第VI話 草の名前をたずねて
春のある日曜日。空はやわらかく霞み、風が軽やかに街をすり抜けていく。
美咲は、春乃と連れ立って町を歩いていた。肩からはスケッチブックの入った布バッグ。今日は“野草散歩”の日だ。
「どこに行くんですか?」
「ふふ、小さな秘密の場所。昔から、誰にも気づかれない草がたくさん生えてるの」
「わあ、楽しみです」
美咲の足取りは、以前よりずっと軽い。
アスファルトの割れ目、公園のすみ、ガードレールの根元。目を凝らすと、草たちがそこかしこに小さな命を伸ばしているのが見えた。
やがて二人が辿り着いたのは、古びた公団住宅の裏手。
かつては公園だったらしい一角は、今や雑草の楽園と化していた。フェンスの中には、誰にも踏みしめられない草たちが咲き乱れている。
「ここ……本当に秘密の庭みたい」
「でしょ? 名前のある草も、名前を知られない草も、ここではみんな並んで咲いてるの。そういうの、いいと思わない?」
美咲はうなずきながら、膝をついてスケッチブックを開いた。
そこへ、ふいに後ろから声がした。
「……あんたら、草好きなのか?」
振り向くと、白髪まじりの男性が煙草を手に立っていた。
古びたジャンパーにスニーカー。年の頃は七十前後だろうか。
「ええ。私たち、この町の野草を調べていて……ここ、すごくきれいですね」
春乃がにこやかに答えると、男はふんと笑った。
「きれい? 誰も気にしねぇ草ばっかりだぞ。俺は毎朝ここ、掃除してるんだ。草が好きでな」
「じゃあ、ここの“主”ですね」
「主なんてガラじゃねえけどな……まぁ、あんたたちみたいな若いのが草に興味あるってんなら、ちょっと見せてやるよ」
男はフェンスの鍵を持っていた。どうやら、管理組合の関係者らしい。
二人は礼を言って中へと入る。そこには想像以上の多様な植物が広がっていた。
「ここにだけ咲くんだ、“コモチマンネングサ”。ほら、石の割れ目。これ、葉の先に小さな芽をつけるのさ。まるで草の子どもだ」
「わ……ほんとに、小さな手みたい!」
美咲は夢中でスケッチし、名前を書き込んでいく。
春乃もメモ帳を取り出し、男の説明を記録する。
「こっちの“カタバミ”は夕方になると葉を閉じる。“眠る草”って呼んでたな、ガキの頃は」
「カタバミ……可愛い名前」
男の目がふと細くなり、懐かしむように空を見上げた。
「……昔な、嫁がこの草好きでよ。毎年、春になると一緒に見に来てたんだ。もう、いねえけどな」
「……そうなんですね」
「でも、草は変わらねえ。毎年、同じとこに咲く。不思議なもんだよ」
沈黙が風にまぎれて通り過ぎた。
美咲はそっとスケッチブックの一枚を破り、男に差し出した。
「これ、カタバミのスケッチです。もしよかったら……奥さまと一緒に見てほしくて」
男は少し驚いたように受け取り、しばらく眺めたあと、小さく笑った。
「……ありがとう。あんた、いい目してるな」
その日、美咲の図鑑には新しいページが増えた。
《コモチマンネングサ》《カタバミ》《シロザ》――
草の名前をたずねるたびに、人の記憶にも触れる。
草はただの緑ではなく、“過去”や“誰か”とつながる扉だった。
帰り道、美咲は空を見上げた。
日差しの向こう、ほんの少しだけ、自分の名前も光って見えた。