第XII話 雨とドクダミと絵描き
昼過ぎから降り出した雨は、次第に本降りになった。
野草食堂の木の庇を、ぽつりぽつりと叩く雨音。
通りには人通りも少なく、店内は静けさに包まれていた。
「今日はのんびり営業かなぁ」
と、美咲がぼやくと、春乃は新聞をたたんで立ち上がった。
「こういう日は、濃い味の草が似合うのよ。ドクダミ、出しましょ」
美咲は一瞬たじろぐ。
「ドクダミって……あの、独特な匂いの?」
「そう。それがいいの。香りが嫌だと思う人もいる。でも、強い薬効を持っていて、昔から“十薬”とも呼ばれてきた」
春乃はそう言って、前日に仕込んでおいたドクダミの天ぷらをそっと揚げはじめた。
油の音が小気味よく跳ね、やがて店中に広がる――あの独特の香り。
外ではまだ、雨がしとしとと降り続いている。
すると、ガラス戸がカラリと開いた。
「やってますかね?」
入ってきたのは、雨合羽を羽織った初老の男だった。
片手に古びたスケッチブックを抱えている。帽子から垂れる水滴をぬぐいながら、カウンターに腰かけた。
「いらっしゃいませ。こんな日にありがとうございます」
「いやあ、たまたま雨宿りがてら。なんだか、惹かれたんですよ。この“野草”の文字に」
注文を尋ねると、男は迷わずこう答えた。
「ドクダミ、ありますか?」
美咲と春乃は目を見合わせる。
「ありますよ、ちょうど今、揚げたところです」
皿に並べられたドクダミの天ぷら。外はさくりと、中はやわらかく、野性味を残した香りが立つ。
男はそれを一口、ゆっくりと噛んだ。そして、ふっと目を細めた。
「懐かしい味ですねぇ。子どもの頃、田舎のばあさんがよく煎じてくれましたよ。苦くて、臭くて、嫌いだったのに……今は妙に、落ち着きます」
「草って、不思議ですよね。嫌いだったのに、いつの間にか恋しくなる」
美咲の言葉に、男は笑いながら頷いた。
「私ね、絵描きなんです。若い頃から東京で生活して、風景を描いてきた。でも最近は、キャンバスに向かっても、何も浮かばなくて。……だけどね、今日、道端のドクダミを見て、描きたくなったんです」
そう言って、男はスケッチブックをめくった。
そこには、雨に濡れたドクダミの葉と白い花が、水彩でやさしく描かれていた。にじむような筆遣いが、雨の空気をそのまま閉じ込めている。
「すごく……きれいです」
美咲の声が、自然と柔らかくなった。
「この花、たしかに臭いけど、白くて清らかなんですよ。咲く時期は短いけど、誰にも気づかれずにひっそりと咲いてる。……なんだか、自分を見てるようでね」
「ドクダミは、嫌われて、それでも咲いて……薬にもなる。誰かの力になってる。そういう草、好きです」
男はふっと笑って、美咲の言葉に目を細めた。
「君、いい店やってるね。草と一緒に、人の心も出してる」
その一言に、美咲の胸の奥がじんとあたたかくなった。
男は食事を終えると、伝票の裏にさらさらと何かを描いた。
渡されたそれは、小さなドクダミの絵と一言。
《嫌われても咲きつづける草に、私は救われた》
「よかったら、これ飾ってくださいな」
そして彼は、雨の中へゆっくりと去っていった。
ガラス越しに見える、濡れた舗道の脇。
そこにも、ひっそりと白い花を咲かせたドクダミが揺れていた。




