第V話 草の名前を呼ぶとき
「これ、なんて草だろう……?」
翌朝、美咲は店の裏手で草を見つめていた。細く尖った葉がうねるように伸びて、小さな白い花が風に揺れている。
春乃が、摘んだ草の束を持って戻ってくる。
「あ、それは“ハコベ”。昔からおかゆに入れる七草のひとつだよ」
「へぇ……この花、よく見かけてたけど、名前なんて知らなかった」
「名前を知ると、急に仲良くなれるよ。不思議だけどね」
春乃は微笑み、草の束を紙に並べていく。ヨモギ、カラスノエンドウ、ノビル、ハルジオン……美咲はじっと見入りながら、小さく息を吐いた。
「春乃さん……私、草の名前、もっと知りたいです。何のために生えてるのか、どんな味がするのか、ちゃんとわかるようになりたい」
「うん、いいね。じゃあ、図鑑つくろうか。うちの“野草図鑑”。この店だけの」
「図鑑?」
「写真とスケッチ、それに味の感想とか、採れる時期、調理法も書いてさ。お客さんにも見せられる。楽しそうでしょ?」
美咲はぱっと顔を輝かせた。
「やりたいです! 私、絵も字も下手だけど、全部書きたい!」
「それがいいの。手書きの図鑑って、味があるもん」
こうして、“野草図鑑づくり”が始まった。
その日の営業後、美咲はスケッチブックと色鉛筆を広げ、黙々と草の葉を描いていた。
横には春乃が、やさしい文字で「ハコベ」の効能を書いていく。
「ハコベは、歯ぐきの腫れに効くらしいよ。昔の人はすりつぶして塗ったんだって」
「そんな使い方……まるで草のお医者さんだ」
「草は、生きてる人間にとっての知恵袋だよ。ほら、美咲ちゃんの絵、すごくいい。花の感じ、ちゃんと出てる」
「ほんとに? よかったぁ……」
図鑑の1ページ目には「春の芽 野草帖」と手書きのタイトルが添えられた。
「ねえ、美咲ちゃん。どうしてそんなに名前を知りたくなったの?」
春乃の問いに、美咲は少し照れたように頬をかいた。
「うまく言えないけど……たとえば、道端で咲いてる草を見て“名前がある”って知ると、自分のことも少し大事に思える気がして」
「……」
「私、社会に出てから“代わりなんていくらでもいる”って言われることが多くて。名前じゃなくて“人員”として見られてた。でも、草にも名前があって、意味があるなら、私だって――」
言いかけて、美咲は黙った。
でも、春乃は何も言わず、そっとお茶を差し出した。
「いい言葉だね。草にも名前がある。人にもある。だから、ここで働くなら、“名前”を大事にする料理をつくろう」
「……うん!」
美咲は小さく拳を握った。
彼女の前に開かれたスケッチブックは、まだ真っ白なページばかり。
けれど、そこには確かに始まったばかりの物語がある。
草と向き合い、自分の“名”を見つけていく旅路が。
夜の店に、灯りがひとつともった。
台所の片隅で、美咲はまた新しい草を拾い上げる。
「これ……花びらが四枚。白くて、小さくて……」
彼女はそっと名前を呼ぶように、スケッチの端に書き込んだ。
“シロツメクサ”
――小さな草にも、ちゃんと名がある。
そのひとつひとつが、世界と自分をつなぐ鍵になる。