空白
お気に入りのパンプスの右の踵に、小さな傷がある。
いつ、どこでつけたのか覚えていない。黒のエナメル、七センチヒール。別にいちいち気にしないんだけど、コインランドリーのベンチに座って足を組むと、ちょうど真上の照明の下で、その傷だけがやけにくっきり見える。
深夜、零時すぎ。
面接の帰りにコンビニでおにぎりとお茶を買って、マンションに帰ってスウェットに着替えて、溜まりに溜まった洗濯物をゴミ袋に突っ込んで(洗濯カゴとか持ってない、うちには)、ここに来た。ダウンジャケットのポケットにスマホと小銭。足元はパンプスのまま。
スニーカーを持ってないわけじゃない。でも深夜だろうがコンビニだろうがコインランドリーだろうが、靴はヒール。ポリシーっていうか——ポリシーですらないか。体の一部みたいなもので、あたしからヒールを取ったら身長が足りない。物理的にも、たぶんそれ以外の何かでも。
洗濯機がごうんごうん言ってる。あと十二分。スマホを開く。推しのタイムラインをスクロール。新しいコラボカフェの日程が出てる。行きたいな。平日は大学とバイトと就活、休日は推し活。そうやってカレンダーが埋まっていくと安心する。空白が怖いわけじゃないけど、空白があると余計なことを考えちゃうから。
今日の面接は大手の三次だった。用意してきた言葉を並べて、用意してきた笑顔をして、用意してきた自分を演じて。
国際経済学。正直に言えば、なんとなく選んだ。偏差値とキャンパスの立地で決めた。興味が——ないとは言わないけど、あるとも言えない。あたしの人生って、だいたいそんな感じだと思う。たぶん。
「あ、はい。そうですよね!」——あたしの口癖。ゼミの教授にも、バイト先の店長にも、友達にも。便利な言葉。相手の言うことを受け止めたふりができる。受け止めてないけど。感情と、口から出る言葉は、いつからか別々のものになった。いつからかは、自分でもわからない。
ぴぴぴ。洗濯機が鳴った。立ち上がって洗濯物を乾燥機に移す。コインを入れて中温のボタン。あと三十分。ベンチに戻ってスマホの続き。
そこで、ガラス扉が開いた。




