第XXIII話 草の香りに導かれて
三月の終わり、春の風は、どこか土の匂いを運んでくる。
その日、『春の芽』の前には、少しだけ人が多かった。
雑誌が発売されて、三日目の土曜日。
「すみません、予約してないんですけど、入れますか?」
扉をそっと開けたのは、若い女性だった。まだ二十代前半といったところだろうか。
やや猫背で、春らしい薄桃色のコートを着ているが、その目の奥にはどこか疲れたような影があった。
「はい、カウンターのお席でよければ」
春乃はいつも通りに微笑んだ。
店内にはすでに常連の青木さんが来ていて、端に座って新聞を広げている。
若い女性は、そっと腰を下ろし、メニューを見つめた。
「……おすすめって、どれですか?」
「今日は、ヨモギと菜の花のかき揚げがあります。あとは、ノビルと豆腐のすり流し。それから、ミツバと雑穀のおにぎりも」
「じゃあ、それ全部ください。あと、ハーブティーも……できれば、春っぽいやつ」
春乃は、ふっと目を細めてうなずいた。
「では、スギナとカモミール、少しレモンバームを加えたブレンドを」
しばらくして、香ばしい香りとともに料理が運ばれた。
若い女性は、最初のひと口をとてもゆっくりと噛みしめる。
ヨモギの香り。菜の花のほろ苦さ。ノビルのシャキシャキとした歯ごたえ。
そのすべてが、ふっと彼女の肩を緩めたようだった。
「……こんな味、知らなかった。なんだろう、懐かしいような……知らないのに、思い出すっていうか……」
「野草って、そういう力があると思うんです。私も、最初にヨモギの香りに出会ったとき、そう感じました」
春乃がそう言うと、女性は少し驚いたように顔を上げた。
「雑誌、読みました。あの話、すごく……自分に重なって」
「そうなんですか?」
「はい。私、今までずっと人の期待に応えることばかり考えてきて、気づいたら、何をしたいのかわからなくなってたんです。仕事も、日常も、ずっと“育てられたもの”みたいで……でも、この料理、まるで“生きてる”って感じがして」
春乃は頷きながら、お茶を差し出した。
「レモンバームは、心を落ち着けてくれる草なんですよ。疲れたときにぴったりです」
女性はそれを受け取り、両手で包み込むようにして飲んだ。
「ここ、来てよかった。なんか、呼ばれたみたいで……草の香りに、ね」
「草は、ちゃんと必要な人に届くんです。風の中に、いつもそっといますから」
女性はその言葉に、しばらく何も言わず、静かに微笑んだ。
やがて会計のとき、彼女は小さな声で言った。
「また来てもいいですか?」
「もちろん。春は、まだまだこれからですから」
扉が閉まり、店に再び静けさが戻る。
カウンターの端で新聞を閉じた青木さんが、ぽつりと呟いた。
「佐伯さんの雑誌もいいけど……あの子がここに来たのは、きっと草たちのおかげだな」
「そうですね」
春乃は、窓の外に目をやった。
その視線の先、小さな道端に、たんぽぽの花がそっと咲いていた。
名も知らぬ草が、誰かの人生を変えることがある。
そう信じられる日々が、また一つ積み重なった。