爺さんの入団
ヒースランドは、大戦前は野球どころと言われ、夏の高校選手権大会では、何度も優勝している名門野球高校がありその高校から、数多くのプロ野球選手を輩出している土地柄であったらしい。
市の重役と経済界は、焦土と化した土地でボロボロでも力強く生きている市民の復興のシンボルとしてプロ野球球団の創立に動き出し、当時のイーザニア連邦プロ野球機構もプロ野球人気の上昇と勢力拡大のために新規球団創設に踏み切り、新規球団の応募を受け付けることとしていた。
しかし、その応募に応える要件を揃える必要があるが、如何せん焦土と化した土地ではまだまだ資金集めの目処が立たず、ヒースランド出身の有力選手が数多くいるにも関わらず選手集めができない状態が続いた。
母方の曾祖父は、ヒースランドの野球名門高校を卒業したばかりで、地元信用金庫に就職が決まり地元中小企業への外回りとして働き始めていたが、ドルフィンズの初代監督の「左本」さんに強引にキャッチャーとして入団させられたとのことだ。
また、一面が焼け野原となってはいたが、国立銀行のヒースランド支社やデパートなどの頑強であった建物はボロボロとなってはいたが、建物自体は残っており生き残っていた社員や職員たちが、業務を再開しながら復興にあたっていた。
市役所庁舎も頑強だったようで建物は残っており、生き残った職員により業務再開をしていたが、庁舎の周りは広い焼け野原が残っていた。
ドルフィンズの旗揚げの挨拶を初代監督が入団した選手とコーチを後ろに控え、市役所庁舎の前で焼け野原に集まった多くの目を輝かせた市民の前で発表した場面を曾祖父は、酒に酔っ払うといつものように遠くを見るような目をして熱く曾祖父の息子、俺の爺さんに語っていたそうだ。
なんとか、球団創設にいたりイーザニア連邦プロ野球機構に参加しリーグ戦に参加することができるようになったが、選手への給与支給、寮の整備、用具の調達さえままならない状態が何年か続いたそうだ。
初代監督の左本さんは、ヒースランドの野球名門高校の卒業生でオースラップ・パンサーズの強打の三塁手として何度かの優勝にも貢献し、選手引退後は、パンサーズの監督としても活躍していた人材だ。
まず、左本監督は選手の住むべき場所の確保が必要なため、パンサーズの監督時代の伝を頼って市役所庁舎からほど遠くない場所にあった宿屋のお上さんに宿泊と食事を頼み込んだ。
もちろん、宿泊代と食事代については支払えるあても無かったことは言うまでもないようだ。
それでも、その宿屋のお上さんはドルフィンズのためならばと快く引き受けたそうだ。
用具についても、左本監督は旧知のヒースランド市内にあるスポーツ用品店に頼み込んだ。
こちらについても代金の支払いについては保障できるあても無かったたが、ドルフィンズのためならばと快く応じてくれたらしい。
こんな話を子供の頃から聞かされていれば、20才の俺でも粋に感じてしまう。