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最後の語り部が覚えている世界で、最初の魔法使いが生まれた  作者: 蒼月よる


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13/15

父の声

 ヨルは石を借りなかった。


 ナギが帰ったあと、一人で座った。外は暗くなっていた。獣脂の乏しい冬は、暗くなれば寝る。だがヨルは眠れなかった。板壁の向こうで風が鳴っている。澄ヶ淵の冬の風は、峡谷きょうこくを通り抜けるときに音が変わる。人の声に似た音になることがある。昔から「底白川の声だ」と言われている。


 ヨルはその音を聞きながら、口伝を繰り返した。声に出さず、頭の中だけで。


 第一節から始めて、第五節まで。それを三回繰り返した。


 青く光る石の記述は、どこにもない。


 蟲の時代の節には、「蟲は見えない」とある。「光らない」とは書いていないが、「光る」とも書いていない。空の目の節には、「天に光点こうてんがある」とある。だが地の上で光る石の話は出てこない。


 四回目の反復に入ったとき、ヨルは止まった。


 第三節の途中に、引っかかりがあった。


「蟲は血に溶け、骨に残る」。


 師匠から受け取ったこの一節は、ヨルの父が使っていた言葉と、わずかに違う。


 父は「骨のずいに宿る」と言っていた。


 ヨルは師匠から「骨に残る」と習った。


 これはどちらが正確か。


 ヨルはそれを考えたことがなかった。師匠の言葉を疑うという発想がなかった。言葉を一字も変えず伝えることが語り部の職責だ、と師匠は厳しく言った。だからヨルは「骨に残る」と覚えた。父の「骨の髄に宿る」は、父の個人的な記憶違いだと思っていた。


 だが今夜、ヨルには別の読み方が浮かんだ。


 どちらが記憶違いなのか、本当にわかるのか。


 師匠は正確だった——そう信じてきた。だが信じてきた、というだけのことだ。師匠も誰かから受け取った言葉を伝えた。その誰かも、また誰かから受け取った。ヨルが「師匠の言葉は正確だ」と信じる根拠は、師匠が厳しかったということだけだ。


 厳しければ正確か。


 ヨルは自問した。厳しい語り部が正確な言葉を伝えるとは限らない。厳しく、しかし間違えている可能性がある。父が正しく、師匠が誤っている可能性がある。あるいは父も師匠も、別々の誤りを抱えている可能性がある。


 どちらかが正しいという保証は、ない。


 ヨルはその考えを飲み込んだ。飲み込んで、それからもう一度繰り返した。頭の中で。保証は、ない。


 三十年以上、この一節を「骨に残る」と読んでいた。弟子に伝えるときも、「骨に残る」と教えた。セン(弟子にはまだ若すぎるが、聞きに来るから話している)にも、この言葉で語った。もしこれが誤りだったとしたら——ヨルが三十年伝えてきたものは、何だったのか。



 父のことを思い出したのは、久しぶりだった。


 父は厳しい人だった。笑うことが少なく、語り部の職を何よりも重く扱った。口伝を伝える夜は、必ず同じ順序で、同じ速度で語った。ヨルが子供のころ、一度「この節の前は何があったのか」と聞いたことがある。父は「書いていないことは言わない」と答えた。


 だが、ヨルは覚えていた。


 父が語り部の仕事を離れた場所で——川に水を汲みに行くときや、まきを割るときに——独り言のように、口伝の一節をつぶやいていることがあった。そういうとき、父は少し違う言い方をした。「たぶん、こういうことだと思うのだが」「この言葉は、本当は別の意味かもしれないが」。


 ヨルは子供のころ、それを単なる独り言だと思った。語り部が職の外で考えを整理している、それだけのことだと。


 だが今になって思う。


 父も、迷っていたのではないか。


 口伝を一字も違えず伝えようとしながら、自分自身の理解では「この部分は不確かだ」と感じていたのではないか。それを子供に正直に言うことを、職の威厳が許さなかったのではないか。


 父が薪を割りながら言ったことがある。「蟲は骨の髄に宿る——これは、たぶんそういうことだと思うのだが、確かめようがないな」。あのとき幼いヨルは、意味がよくわからず黙っていた。父は独り言だと思っていたのか、答えを待たずに斧を振り下ろした。乾いた音が冬の朝に響いた。


 あの言葉を、ヨルは今まで「確かめようがない」という意味で受け取っていなかった。父が独りで確信を保とうとしていた言葉だ、と思っていた。だが今夜は違う読み方が来る。父はあのとき、本当に不確かだと感じていた。そう言いたかったのに、正面から言えなかった。


 ヨルは壁の板を見た。


 自分の字で書いた口伝の断片が、何枚か立てかけてある。あれも父の言葉をそのまま書いたものだ。だが「骨に残る」と「骨の髄に宿る」のうち、どちらを書いたか。


 確認すると、「骨に残る」とあった。師匠の言葉だ。


 父の言葉は、書き留めなかった。


 父の声は、ヨルの頭の中にだけある。薪を割る音と一緒に。そしていつか、ヨルも死ぬ。そのとき父の声は消える。「骨の髄に宿る」という言い方は、この世界から消える。



 夜が深くなった。風の音が変わった。低くなった。嵐の前の声だ、と集落では言う。


 ヨルは膝の上に手を置いたまま、空を考えた。板壁と板天井の中から、頭の中だけで空を開いた。


 口伝を伝えることに、意味はあるか。


 三代前から受け取った言葉だ。一代に三十年として、九十年前の言葉だ。九十年前の語り部は、さらに前から受け取った。もとの言葉がどのくらい昔のものかは、誰も知らない。百年前か、百五十年前か、あるいはもっと昔か。


 その間に、どれだけ変わったか。


「骨に残る」と「骨の髄に宿る」の違いは、おそらく小さい。だが百五十年の間に積み重なった「小さな違い」が、どれだけあるか。


 今夜の石が、口伝に出てこない理由が、ヨルには一つ思い浮かんだ。


 出てきていたのに、省略されたのかもしれない。


 語り部がある世代で「これは重要ではない」と判断して、次の代に伝えなかった可能性がある。あるいは、言葉を変えるうちに別の形になって、ヨルには別の記述として届いているのかもしれない。


 どちらにしても、今のヨルには確かめるすべがない。


 では、と——ヨルは思う。


 何も伝えないほうが、まだ誠実か。


 歪んだ言葉を伝えるくらいなら、黙っていた方がいいのか。ヨルはその問いを、頭の中で一度まっすぐに立てた。正面から見た。歪んだ言葉は、受け取った者を惑わす。間違った方向へ進ませることがある。今夜のナギのように、石を見て「口伝に出てくるか」と聞いてくる者に、でたらめな答えを渡す。それは害ではないか。


 だが——黙っていれば、何が残るか。


 何もない。石を見た者が、自分だけで考える。口伝の断片さえなければ、蟲のことを、骨のことを、空の目のことを考える言葉すら持てない。言葉がなければ、考えることができない。考えることができなければ、気づくことができない。ナギが「これは口伝に出てくるか」と聞いてきたのは、そういう問いを立てる言葉を持っていたからだ。その言葉は、ヨルが渡した。


 それは、意味があった。


 歪んでいても、ないよりはましだ。青い光る石のことを知らなくても、ヨルが持っている言葉は、ナギに必要な何かを含んでいる。少なくとも今日、呼吸を止めて掌に意識を向けるという技法は、ちゃんと機能した。それは口伝が何かを正しく保存しているということだ。


 歪んでいても、ないよりはましだ。


 ヨルは自分にそう言った。


 だが、その声は小さかった。


 小屋の外で風が鳴った。峡谷を抜ける声。底白川の声。昔から変わらない音が、今夜は少しだけ違う音に聞こえた。


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