第VIII話 ハルジオンと手紙
それは、小雨の降る日曜日だった。
開店準備を終えた春乃が、店先のガラスを拭いていると、ふいに扉が開いた。
濡れた傘を閉じながら入ってきたのは、丸眼鏡をかけた品の良い老婦人だった。
グレーのツイードの上着に、ベージュのスカート。小ぶりのバッグを胸元に抱えている。
「いらっしゃいませ」
「……ええ。こちら、野草のお料理を出していると伺って」
「はい、週末限定の食堂です。どうぞ、こちらへ」
老婦人はゆっくりカウンターに腰かけ、周囲を見回すように店内を見渡した。
雨音に包まれた空間は、どこか時間が止まったようだった。
「おすすめをお願いできますか?」
「本日はこちら、ハルジオンとじゃがいもの冷たいポタージュがございます」
春乃は美咲を呼び、ふたりで手際よくスープを仕上げる。
ほのかに甘く、やさしい草の香りが立ちのぼる。
ハルジオンは、春先から咲き始める白い小花。
道ばたでもよく見かけるが、気をつけなければヒメジョオンと見分けがつかない。
茎に溝があるのが、ハルジオンの証――美咲が最近覚えたばかりの知識だ。
老婦人は、スプーンでスープをすくい、そっと口に含む。
「……まあ。やさしいお味」
「ハルジオンの香り、感じていただけますか?」
「ええ。懐かしい気がします。この草、昔、娘が好きだったの」
そう言って、婦人はバッグから一通の封筒を取り出した。
うすく焼けた茶封筒。そこには、万年筆で丁寧に書かれた字があった。
「この手紙、二十年前、娘が旅先から送ってきたものなんです。添えられていた押し花が……ハルジオンでした」
美咲も春乃も、しばらく言葉が出なかった。
「事故で急に逝ってしまって、それからずっと、ハルジオンを見るたび、あの子を思い出すんです。けれど、誰かに話したのは、今日が初めて」
スプーンを持つ指が、わずかに震えていた。
春乃がカウンター越しに、そっとお茶を差し出す。
「草の話をしてくださって、ありがとうございます」
「……不思議ですね。草が、思い出を閉じ込めてくれるなんて」
「きっと、娘さんが“その草で覚えていて”って、そう願っていたのかもしれません」
老婦人は目を伏せたまま、ふっと微笑んだ。
「そうかもしれませんね……このお店、草をとても丁寧に扱ってくださるから、なんだか安心しました」
美咲は思わず言った。
「よければ、そのお手紙と押し花、図鑑に載せさせていただけませんか? “人と草の記憶”のページにしたくて」
老婦人は驚いたように目を見開き、そして静かにうなずいた。
「娘も、喜ぶと思います。名もない草が、誰かの記憶に残るなら……こんなにうれしいことはありません」
その日、美咲の図鑑に、新しいページが加わった。
《ハルジオン:風に揺れても、決して折れない。誰かの記憶に咲きつづける花》
閉店後、美咲は春乃と並んでカウンターに座った。
窓の外では雨がやみ、濡れた路面が街灯を映していた。
「春乃さん、草って、ほんとうにすごいですね」
「うん。生きてる人だけじゃない。“いまはここにいない誰か”ともつなげてくれる。草は、時間の記録者なんだよ」
静かな夜。野草食堂の灯りは、今日もそっと、人と草の記憶を照らしていた。