第I話 春の芽、ひらく
大通りから一本、くたびれたコンクリートの坂道を上ると、そこにぽつんと現れる古い一軒家がある。
金曜の夜になると、その家の軒先に小さな木札がかかる。
― 野草食堂 春の芽 ―
都会に生える草を、ちゃんと食べて、味わう店。
店主は三十代半ばの女料理人、佐原春乃。元は銀座の和食店で修業していたが、ある春の日、ヨモギの香りでふと人生に疑問を抱き、その足で店を辞めた。
「どうして私たちは、“育てられたもの”ばかりを食べてるんだろう? “生えてきたもの”も、こんなに生きてるのに」
それから五年。春乃はこの古家を借り、自ら野草を摘み、試作を重ね、「春の芽」を始めた。
営業日は週末の二日間。看板も広告もない。それでも噂を聞きつけた常連が、ひっそりと集まってくる。
この日、最初に来たのは、作業服姿の男だった。
杉並区の清掃局で働く松山。無口で、決まってカウンターの隅に座る。
「今日は……なんですか」
「たんぽぽの炊き込みご飯と、スギナのかき揚げ。おひたしはハコベよ」
「ぜんぶ、道に生えてるやつ……」
「そ。松山さんが歩いた道にも、ぜったい生えてる」
松山は頬をかすかにゆるめて、小さくうなずいた。
無言で箸をとり、ご飯を一口。
――しゃくっ、とした噛みごたえと、春の土のような香り。
そこに、米の甘みがふわっと重なってくる。
「……んまい」
短く言って、もぐもぐと口を動かす松山。その目尻が、ふだんよりやわらかい。春乃はうれしくなって、奥からヨモギ茶を出してきた。
「これ、去年のヨモギを干してたやつ。今年は、香りがちょっと強いかも」
「……こんな店、ほかにないすよ」
ぽつりと、松山が言った。
春乃は「ふふっ」と笑って答えた。
「ほかにあったら困るな。みんな、草食べるの怖がってるんだから」
ドアが開く音。
二人が振り返ると、見知らぬ若い女性が戸口に立っていた。ロングコートに大きなスーツケース。どうやら旅の途中らしい。
「……あの、予約とかしてないんですけど」
春乃はすっと立ち上がり、にっこりと笑う。
「いらっしゃい。草、食べに来たの?」
「……草?」
「うん。よかったら、春の味見していって。空いてるよ」
そう言って案内された女は、ちょっと戸惑いながらも席についた。
松山がそっと会釈する。女も軽く頭を下げた。
春乃は厨房に戻り、たんぽぽの炊き込みご飯をもう一膳よそいながら、心の中でつぶやいた。
――春の芽は、ちゃんと誰かの目にとまる。
だから私は、今日も草を摘む。
外の街路樹の根元には、小さなオオイヌノフグリが咲いていた。
その青い花を見ながら、春乃は次の献立を思いついた。