い。先月の稽古の後に来ていた重さが、今日はない。
力が外に出た。自分ではなく、誰かのために。それが今日初めてのことだった。稽古では石を浮かせ、蔓を焼く。それは自分のための練習だった。今日は違う。右腕から血を流している猟師の男を横目で見ながら、ナギは力を出した。それでよかったのかどうかは、まだわからなかった。
集落に戻ったのは昼前だった。
門を入ると、人が集まっていた。誰かが知らせたのだろう。子供たちが石壁の上に登って見ていた。女たちが広場の端に立っている。
猟団が獣を引いてくると、動揺ではなく、別の空気が来た。
ナギはその空気に気づいた。
怖れがない。今日は、怖れではない。獣の体は三人がかりで運ばれてくる。巨体を雪の上に引きずる音がした。猟団の後ろをナギが歩くと、石壁の上の子供たちがこちらを見た。大人たちの視線も来た。
子供が一人、猟団の横に走り寄ってきた。セン——十二歳の男の子だ。集落で一番足が速い。鼻の頭が赤い。走ってきたのか、寒いのか、たぶん両方だ。
「ナギがやったって本当か」
「そうだ」
カヤが短く答えた。
センが目を輝かせた。ナギを見る目だった。子供特有の、隠れたものが何もない目。同じ月齢の子供たちがナギを避けるようになってから、センだけは距離を変えなかった。好奇心の強い子は、恐怖よりも興味が上回るのかもしれない。
広場の女たちが、ナギを見ていた。
怖れではなかった。何か別のものだ。期待、という言葉が浮かんだ。いや、それとも少し違う。もっと実利的な、「使える」という目。前とは違う視線の向け方だった。怖れの目は逸らす。期待の目は逸らさない。逸らさずに向けてくるその視線が、ナギには前より重かった。
カヤが振り返った。
「よくやった」
短い言葉だった。それだけだった。だが集落の全員に聞こえる声だった。カヤはそれがわかってやっている、とナギは思った。声の大きさを、使い方を、知っている人間だ。
ナギは答えなかった。
広場の空気を、体の表面で感じていた。半月前までとは違う。怖れは減った。だがその代わりに来たものが、ナギにはよくわからなかった。怖れの方が、まだわかりやすかったかもしれない、と思った。怖れられているときは、自分が何者かはっきりしている。期待されると、何をすればいいのか、どこまでやればいいのか、わからなくなる。
集落の視線が変わった。
怖れから、期待へ。どちらが恐ろしいか、ナギにはまだわからなかった。期待には終わりがない。
夜、家に戻ると囲炉裏が赤かった。タマキが夕食を多めに盛った。何も言わなかった。ナギも何も言わなかった。食べながら、石を懐の中で指先で触れた。温かい。脈打つように光の強さが変わるのが、布越しにでも伝わってくる。力の底は静かだった。今日ほど力をきれいに使えたのは初めてだった。爆発しなかった。制御が乱れなかった。石があると、力が自分のものだと感じられる。獣を仕留めたことより、それがナギには重かった。




