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最後の語り部が覚えている世界で、最初の魔法使いが生まれた  作者: 蒼月よる


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崖の上の暮らし

 澄ヶすみがふちの朝は、霧から始まる。


 崖の縁に立てば、底白川そこじろがわが白く光っているのが見えた。川幅はここから見ると細い糸ほどだが、実際には大人が十人横に並んでも余る。断絶から百四十八年、川は変わらず流れている。変わったのは、その両岸を覆う森のほうだ。


 青い葉。青い幹。本来の緑とはちがう、深い藍がかった青。三方を囲む森は、ナギが生まれたときより確実に広がっている。母のタマキはそう言う。祖母の代よりもずっと、と。


「ナギ、そっちのうねを頼む」


 タマキの声がした。ナギは額に手を当ててから、くわを持ち直した。


 頭が痛い。いつものことだ。起き抜けから低い熱があって、こめかみの奥に鈍い圧がある。慣れてはいるが、消えることもない。医術を知るクワという老女が「生まれつきの体の弱さだ」と言ったのは三年前だった。もっと詳しく教えてくれと頼んだが、クワは首を振った。「弱い体に生まれた。それだけのことだよ」。ナギはそれを受け入れている。受け入れるしかないので。


 芋の茎をたぐる。土が冷たかった。秋の終わりに近く、朝の崖上は吐く息が白い。土の中に指を差し込むと、芋の丸みが伝わってくる。大きい。今年は豊作だ。豊作の年は冬を越せる、とタマキは言う。


 底白川の光が明るくなった。日が出てきたのだ。霧がゆっくりと引いていく。青い森のこずえが光を受けて、奇妙な色に染まった。緑でも青でもない、何かよくわからない色。光が葉の表面で止まって、吸い込まれているように見える。ナギはずっとその光り方が少し怖い。


 怖いとは口にしない。そんなことを言っても意味がないから。


 タマキが隣の畝で黙々と芋を掘っていた。三十八歳の母は日焼けして、手が大きかった。指の関節が固くなっている。ナギの知る限り、タマキは毎朝ここで働いていた。雨の日も、風の強い日も。休むのは祭りの日と、ナギが熱で寝込んだときだけだ。


「お前の芋は形がいい」タマキが言った。誉め言葉ではなく、確認するような口調だった。「丁寧に掘るから傷がつかない」


 ナギは黙って頷いた。丁寧にやるしかないのだ。力がないから。急いで鍬を使えば、腕が痛くなる。ゆっくり、少しずつ。それだけのことだ。


 崖下から風が吹き上げてきた。底白川の冷気を含んだ、湿った風だ。麦藁色の枯れ草がざわりと揺れた。タマキの髪が横に流れ、また元に戻った。ナギは鍬の柄を両手で握り直した。手のひらが土で黒くなっている。甲の血管が浮いていた。


 朝の作業が終わる頃には、頭痛が少し引いていた。体を動かすと紛れる。動かなければもっとひどくなる。それもいつものことだ。



 集落の一日は早い。


 澄ヶ淵には百二十人ほどが暮らしている。崖の上の台地に、獣骨じゅうこつと石を組んだ家々が並ぶ。骨は大きい。大人の背丈より太い肋骨あばらぼねを柱にした家もある。断絶以前の獣とは形が変わったものが多い、とヨルという老人は言う。だからこれほど骨が巨大なのだ、と。ナギはその話を半分しか理解していないが、骨の大きさは確かだ。集落のいちばん大きな集会所のはりには、人の腰より太い骨が三本渡してある。


 外周の石壁は集落を三方から囲んでいた。厚さが人の腕一本分ほどある。崖側だけが壁のない開口部で、そこに見張り台が設けられている。夜間の獣の侵入を防ぐためだ。壁の外に出るときは必ず二人以上で、武器を持つ。それがおきてだ。


 石壁の内側に、獣脂じゅうしを燃やすランプが家々の軒先に下がっていた。昼間は消えているが、夜になれば点灯する。火種は常に共用炉に保たれていて、誰でも使える。魔石まいしというものがあると伝え聞いたことがある。触れれば光るという石で、遠い南の集落では使っているらしい。だが澄ヶ淵にはない。あるのは人の手と動物の油と、石と骨だけだ。


 昼前、広場ではカヤたちが出発の準備をしていた。


 カヤはナギの父の弟だ。三十五歳で、集落の猟団りょうだんを束ねている。背が高く、獣皮の上着の肩に爪傷の古い跡がある。ナギが幼い頃、その傷のことを聞いたら「大した話じゃない」と言って笑った。笑い方だけが父に似ている、とタマキが言っていた。ナギの父は、ナギが三歳のときに狩りに出て戻らなかった。


「三日分の糧食ろうしょくを頼む。森の北側に崩れた巣穴があった。大物が出るかもしれない」


 カヤが部下の一人に指示している。声は低く、無駄がない。猟団の若者たちが手際よく荷物を整えていた。やりの穂先を確認する者、革紐を締め直す者。動きに迷いがない。ナギは邪魔にならないよう、広場の端に避けた。


「ナギ」


 声をかけてきたのはミノリだった。十六歳、ナギより一つ上で、幼なじみだ。猟団の見習いとして入って半年、もう一人前に近い。体つきがしっかりしていて、どこへ行くにも弓を持ち歩いている。弦を張り直したばかりらしく、弓が少し真新しく見えた。


「今日も薬草採り?」


「うん」ナギは答えた。「崖の東側」


「気をつけて。昨日、外周の石壁の外に爪痕があったって」ミノリは少し眉を寄せた。「カヤさんが調べてたけど、大きい獣のやつだって。種類は分からなかったって言ってた」


「分からなかったって」


「爪の間隔が広すぎて、知ってる獣に当てはまらないらしい」


 ナギは少し黙った。それからわかった、と言った。


 ミノリが猟団に混じっていく。広場を出る前に一度振り返って、ナギに向かってあごをしゃくった。気をつけろ、という意味だ。昔からそのしぐさで伝える。ナギも同じように顎をしゃくり返した。


 ナギは猟団には入れない。体が弱いから。重い荷物を運べないし、走り続けることもできない。集落での仕事は薬草の採取と、加工の手伝いだ。役に立っているとは思っている。少しだけ。足りないとも思っている。こちらの方が強く。


 広場を出る前に、もう一度だけカヤの後ろ姿を見た。猟団が石壁の外へ出ていく。槍が縦に並んで、一列になって森の縁へ向かう。最後尾の一人が振り向かずに壁の外へ消えた。石壁の外は別の世界だ。ナギはそちらへは行けない。でもいつかは——そんな考えが出かかって、止めた。そういう考えは意味がない。



 夕方、広場の隅にヨルの声があった。


 ナギが薬草の束を抱えて戻ってきたとき、低く滑らかな声が風にのってきた。語りかたりべのヨルは六十三歳で、集落でいちばんの老人だ。しわが深く、背はもう曲がっている。白い髪が耳の後ろで束ねてある。だが声だけは若い。よく通る、沈んだ声だ。若い頃はもっとよかった、と古い人は言う。それでも今でも、その声は集落の中でひとつだけ違う響きを持っている。


 広場の端の石の台に腰かけて、ヨルが話していた。聞いているのはセンだけだった。十二歳の少年で、どこにでも現れる。他に聴衆はいない。大人たちは素通りしていく。荷物を抱えた女が「また始まった」と小声で言いながら、反対側へ曲がった。鍛冶かじの男が近くを通ったが、目も向けなかった。


 ナギは足を止めた。少し離れたところで立ったまま、声の欠片かけらを聞いた。


「——昔、人間の血の中に、むしがいた」


 ヨルの声が届いた。


「蟲といっても、目には見えない。触れもしない。だが、人の中に住んで、人を強くした。痛みに耐えさせ、病から守り、傷を癒した——」


 ナギは聞き取れなくなった。風が変わったからだ。センが何か言っている。ヨルがそれに答えている。だが言葉は届かない。


 何を言っているのか、半分もわからない。蟲が血の中に。目に見えない蟲。意味がよくわからない。でも声の質が、ナギの体の何かにすっと入ってくる感じがした。暗記した呪文でも、作り話の語りとも違う。もっと古い、遠い、何かを運んでいる声だ。記憶にない場所の空気が混じっているような声だ。


 広場を通り過ぎた。家に帰った。


 薬草をタマキに渡しながら、ナギは今日の収穫を報告した。タマキは頷いて、一束ずつ確認した。指で茎をしごいて状態を確かめ、傷みのあるものを分けた。手の動きに迷いがない。全て見たことがある所作だ。その間もヨルの声がかすかに聞こえていた。集落の端まで届いてくる声だ。


 日が沈む前に、ナギは水を汲みに崖の東の湧水わきみずまで歩いた。夕暮れの光が横から差して、石壁が長い影を落としていた。空が橙色から茜色に染まるにつれ、青い森の梢も赤みを帯びた。それでも普通の木とは違う、どこか燃えているような、飲み込まれているような赤だった。梢の先端が光を受けると、一瞬だけ黒く縁取られて見える。その縁取りが消えると、また蒼に戻る。帰り道、森のふちを通った。


 石壁の手前に大きな木が一本立っている。幹の太さが大人四人分はある古木だ。ナギはそこを毎日通る。根元の形を知っている。幹の模様を知っている。何年もそこに立っている。


 今日、その幹に爪痕つめあとがあった。


 昨日はなかった。確かになかった。五本の爪が深くえぐった跡で、一番長いものはナギの手の平より大きかった。樹皮が剥げ、白い木肌が露出している。高さは、ナギの頭より上にあった。立った状態でそこに届くとしたら、かなり大きな獣だ。


 ナギはしばらく動けなかった。


 夕暮れの光の中で、その傷跡は妙に鮮明だった。傷口がまだ新しく、樹液が染み出している。指で触れると、湿っていた。今日のうちにつけられたものだ。午後のどこかで。ナギが薬草を採りに行ったのと、それほど離れていない時間帯に。


 足元を見た。地面はここだけ土が柔らかく、何かがいた痕跡があった。大きな窪みが二つ。ひづめのような形だが、普通の獣の蹄より幅が広い。


 今夜のものかもしれない、とナギは思った。あるいは今日の午後に、ここを通った。


 頭の痛みを堪えながら、ナギは足早に集落へ戻った。石壁の内側に入った瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。石壁が全てを防ぐわけではないと分かっている。分かっていても、少し楽になる。


 夕食の間も、爪痕の大きさと高さが頭に残っていた。


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