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最後の語り部が覚えている世界で、最初の魔法使いが生まれた  作者: 蒼月よる


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12/15

蒼い石

 冬になった。


 ヨルとの稽古が始まって半月が過ぎた。ナギは毎朝、夜明けの前に崖の岩場に立つ。呼吸を止める。掌に意識を向ける。その繰り返しだ。


 最初は砂粒だった。次は小石。今では握りこぶし大の石を三十センチほど浮かせることができる。そのとき力は爆発しない。波紋はもんのように広がって、対象の下に集まり、持ち上げる。ヨルは「それだ」と言った。何が「それだ」なのかは、まだ説明してくれない。


 だが稽古が終わるたびに、頭が痛んだ。


 にぶい痛みで、目の奥から来る。軽い熱も続く。タマキは気づいている。食事の量が増えた。何も聞いてこない。それがかえって辛い、と思うこともあるし、正直ありがたい、と思うこともある。


 ミノリだけが聞いてきた。ある昼、水汲みの帰り道に。


「最近、毎朝どこ行ってんの」


「崖の岩場」


「朝から? 寒いだろ」


「慣れた」


 ミノリは少し間を置いた。水桶を持ち替えて、ナギの顔を見た。何かを判断するような目だったが、すぐ前を向いた。


 ミノリはしばらく黙った。それからまた聞いた。


「ヨルじいさんと、何かしてる?」


 ナギは一秒止まってから答えた。


「話してる、だけだ」


 嘘ではない。話も、している。ミノリはそれ以上聞かなかった。



 その日の午後、ミノリが「死んだ獣がいる」と言った。


 森のふちの、集落から見えるギリギリの場所だ。青い蔓が地面を這っているあたり、台地の東の端近く。猟団の縄張りではないが、禁足地でもない。


「臭いがしない。腐ってないと思う」


「行ってみるか」


「うん」


 二人で行った。冬の午後は短い。北側の崖から影が伸びてくるのが早い。気温が一時間ごとに落ちていく感覚があった。足元の霜が踏むたびに砕けた。青い蔓は寒さの中でも動いていて、手のひらで触れると表面がぬるりと滑った。


 集落の外に出ると、空気が変わった。石壁の内側は集落の人間の気配が詰まっているが、外に出ると風が直接来る。冬の風は底白川の下流から吹いてくる。峡谷を通ったあとの風は水の匂いがする。ナギはそれを吸い込みながら歩いた。稽古をするようになってから、外の空気が以前より鮮明に感じられる。何かが開いたのか、それとも頭痛が減ったぶん世界が近くなったのか、わからない。


 獣は大型だった。くまに似た体型だが、毛の色は灰青はいあおで、爪が長い。森に近い場所に多いやつだ。横倒しになって、もう動かない。傷もなかった。本当に腐っていない。死んで間もないのかもしれない、とナギは思った。


「老死かな」


 ミノリが獣に近づきながら言った。


「こんな体でも、老いるのか」


「さあ。でも死ぬんだから、老いるんじゃないの」


 ナギは獣の腹側を見た。毛が短い部分で、皮膚が薄い。青い血管の模様が見える。


 奇妙な光があった。


 皮膚の下ではない。骨だ。肋骨あばらぼねの間から、うっすらと、青い光がにじんでいた。


「ミノリ、見ろ」


「え」


「骨の中」


 二人でしゃがんで覗き込んだ。獣の体は冷えている。息はない。だが確かに、骨の隙間から青い光が漏れている。一定ではなく、ゆっくりと波打つように、強くなったり弱くなったりしている。


「何これ」


「わからない」


 ナギは一瞬迷った。それから手を入れた。


 肋骨の隙間に指を差し込んで、光の元を探った。冷たい。骨は硬い。指先が何かに触れた。


 小さかった。石だった。


 引っ張り出したものは、楕円形だえんけいの石で、片手に収まるくらいの大きさだ。青白く発光している。触れた瞬間から、手のひらが温かかった。石が温かいのではない——自分の体が温かくなった感じだ。


 目の奥の痛みが、消えた。


 そのことに気づいたのは、五秒後だった。ずっとそこにあった鈍痛どんつうが、なくなっている。どこかへ行ったのではなく、最初からなかったかのように、消えていた。


 体が軽かった。


 肩から首にかけて張っていた筋肉の凝りが緩んで、呼吸が深くなった。毎日それが当たり前だったのに、今この瞬間まで気づかなかった——あれが痛みだったのだということを。


「ナギ、大丈夫?」


 ミノリが声をかけてきた。ナギが黙っていたからだろう。


「大丈夫。なんか——調子が良くなった」


「その石を持ったら?」


「そう」


 ナギは石を空にかざした。鈍色にびいろの冬の空の下で、石は青く光っている。温かい。脈打つように光の強さが変わる。獣の骨の中にあったということは、生きていた間もずっとそこにあったのかもしれない。この獣はずっと、胸の中にこれを抱えて生きていたのか。


 自分も——もしかしたら、自分の体の中にも、これと同じものがあるのかもしれない。稽古をしているとき、力が来る場所が胸の下あたりだ。腹の底よりもう少し上。ちょうど肋骨の内側。ナギはその考えをすぐに打ち消した。確かめる方法がないから。だが頭の隅に残った。


綺麗きれいだ」


 ミノリが静かに言った。


「口伝に出てくるか、こういうの」


「聞いたことはない。ヨルが知ってるかもしれない」


 ナギはその石を布で包んで、懐に入れた。暖かさが、胸のあたりに移ってきた。帰り道、一歩歩くたびに頭がすっきりしていく感じがした。足が軽い。空気が澄んでいる。半月分の頭痛が消えたということが、こういう感覚だったのかとわかった。


 ミノリは隣を歩きながら、それ以上何も言わなかった。ミノリはそういう人間だ。聞いたこと、見たことを、すぐに言葉にしない。自分の中でしばらく転がしてから、必要なときだけ出す。その習慣がナギには心地よかった。何でも説明しなくていい。隣にいるだけで十分なことがある。



 夕方、ヨルの小屋を訪ねた。


 ヨルは一人で板張りの床に座って、口を動かしていた。声はない。口伝を繰り返しているときの動きだ。ナギが戸を叩くと、すぐに止まった。


「何だ」


「見せたいものがある」


 ヨルが戸を開けた。小屋の中は暖かかった。板の隙間から煙が抜けている。かまどではなく、石を積んだだけの囲炉裏いろりだ。火が落ちかけていた。ヨルは部屋に戻して、炭を一つ足した。それからナギを振り返った。ナギは布を広げた。石を見せた。


 ヨルの顔が変わった。


 変わった、というのは正確ではない。止まった、という方が近い。表情が止まった。目だけが石を見続けている。手は動かない。


「これは」


「森の縁の死んだ獣の骨の中にあった。触ったら、頭痛が消えた」


 ヨルは石を取らなかった。近くから見た。体を前に傾けて、目を細めた。


「光っているな」


「ずっと光ってる。波打つみたいに」


 ヨルが口を閉じた。


 何かを探している顔だ、とナギには見えた。記憶を引っ張り出すような顔。口伝の中の言葉を確かめるような顔。


 だが言葉が来なかった。


 ヨルは背を起こした。石から目を離した。小屋の中の壁を見た。口伝を書き留めた板が立てかけてある。ヨルはその板を眺めていた。視線が動いていた。読み直しているのか、記憶をさかのぼっているのか。板の表面に刻まれた字を、指でなぞるようにして見ていた。一節ずつ確かめるように、唇が微かに動いた。


「ヨル」


 ナギが呼んだ。


 ヨルが振り返った。


「これは口伝に出てくるか」


 間があった。長い間だった。風が板壁を叩いた。


「出てこない」


 その言葉は、ナギが予期しないものだった。ヨルはいつも、何かを知っている顔をしている。全部は言わないが、何かは持っている。その「何かを持っている顔」が、今はなかった。


「出てこない」


 ヨルはもう一度、今度は自分に言い聞かせるように、繰り返した。


 口伝を三十年以上守ってきた老人が、初めて言葉に迷っている。


 ナギにはわかった。石のことは——ヨルも知らない。


 ヨルの表情が固まった。目が石に戻って、それから床に落ちた。声が、少し違うたちになった。


「口伝にない」


 独り言のような声だった。


 ナギは初めて見た。語り部が言葉を失う瞬間を。


 石はまだ布の上で光っていた。小屋の板壁が、その青い光をわずかに受けた。ヨルの顔も、その光を受けた。老いた顔の中で、目だけが若い光をしていた。ナギはその顔を見ながら、石をもう一度布で包んだ。今夜はここに置いていこうかとも思ったが、やめた。石を手放すと頭痛が戻る気がして、まだ怖かった。


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