第XXI話 草の声をきく
「なんか、違うんだよね……」
午後の光が差し込む厨房で、春乃は皿の前に立ち尽くしていた。
スズメノエンドウの花をあしらった和え物。
ノカンゾウの葉で巻いたおこわ。
炒めたヤブカンゾウのつぼみと、白みそのソース。
ひとつひとつは悪くない。けれど、全体を通して、春乃にはどうしても何かが“足りない”ように思えた。
(素材はいいはず。味も優しい。でも、何か……輪郭がぼやけてる)
頭の奥で佐伯の言葉がよぎる。
「記憶に残る味」
それはきっと、ただ美味しいだけでは届かない。香り、食感、そしてその時の空気までも含めて、人の心に染みるもの──
「……贅沢、なのかな。こんなことで悩むなんて」
春乃は手を止めて、ふぅとため息をついた。
そのとき、店の扉が静かに開いた。
「ごめんなさい、閉店後だったかしら?」
声の主は、淡いベージュのコートを羽織った老婦人。白髪を後ろにまとめ、瞳には静かな光が宿っている。
「いえ、大丈夫です。何か、お探しですか?」
「うふふ、実はね、この前通りかかった時に、ノビルの香りがした気がして……懐かしくて」
春乃は思わず微笑んだ。
「よろしければ、少しだけお茶を。よかったら野草のスコーンもあります」
「まあ、それは嬉しいわ」
そうして出したのは、スギナとローズマリーをブレンドした温かなハーブティーと、ヨモギと甘納豆のスコーン。
婦人は丁寧に手を合わせ、静かに一口かじった。
「……とても優しい味ね。春の草って、こんなに穏やかだったかしら」
「強くもなく、控えめでもなく……私は、そういう草が好きなんです」
春乃の言葉に、婦人はうなずく。
「野草の料理って、その時その場所でしか出会えないものね。だから、“整えすぎない”ほうが、草の声が聞こえる気がするの」
春乃は思わず、手を止めた。
「……草の、声?」
「ええ。香りや苦み、ざらっとした葉の裏──そういう細かな違いが、“今日はこうして”って語りかけてくるのよ。私は長く薬草を扱ってきたけど、料理もきっと同じでしょう?」
春乃は、はっとした。
たしかに今朝摘んできたノカンゾウは、いつもより少しぬめりが強かった。スズメノエンドウも、ほんのり甘い香りをまとっていた。
でも自分は、その“違い”を受け止めず、いつものレシピに当てはめてばかりいたのかもしれない。
「……ありがとうございます。大切なこと、思い出しました」
「いえいえ。お茶、美味しかったわ。また寄らせていただくわね」
婦人はゆっくりと立ち上がり、扉の外へと歩いていった。
春乃は、厨房に戻るともう一度、今日の野草たちと向き合った。
一枚一枚の葉を触り、香りを確かめ、味見しながら耳をすます。
草の声を、きくように。
その夜、春乃はようやく納得のいく一皿を仕上げた。
ノカンゾウのつぼみと、スズメノエンドウのやわらかな茎を炒め、レモンの皮をすりおろして仕上げた一品。
香りも食感も、“今日この草たちと出会った”という実感に満ちていた。
「……これなら、大丈夫かもしれない」
春乃は笑い、佐伯の名刺に手を伸ばす。
明日、取材の返事をしよう──草たちと一緒に、生きてきた今を伝えるために。