第XXII話 草にふれる日
朝から、春乃の手のひらはじんわり汗ばんでいた。
取材の日。
小さな店「春の芽」は、いつもと同じように静かで、いつもと違う気配をまとっていた。
佐伯は、予告通りカメラマンを連れてやってきた。
背の高い、落ち着いた雰囲気の女性で、春乃の第一印象は「想像より穏やか」で、少しだけ緊張がほぐれた。
「春乃さん、どうぞいつも通りで。私たちは邪魔しないようにしますから」
そう言って佐伯は笑ったが、「いつも通り」という言葉ほど、難しいものはない。
厨房に立つ春乃の動きは、普段より少しぎこちない。包丁の音も、足取りも、どこか硬い。
「深呼吸ですよ、店主さん」
そう声をかけてくれたのは、いつもの常連・青木さん。
この日も予約していたらしく、早めに来て、カウンター席に座っていた。
「こんな日くらい、俺も背筋伸ばして食いますから。春乃さんがつくる料理って、草も喜んでるような味だし。雑誌の人にも伝わりますよ、きっと」
「……ありがとうございます」
春乃はもう一度、深く息を吸った。
そして、いつものように野草の皿を仕上げる。
今日の一皿は、「ノカンゾウとスズメノエンドウの白味噌ソテー」。
昨日ようやく完成した、新しい春の味。
皿を置いた瞬間、カメラのシャッター音が鳴った。
だがそれよりも先に、佐伯が「ふっ」と目を細めるのが見えた。
「……この香りですね。私が忘れられなかったのは」
そうつぶやく佐伯の表情を見て、春乃は少しだけ肩の力を抜いた。
取材は淡々と進んだ。
佐伯の質問は、どれも草の扱い方や味の構成について丁寧で、カメラマンも草のアップを撮りながら、ときおり店内の雰囲気を切り取っていく。
「春乃さんは、どうして“野草”だったんですか?」
インタビューの最後に、佐伯がそう尋ねた。
「銀座の店にいたころは、素材はすべて“育てられた”ものでした。でもある春の日、道端に生えたヨモギの香りが、ふと鼻に触れて……」
春乃は、あのときの気持ちを思い出す。
「“生えてきたもの”も、ちゃんと生きてる──って気づいたんです。誰かが育てたわけじゃないのに、ちゃんとそこに在って、香って、味があって。だから私は、その草たちを料理にしたかったんです」
佐伯はしばらく何も言わず、手帳に静かにメモを取り続けていた。
やがて目を上げて、ゆっくりうなずく。
「伝わると思います。ちゃんと、言葉じゃなくても」
取材が終わると、夕方の光が店内に差し始めていた。
カメラマンは名残惜しそうにカウンターの器を撮り、佐伯は最後にこう言った。
「この店、しばらく“秘密のまま”にしておきたい気持ちにもなりました。でも、きっと誰かに届いて、救われる味だと思います。だから、書かせてください」
春乃は、深くお辞儀をした。
その夜、青木さんが最後の客として皿を置いたあと、ふとつぶやいた。
「今日はちょっと味が違った気がしたな。……春乃さん、緊張してた?」
「やっぱり、わかっちゃいました?」
「うん。でも、悪くなかったよ。緊張してるぶん、草たちにすがる感じがして、それが逆に、ぐっときた」
その言葉に、春乃は思わず笑ってしまった。
店の外では、カラスノエンドウが風に揺れていた。
雑誌に載ることも、読者が増えることも、少し怖い。
でも──
(草と向き合う日々を、ちゃんと大切にしていれば、どんな形でも、きっと大丈夫)
春乃は、草の声に耳をすます。
これからもずっと、そうして生きていこうと、心の奥で静かに決めていた。