うん
「ねえ」
その人があたしの足元を見た。
グレーのスウェット。ベージュのダウン。そして足元に、黒いエナメルの七センチヒール。
「それ、好きで履いてるんでしょ」
質問じゃなかった。確認だった。なんていうか、当たり前のことを当たり前のこととして言ってる声だった。
「……うん」
あ。
いつもの「あ、はい〜好きなんです〜笑」が、出なかった。代わりに口から出たのは、「うん」。短い。飾りがない。あたしの声なのに、聞き慣れない音がした。
なんだろう。「好きで履いてるんでしょ」って、あまりにも当たり前のこととして言われたから——いつもの返しが、出る場所がなかった。
だって、ほんとに好きで履いてるから。
「いいね」
その人はそれだけ言って、ブーツのつま先をぷらぷらさせた。猫みたい。
沈黙が続いたけど、気まずくなかった。洗濯機の回る音が部屋を満たしていて、それだけで十分だった。
あたしはなんとなく、その人のニットを見ていた。白いケーブル編み。手触りがあたたかそうで——あ。左の袖の途中。編み目がひとつ、明らかにずれていた。一目だけ大きくなって、ちょっと穴みたいに見えるところ。
目線に気づいたのか、その人は袖をひょいと持ち上げてこっちに見せた。
「あ、これ? 自分で編んだの。ここ失敗してるんだよね」
笑っていた。恥ずかしそうじゃなかった。「見て見て、ここ面白くない?」って言うときの顔。
「直さないの?」
聞いてから、なんで聞いたのか自分でもわからなかった。
「えー、別に。これはこれで、あたしが編んだってわかるし」
あたしが編んだってわかるし。
その言葉は、なんでだろう、ちょっと引っかかった。
「服、好きなの?」
気がついたら自分から聞いていた。珍しい。あたしは基本、他人に興味がないほうで——いや、興味がないフリをしてるだけかもしれないけど。
「好きっていうか、着たいもの着てるだけかな」
少し考えてから、その人は言った。それから、ちょっと首を傾けてあたしを見た。
「——あなたはそうでもないの?」
また足元に視線が落ちた。スウェットとダウンとヒール。
あたしは——着たいものを着てるんだろうか。スウェットは楽だから着てる。ダウンは寒いから着てる。でもヒールだけは、楽とか寒いとかに関係なく、履いている。理由を聞かれても困る。ただ、これだけは自分で選んでる。他のぜんぶが曖昧でも、これだけは。
「……半分くらいは、ね」
「半分?」
きょとんとした顔をされた。本気で不思議そうだった。
「残りの半分は、着たくないもの着てるってこと?」
「あー、まあ、面接とか」
「面接?」
「就活の」
「ふうん」
その人はちょっと考えて、「それは大変だね」と言った。同情とかじゃなくて、「雨降ってるね」くらいのトーンで。
なんか面白いな、この子。
そう思ったら、息がふっと漏れた。笑ってた。あたしが。今日初めて、愛想じゃない笑いだったかもしれない。




