なんでもない、けれどなにものにもかえがたい日
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雨は嫌いだ。
折った足は痛むし、頭痛もする。洗濯物は乾かないし、湿気が肌にまとわりついて気持ちが悪い。
あの人たちがいなくなったのも、雨の日だった。
「ううっ。頭まで痛くなってきた」
「ん、ゆう? 大丈夫?」
起き上がろうにも起き上がれず、ベッドでうずくまる俺の身体にまとわりつく熱すら鬱陶しい。
「やめろって……あぁもうっ」
汗で湿った素っ裸な元基の身体を押しやるも、その動きでまた痛みが増した頭を抱えた。
(くそっ……せっかく休みなのに……。)
昨夜のうちから仕込んでいたフレンチトーストを思い出した。
フリーターの俺とサラリーマンの元基が同じ休みを取れるのは珍しい。
冷凍しておいたバゲットを砂糖と牛乳、卵と溶かしたバターを少し加えた卵液に浸しておいたのだ。
今頃バゲットは黄色く染まっていることだろう。なのに、なのにこの鈍い頭痛と足首の疼痛のおかげでベッドから出ることができない。
元基にだって辛く当たってしまうのも、本当ならしたくはないのに。
「おはよ」
八つ当たりの俺を甘やかすように肩を撫でる。会話は出来てはいるが元基だって眠そうだ。
眠いときの元基の声は十歳年上の男とは思えないほど、幼い。
頭を揺らさないようにゆっくりと腕を潜り込ませて元基の背に手を回す。
首は動かしたくないからその鎖骨に軽く口付けた。
「……おはよう」
お返しのキスはつむじだった。
元基の手のひらが静かに髪を撫でるのを受け入れつつ、今日の予定を思い返す。
もう少ししたら起きて、バゲットを焼く。一枚はプレーン、もう一枚はチーズを乗せて。
それから水出ししておいたアイスコーヒー。元基はブラック、俺はカフェオレ。
あとはヨーグルトが賞味期限切れそうだからいちごジャムで食べるか……。
その後は洗濯……。
いや、雨か……。どうするかな洗濯物。細かいものは室内干しでも構わないけど。
ぐるぐるとやることリストを巡らせていたら、俺の眉間に指が触れた。
「ああもう、夕雨、シワ寄ってる。ほら、くせになるから直して」
指は眉間から額を流すように伸ばされる。ゆっくり丁寧に何度も何度も。
「それ、きもちい……」
「そ? 良かった。じゃあもうちょっと」
そう言って今度は両手を使って眉間から眉を辿りこめかみに流される。
痛みもそのまま流されていく気がする。
うっとりと手の動きを堪能する。
「……夕雨本当に気持ちよさそうだね」
「あぁ、ちょっと頭痛いの治った、ありがと」
目を開くとすっかり目が覚めたらしい元基の顔が近付いて、唇が触れ合った。
「どういたしまして」
おはようのキスもありがとうのキスも、おやすみのキスも教えてくれたのは元基だ。
恋人なら、家族なら当然なんだと。家族でキスなんてするのかって聞いたら、元基の家ではするらしい。母親が、オーストラリア人だった。
愛を知らない俺に、ゆっくり、丁寧に、根気よく愛を伝える元基に、抵抗なく返せるようになったのは最近だけど。
「夕雨、足も痛むんじゃない? ちょっと揉んであげるよ」
見抜かれていた足の痛み。
俺の腕から抜け出した元基が足元までたどり着くと、薄手の布団から俺の足だけを抜き出した。
左足を持ち上げると膝に乗せ、手を当てた。
「手当てって、本当に手を当てるだけでも効き目があるんだって」
「なにそれ、スピなんとか?」
「スピリチュアルね。そうじゃなくて、人の手っていうのは癒やすためにあるんだって。だから昔の人は手当てって言葉を創ったんだろうね」
元基の手のひらが触れるところから、じんわりとぬくもりが伝わってくる。
なんでこんなに温かいんだろう。
「ちょっと足冷えちゃってるから余計に気持ちいいでしょ?」
「ん、あったかい」
「じゃあ少し揉むね」
俺の足がすっぽりと元基の両手に包まれて、その親指が爪先から足首を通る。
だいぶ体重は増えたけど、やっぱり男にしてはちょっと細い足は俺のコンプレックスだ。
元基の少し焼けた手が骨を直接刺激してくる感じがして、くすぐったい。
何度も足の甲をさする手がそのまま足首を包み込んだ。
くるぶしをぐりっと押されて思わず声をあげる。
「んっ、くすぐったい」
「そう? じゃあもう少ししっかり揉んでおこうか」
元基はそう言うと俺の足を持ち上げて、くるぶしにキスをした。
「それ、必要?」
「もちろん! 俺が夕雨の足が好きなの、知ってるでしょ?」
知ってる。だってはじめて逢ったのだって、この足がきっかけだったのだから……。
◇◇◇◇◇
あれは五年前。
ただでさえ帰りたくない我が家は、母親だった人が亡くなってからは特に帰りたくない場所だった。
夜遊びを繰り返し、女の家に転がり込んで、たまに、家に帰る。
幼い頃、しとしと降る秋雨の日に蒸発したままの父親が買った家は慰謝料代わりなんだと、母親が言っていた。
その母親も春雨の降りしきる中、亡くなった。ほとんど育てられたという記憶がない母親だった。
そんな一人暮らしには不向きな一軒家。
あの日も嫌な雨が続いている梅雨の真っ只中。
飲んだくれていた俺はクラブの階段で足を踏み外した。その時はまだ酒のおかげで痛みは感じなかった。
すっかり夜が明け雨が上がった頃、ようやく痛みと腫れに気付いた俺は、家の最寄りの駅までたどり着くと痛みに耐えかねその場にうずくまった。
出勤前の忙しい時間に、明らかに夜遊びですという男に声を掛けるような人間は皆無だ。
目の前を通り過ぎる革靴やハイヒールは、コツコツと音をたてるだけで俺の前を通り過ぎる。
こんなにうるさいのにこの場には俺だけのようなそんな気分の中、コツリと足音が止まった。
『君、大丈夫? どこか具合が悪いのか?』
朝の爽やかさをそのままに切り取ったような男の佇まいに俺は一瞬痛みを忘れてぽかんとした。
すぐにぶり返した痛みに足を擦れば男は察したのだろう。俺の前に跪き、足を持ち上げた。
『ぃったいっ』
『あぁごめん。うわぁ……結構腫れてる……。折れてるかもしれないから、病院に行こう』
『いいよ、病院なんて……』
『いや、ダメだ! こんな綺麗な足が曲がってしまったらどうするんだっ!』
爽やかさが吹っ飛ぶ剣幕に俺は従うほかなかった。
肩を貸してもらってたどり着いた病院は小さな診療所だった。
『姉さんいる?』
『あら、元基君こっちに顔出すの珍しいわねぇ。若先生なら今準備終わったところよ』
『ありがとう、沖さん。ちょっと急患なんだよ』
あれよあれよという間に連れて行かれた個室には、やはり爽やかな白衣を着た美人が座っていた。
『元基? あんたさっき出勤したところじゃなかったの?』
『けが人拾ってきたから診てもらえないか? 多分左足首の骨折だと思う』
何も説明のないまま診療が始まり、レントゲンを撮り、また診療室に戻るとやはり骨折だった。
『剥離骨折ね。手術も出来るけどどうする?』
『いえ……えっと……』
『あら、怖いのかしら? まぁ開放骨折じゃないし若いからギプスでもすぐに治ると思うわ。ちょっと細すぎるから治ったら運動しないとまた折りかねないわね。それから……』
『姉さん、もういいだろ?』
まくしたてられてびっくりした俺を助けてくれたのは彼だった。
『あんた、仕事どうしたのよ?』
『……有給余ってるからいいんだよ。それよりギプスで本当に大丈夫? 足曲がったりしない?』
『はぁ……失礼ね。ちゃんと固定するから大丈夫よ』
呆れた顔をした女医さんが丁寧に濡らした包帯を巻き付け、固定してくれた。
治療が終わったところで、帰り道が分からない。
戸惑う俺を男が送ると言い出した。
『いいよ、別に……』
『送らせてもらえないかな? 拾った手前心配で、ね?』
爽やかさを取り戻した男の押しの強さに俺は渋々うなずいた。
住所を言えば近くだったようで男の車で送ってもらった。
『じゃあ、また』
爽やかに去った男を見送る。
一人には不向きな一軒家は、母親が居なくなった後は綺麗サッパリ、何もかも捨てたから中はほとんど空っぽだ。
リビングのソファに寝転がり、テレビを付ける。面白くもなんともないワイドショーが流れ続ける中、うたた寝をする。
足の痛みは薬で誤魔化せても、孤独な心は癒やされることはなかった。
しばらくはバイトも夜遊びも出来ない俺は、さらにだらだらとした生活を続けていた。気付けば冷蔵庫の中も財布の中も空っぽだった。
それに気付いた日曜日、仕方がなく重い体と足を引きずりながら駅前のスーパーまで歩いて行くと、水たまりに足を取られた。
『危ないっ』
そのまま倒れそうになる身体を支えた男の手が俺の肩を掴んだ。
『大丈夫?』
振り返ればそこにはあの爽やかな男の姿があった。
『あんた……』
『あぁ、君か……。そんな足でこんな雨の日に出歩いたら危ないじゃないか』
『仕方ないだろ、家に何もねぇんだから』
偶然とはいえ助けてもらった礼も言わずに悪態を付く俺に男は笑った。
『元気そうで良かった』
『足はこんなだけどな……』
かいつまんで状況を話せば男は妙な提案をした。
『要は、バイトもできない、出歩くのも大変。ご飯も食べられないってことだよね? じゃあさ、僕の家で家事、やってくれない? 一人暮らしを始めたばかりで家事がさっぱりなんだよ。もちろんバイト代は出すし、どうかな?』
男はあの女医のようにまくしたてて来た。俺には兄弟もいないから分からないけど、こういうのも遺伝するんだろうか?
『は?』
『住み込みのハウスキーパーってことで、ね?』
なし崩しな同居が始まった。
男、元基と名乗った彼は自分が言うだけあってまったく家事が出来なかった。
広くはないがそれなりの家賃がしそうなマンションは、あれこれ出しっぱなし。コンロには料理をした形跡はないのに、流しには皿やらカップがたまっていた。うず高く積まれた洗濯物は、たまに来る母親が片付けてくれてるそうだ。
いい年の男がそれはどうだろう? と俺は呆れた。
『あんた、見た目なんでも出来そうなのにな』
『そう見える? よく言われるんだけどね、なぜか家事だけはダメなんだよ。なんでだろうねぇ』
最初は爽やかな男だと思っていたが、自室での彼は俺なんかよりもよっぽどだらけた男だった。
部屋着はよれっとしたTシャツとジャージ。頭はボサボサで休みの日は昼過ぎまで寝ていた。
今まで一人暮らしで、自分のために家事をしていた俺には当たり前に出来ることが出来ない。
『夕雨君、これすっごい美味い! なんていう料理なの?』
『いや、単なる野菜炒めだ。味噌味の』
『へぇ~うちの母さんは料理が下手でね。カレーすらマズイって評判なんだよ』
カレーがまずくなるってどういうことだよ。と思ったが人の家の母親を悪く言うのもどうかと思い黙っていたら元基は笑った。
『今度さ、カレー作ってくれる? 普通のカレー』
『普通のカレー?』
『じゃがいもと、にんじんと肉がはいってるやつ。よくドラマで出てくるでしょ? 家庭の味ってやつね』
家庭の味っていうのが何かは知らない。けどまあ簡単だしいいだろうとうなずくと元基が俺の頭を撫でた。
『ありがとう』
これはバイトで、雇い主の依頼にこたえるのは当然だ。ありがとうなんて言われる理由はない。
なのに、笑顔で感謝を言われ、頭を撫でられるのが、なんでこんなにうれしいのだろう?
それに、自分で作って自分で食べるだけの今までの料理と、今の料理はなにが違うんだろう?
ただの味噌味の野菜炒めが、とても美味しい。
元基の言う普通のカレーはもっと美味しく作ろうと、心の中で思った。
足を折って一ヶ月、同居をはじめて二週間経った頃。元基の姉の診療所へ行くとギプスが外された。
『もう大丈夫そうね。さすが若いから治りも早いし綺麗に戻ってるわ……ってなんで元基もいるの?』
『付き添いだよ』
『別に要らないんだけど』
ギプスの取れた足をふたりがじっと見つめているのが恥ずかしい。白く細い足はよりいっそう細くなった気がするし、一ヶ月も洗ってないのだから汚れが目立つ。
これでまたバイト生活に戻れると思った俺を元基が引き止めた。
『ねえ、夕雨君、もうしばらくうちに居てくれない? せめて次のバイトが見つかるまで』
『……なんで?』
元基の車で元基のマンションまで戻る道中、前を見つめたままの元基がいつもよりもこわばった声で呟いた。
『こんな早く治るとは思わなかったし、こんなに君を好きになるとは、思ってなかったんだ』
マンションの駐車場に車を止めて、元基が俺のほうを向いた。
『惚れさせてみせるから、だから……』
『俺、ホモじゃないんだけど』
『知ってる。けど、僕のこと、嫌いではないよね?』
なし崩しに始まった同居は思いのほか居心地が良かった。
一人で過ごすあの家にいるよりはよっぽど。
七時になれば帰ってくる人がいる。休みの日は一日中なにかしら会話をしたり、本を読んだり。付かず離れずの距離に元基がいた。
適当に付き合ってきた女の家にいるときに感じていた居心地の悪さ。それを感じなかったのはなんでだろうか?
たった二週間、されど二週間。
この居心地の良さの理由を知りたいと思った。
『……次のバイト、見つかるまで、な』
『ありがとう! 僕頑張るからっ』
確かに残るとは決めたけど抱きついていいとは言っていない。伸ばされた腕を叩いて、車を降りるとすっかり空は夏色をしていた。
◇◇◇◇◇
「僕が作るって」
「は? お前に任せたら俺の最高傑作が台無しになるだろっ」
「酷いなぁ夕雨は……。じゃあ何か僕にも手伝わせて?」
マッサージのおかげでだいぶ痛みは取れていた。心配してくれるのはありがたいが、俺はおいしいフレンチトーストが食べたいのだ。
「洗濯しないといけないんだけど、シーツは無理だよなぁ」
「なんで?」
「あんな大物、部屋ん中に干せるとこ、ないだろ? これだから雨は嫌いなんだよ」
ふたり分の汗と匂いが染み込んだシーツ。
新しいのを出せば今日寝るときはいいけれど、明日も雨だと洗濯も出来ない。シミにならないだろうかと心配になる。
「そう言えば、裏の通りにコインランドリーが出来てたから、そこ持っていこうか?」
「マジで? 裏ってどの辺?」
「ほら、昔タバコ屋があったとこ、分かる?」
ボロボロのタバコ屋が潰れて壊されたのは去年の秋頃だったか。取り壊されるタバコ屋を見るのが切なくて、近寄らなかった通りだったから知らなかった。
「あそこコインランドリーになったんだ」
「ちょっとおしゃれなコインランドリーでね、カフェもあるから待ってる間にお茶しよう」
「今から飯食うのに?」
「まぁまぁそれはそれ。これはこれ。じゃあシーツ取り替えてくるよ」
俺のこめかみに軽くキスをしてから、ウキウキとした足取りの元基を見送って、冷蔵庫からバゲットを取り出す。
十分に黄色く染まったそれをバターを溶かしたフライパンでじっくり焼いていく。
二枚はそのまま、もう二枚はチーズを乗せて。
付き合うようになってすぐに買った、ころんとしたしずく型のグラスにアイスコーヒーを注ぐ。
一つはブラック、もう一つはカフェオレにして。
期限間近のヨーグルトにいちごのジャムをかけてテーブルに置いたら、遅めのブランチの完成だ。
雨は嫌いだ。
折った足は痛むし、頭痛もする。洗濯物は乾かないし、湿気が肌にまとわりついて気持ちが悪い。
嫌なことは雨のときばかりで、何もかもを思い出させる。
父親の蒸発も母親との別れも、足を折ったのも、何もかも。
でも、ふたりで過ごす、こんな静かで穏やかな雨の日なら、悪くない。
それに知ってる。
梅雨が明ければ、あの夏空が待っていることも。