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最後の語り部が覚えている世界で、最初の魔法使いが生まれた  作者: 蒼月よる


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11/14

呼吸を止めて

 初冬になった。


 霜が二度降りたあとの朝は、崖からの風に刃が混じる。底白川は細くなり、青い森は色を濃くした。葉が落ちないのだ。あの青い木々は、冬が来ても枯れない。枯れることを知らないかのように、静かに濃さを増していく。


 ヨルは崖のふちの岩場に立って、そのことを確認していた。老いた目には遠くがにじむ。だが森の青だけは、はっきり見えた。


 ナギがやってきたのは、太陽が東の尾根を越えた直後だった。


 走ってきた様子はない。だが足音も立てていなかった。ヨルが気づいたときには、もう岩の上に立っていた。


「来たな」


「呼んだのはあんただ」


 ナギはヨルの横に立った。崖下を見ようとしない。岩場に来るたびに崖をのぞくナギを、ヨルはこれまで何度か見てきた。今日は違う。正面を向いている。来る前から、何か覚悟を決めてきた顔だ、とヨルは思った。


「始める前に一つ言う」


「聞く」


「ここで起きることを、誰にも言うな。タマキにも、ミノリにも」


 ナギが初めてヨルの顔を見た。


「秘密か」


「秘密ではない。準備ができるまで、黙っていろということだ。準備が何かは、お前が自分で決める」


 ナギはしばらく黙った。それから頷いた。言葉がなかったが、それで十分だった。


 ヨルは岩場の内側、風が少し和らぐ場所に移った。



「呼吸を止めろ」


 ヨルは言った。


 ナギが振り返った。


「止める」


「一息吸って、止める。吐かずに、そのまま。十まで数えてから吐く。それを三回繰り返せ」


「なんのために」


「まずやれ」


 ナギは口を閉じた。胸が膨らんだ。止まった。


 ヨルは数えた。心の中で、一、二、三。


 七で、ナギが吐いた。


「十まで行け」


「苦しい」


「知っている。十まで行け」


 もう一度。今度は八で吐いた。三度目、九。ヨルは何も言わなかった。四度目、ナギは十まで行った。


「できた」


 息を切らしてはいない。ナギの体は丈夫だ。


「次。同じことをしながら、両手のてのひらに意識を向けろ。息を止めている間、掌だけを考えろ。他は何も考えるな。冬の風も、崖下の音も、森のことも、カヤのことも、会議のことも——全部消せ」


「掌だけ」


「掌だけだ」


 ナギが目を閉じた。息を吸い、止めた。


 ヨルは見ていた。ナギの肩がわずかに上がり、そのまま固まった。胸郭が動かない。顎が少し引いている。内側に意識を向けようとしている、その形だ。息を止めている人間の体は、独特の緊張を持つ。水の中に入った直後のような、外界との接触が薄まる緊張。ナギの場合、その静止が自然だった。普段の動作にある小さな癖——重心をわずかに右に傾ける、指先を何かに触れさせようとする——それらが消えている。体が、内側のものに集中し始めているあかしだ。


 口伝の中に、一節がある。「最初に蟲を手で触れた者は、呼吸を止めて腕を伸ばした。空から力が来た、ということを、体が知っていたから」。師匠から受け取ったこの一節は、ヨルにはずっと比喩ひゆに聞こえていた。だが昨日、眠れずに口伝を繰り返しているうちに、気づいた。これは技法の記述かもしれない。制御できない力を、初めて制御した者の記述。


 それが誰かは、口伝には残っていない。名前は失われた。だが技法は残った。三代、四代を経て、歪んだかもしれないが、残った。


 呼吸を止めるのは、内側の音を消すためだ、とヨルは考えていた。血が流れる音、心が動く音。それらが静まったとき、別の何かが聞こえる。体の奥にずっとあったのに、普段の呼吸が覆い隠しているもの。口伝の者が「空から力が来た」と記したのは、その感覚を、外から来るものと捉えたからだろう。だが実際は、内側から浮かび上がるのかもしれない。どちらが正しいか、ヨルには分からない。ただ、呼吸を止めることが入り口であると、今は確信していた。


 ナギの両手が、わずかに持ち上がった。


 呼吸が止まったまま、掌が前に向いた。ヨルには意図が見えた。意図が先にあって、手が後からついていっている。


 ナギが息を吐いた。


「何か来た」


「来たか」


「掌に。熱じゃない。でも何かが——動いてる」


 ヨルは頷いた。


「もう一度。今度は吐くとき、その感覚を逃がさずに持っていろ。呼吸が動いても、掌の感覚だけは消すな」


 ナギが再び目を閉じた。



 その感覚が何なのか、ヨルには口伝の言葉でしか説明できない。「蟲は血の中を流れ、骨の隙間すきまに宿る。呼び出すには、呼ぶ者が静かにならなければならない。蟲は音に応えず、静寂せいじゃくに応える」。


 これも比喩かもしれない。だが比喩であっても、事実の核を持っているかもしれない。


 ヨルは待った。


 北の風が岩場を横切った。ナギのまとった布が揺れた。だがナギ自身は揺れなかった。岩のように立っている。十五歳の体が、いつもより大きく見えた。


 今度はナギの顔が変わった。眉がわずかに寄り、それからほぐれた。緊張ではない。何かを掴もうとして、力ずくをやめた、そういう顔だ。息を吐きながら感覚を保つのは難しい。吐くという行為がどうしても意識を動かす。だが口伝の一節は「呼び出す」とは言っていない。「静かになれ」と言っている。力を引きずり出すのではなく、来るのを待つ。ナギは今、その区別を体で学んでいるのかもしれなかった。


 ナギの指先が、かすかに開いた。広げようとしたのではない。自然に、ほぐれた。掌の皮膚が冬の空気にさらされ、その冷たさをヨルの位置からでも感じ取れるような気がした。あの掌の内側で、何かが集まっている。ヨルには見えない。だが見えないものが動く気配は、長年の修練で読めるようになっていた。


 そのとき、動きがあった。


 小さなことだった。ナギの右の掌の前、十センチほどのところに、砂粒が一つあった。崖の岩が風化して積もっている、細かい砂だ。その一粒が、持ち上がった。


 音もなかった。突発もなかった。ただ、浮いた。


 ヨルは呼吸を押さえた。


 砂粒は三秒ほど浮いてから、落ちた。ナギが息を吸ったからだ。目を開けていなかった。だが何かが変わったのがわかったらしく、ナギは目を開けた。


「今——」


「見た」


 ナギが掌を見た。砂粒はもう落ちている。ナギの顔が不思議な色をした。驚きの中に、何か他のものが混じっている。驚きより深い、もっと静かな何かだ。


「爆発じゃない」


「そうだ」


「ちゃんと——自分でやった」


「そうだ」


 ナギは両手を見続けた。ヨルは何も言わなかった。言う必要がなかった。


 崖下から風が来た。二人は黙っていた。



 帰り道、石壁の内側へ戻る小道に入ったとき、ナギが聞いた。


「なんで俺に教えてる」


 歩きながら、後ろからの声だ。ヨルは立ち止まらなかった。


「古い話に、似たことが書いてある」


「どんな話だ」


「それは今は言えない」


 ナギが追いついてきた。横に並んだ。身長はヨルよりもう低くない。


「ずっとそれだ。今は言えない。準備ができたら言う。でも準備って何だ」


「力が言葉を受け取れるくらいになったとき、だ」


「今は受け取れないのか」


「掌に砂粒を浮かせた。今日それができた。それはひとつ目だ。まだ先がある」


 ナギは黙った。不満の沈黙ではない、とヨルは思った。何かを測っている沈黙だ。


「あんたは、俺が怖くないのか」


 思いがけない問いだった。集落の多くが持っている感情を、ナギは自分に向けて問いかけてきた。


「怖いな」


 ヨルは正直に答えた。


「それでも教えるのか」


「恐れと、することは別だ」


 ナギは答えなかった。石壁の門に着いた。二人は別々の方向へ歩いていった。


 ヨルは自分の小屋へ向かいながら、頭の中で一節を繰り返した。口伝の最後の節——まだナギに言っていない節。「空の目の命令は変わらない。蟲を再び宿した者が現れたなら、それを止めよ」。


 この子は才がある。


 才があるということは——空の目が、見つけやすい。


 ヨルは足を止めなかった。石の道を、老いた足で歩き続けた。



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