第III話 足もとに、緑の地図
翌朝、美咲は春乃のすすめで、店の裏手にある小さな畑のような空き地にいた。
「これが……全部、草?」
「うん。だけど、うちでは“食材”って呼ぶの」
春乃は軍手をはめながら、しゃがんでひとつの草を指さす。
「これが“ノビル”。におい、ちょっとネギっぽくない?」
美咲は恐る恐る摘んで、鼻に近づけた。
「……あ、本当だ!ネギみたいな匂いする!」
「春には、土の中からぷっくりした球根が顔出すの。軽く塩でもんで酢味噌で食べると、おいしいよ」
「へぇ……こんな草、いままで踏んづけてただけだったのに……」
「たいていの人はそう。けど、こうしてしゃがんで見れば、ちゃんと名前もあって、役割もあるのよ」
春乃はそう言いながら、今度は背丈の低い葉を手に取った。
「これは“スズメノカタビラ”。これはね……食べられない」
「えっ、そうなんですか?」
「うん、紛らわしいけど、似てる別の草と間違えるとお腹こわす。野草はね、覚えるまでは“採らない”勇気も大事」
その言葉に、美咲は静かにうなずいた。
緑にあふれる足元の世界が、急に“生き物の社会”のように思えてくる。
「春乃さん、どうして草を料理しようって思ったんですか?」
春乃は少し考えてから、空を見上げた。
「昔ね、大事な人が入院して、食欲がなくなってたの。でも、病室の窓から見える空き地に咲いてたスミレを見て『きれいだな』って言ったの」
「……うん」
「それで、スミレの砂糖漬けをつくって持っていったら、一口食べて、笑ったのよ。“草でも美味しいんだな”って」
「……やさしい話」
「それからずっと考えてた。“草って、見捨てられてるけど、誰かの役に立てるんじゃないか”って」
春乃の目はやわらかく笑っている。
その横顔を見ながら、美咲はふと思った。
――私、今、ほんの少しだけ生き返ってる。
東京の片隅で、野草と向き合っているこの時間が、心のどこかの隙間をそっと埋めていく。
「春乃さん……私、ここで手伝っちゃダメですか?」
「うれしいこと言ってくれるね。草摘み係、空いてるよ?」
「やります!」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
春の空は、どこまでも高く青い。
その日、美咲は初めて“ヨモギの若芽”を見分けられるようになった。
その葉の裏に、やわらかい銀色の毛があることを知ったとき、彼女の中で何かが芽吹いた気がした。
“世界は、こんなにも近くに、ちゃんと生えている。”
夕暮れ、野草食堂「春の芽」の台所では、美咲が摘んだヨモギで団子をこねていた。