護りたいもの~第五章
峰島検事達の聴取をすべて終えた後、課長の立ち合いの元、木下は佐倉さんと二人で手分けをし、広い書庫を再度徹底的に探すことになった。大量の書類が収められている中、二人だけでの作業は正直厳しい。それでも外部に漏らしてはいけない案件だったことから、やむを得ず半分に分けて行ったのだ。それを課長が適正に進めているかをチェックしつつ、他の職員に立ち入らせないよう入り口で監視していた。
だが相当な時間を費やしたにもかかわらず、B会議室から運び込んだ段ボール箱の中で蓋が少し破れているものが見つかった以外に特別なことは無く、資料は発見されなかった。さらに地下の駐車場の防犯カメラもチェックし、大飯さんや間中が写っている個所を何度も繰り返して見た。しかし二人の証言通りだったことは明らかになっている。他におかしな動きをした人物もいなかった。
まだ甲府からは再作成されたとの連絡は無い。その為木下は佐倉さんの助言を受けながら、書類紛失事件の調査報告書を作成し終えた。そして今日の夕方、課長に目を通して貰った上で局長へ提出した所である。その結果、明日からは通常業務に戻るよう言われたのだ。
しかしその間ぽっかりと時間が空いてしまった。間中達から仕事の引き上げについて打ち合わせしようとしたところ今日だと切りが悪いと言われ、明日の朝から引き継ぐ事になった為だ。
そこで休憩がてら省内の自販機でペットボトルのお茶を購入した木下は、何気なくB会議室へと足を向けた。そこでは峰島検事が一人で籠り、起案書作りに専念しているはずである。すると気分転換の為に部屋から出ていたのか、手には買ったばかりらしいペットボトルの水を持ち、会議室の鍵を開けて入ろうとしている姿が見えた。
木下が気付いたと同時に、検事もこちらを向く。そこで会釈すると、声をかけられた。
「休憩ですか。私も今そうしようと思っていた所です。どうです。中で少し話しませんか」
断る理由もないため頷き、後に続いて部屋の中に入った。彼は念のために中からも鍵を掛けていた。中には大事な資料がある為、外へ出る時も含めてそうしているのだろう。積まれた資料の脇の椅子に腰かけるよう促され、彼と向かい合わせに座った。
長い間、一人で黙々と作業しているせいだろう。顔色は疲労を隠せていない。ペットボトルの蓋を開け、水をぐびぐびと飲むと大きくため息をついていた。
木下も彼に合わせてお茶を飲む。そこで尋ねられた。
「調査の方は、まだ時間がかかりそうですか」
「いえ、先程報告書を課長と局長に提出しました。後は甲府からの連絡待ちです。明日からは通常業務に戻れと言われました」
「そうですか。ご苦労さまでした」
「いえいえ、検事の作業に比べればたいしたことはありません。そちらの進捗具合はいかがですか?」
積まれた資料の山を横目で見た彼は、苦笑しながら言った。
「確かに目を通す資料が多いので大変ですが、なんとか六~七割程度は終わらせました。あと二、三日もすれば残りの資料が届くでしょう。それまで最後の詰めの作業に入れるよう、スパートをかけているところです」
「大変ですよね。私達の仕事でも大量の資料に目を通すことはありますが、お一人でやられていると気が滅入りませんか」
「正直、時々そう思うこともあります。しかし起案書作りは、局長付の検事が一人で行うと決まっていますので仕方がありません。それに周りから遮断されていた方が集中出来ますから」
「そうかもしれませんね」
しばらく間があったので再びお茶を口に含む。彼も水に口をつけていたが、気まずい沈黙が続いた。報告書は既に提出済みなので、今更書類紛失の件について話すのも妙だ。といって何を話そうかと話題に困った木下は、彼の経歴について尋ねてみた。
「そういえば峰島検事のお家は代々、政治家になられていると伺いました。検事も将来的には立候補されるのですか」
しかしこの話題は余り触れられたくなかったのか、眉間に皺を寄せて話し出した。
「たしかに幼い頃からそう言われています。ただそれまでに学歴も社会的な経験も必要だと、勉強もしっかりさせられました。しかし祖父の後を継いだばかりでまだ若かった父の背中は、いつも頭を下げてばかりでしたから正直気乗りはしなかったですね。それでも時が経つにつれて、先生や社長と呼ばれる多くの人達が、頭を下げにやってくるようになりました。そんな父を誇らしく思い、自分もやがて祖父や父のようになりたいと思えるようになったのは、ごく最近のことです。それまでは検事のままか、やがては弁護士になろうとも悩んだこともありましたから」
「そうでしたか。でもどういうきっかけで政治家も良いと思われたのですか?」
するとさらに彼の表情は険しくなった。
「近年続いている国会での馬鹿げた騒ぎです。国有地を不当に売却したとの噂から始まった野党の追及は、やがて公文書の改ざん問題や隠ぺい問題へと発展しています。しかし政治家は誰も責任を取らず、挙句の果てに全て官僚に罪を擦り付けて、辞任させていきました。そしてそれらの官僚も政治家達を守るように、口を塞いだままです。木下さんもご存じでしょう。そんな様子を見せつけられ、私は同じ国家公務員の一員として、恥ずかしく情けない想いと怒りで一杯になりました。一時期は国を動かす人間の一人だった父も、再び野党となり分裂も経験しました。年を重ね過ぎた今となっては衰えつつあり、巨大与党の愚かな政治家達を排除する力も無い。だからいずれは力を持っていた頃の祖父や父のような、国の為に働く政治家に転身することも悪い選択ではない。そう思うようになったことは事実です。だからと言って、今すぐどうこうするつもりはありません」
「そうでしたか。噂ではそろそろ地盤を継ぐのでは、との話も聞きましたが違うのですね」
そこで彼はふっと笑った。
「今回の疑わしい人物達の背景まで、調査をしていたようですね」
手の内を明かしてしまったと、軽率な発言に思わず頭を下げた。しかし彼は意外なことを言い出した。
「父の跡を継げば、確かに応援してくれる人達は一定数います。だから検事を辞めてもなんとかなるでしょう。万が一落選しても、弁護士になったって良い。今の職を辞して転身し、開業すると同時に身を立てる方法もあります。ただそれでは父が若い頃に経験したような、下積みから始めることになるでしょう。しかし今そんなことに時間をかけている場合ではありません。よほど知名度があるか、転身と共に敵の足元を揺るがす大ネタでも持っていれば大きな武器になり、政治家になることも考えるでしょう。それでも勉強は必要です。まだ私には学ぶべきことが沢山あるし、経験も足りない。今の状況で政治家に転身するのは、時期尚早だと思っています」
「そういうものですか。しかし若くして大した経験や知識も無いのに、知名度だけで立候補し、政治家になっている人達は山ほどいると思いますけど」
皮肉った木下に彼も同意しながら語り出した。
「確かにいますが、そんな有象無象な輩と同じにはなりたくありませんからね。そのような議員に限って、先生、先生と周りから持ち上げられ勘違いをする。そして権力を持つことの旨味を知り、おかしな発言や行動をしたりするのでしょう。さらには悪しき先輩達に倣って嘘を嘘で塗り固め、保身の為に決定的な証拠さえ掴まさなければ良いと開き直る。その態度は、少なくとも国民の代表として選ばれた人間達がやることではありません。日本のトップクラスの高学歴を持ち、その中でも優秀な人材を揃えてきた官僚達もそうです。そうは思いませんか」
木下は自分が非難されているかと思い、どきりとした。今の所仕事上でおかしなことはやっていないつもりだ。しかし佐倉さん程正義感も強くなく、大飯さんのような上昇志向など持っていない。堅実過ぎて面白みがないタイプだと言われたこともある。そんな自分でも今の職場で長く働いていれば周りに染まり、これまで問題を起こしてきた官僚達と同じようになってしまうのだろうか。
峰島の問いにどう答えていいのか分からず黙っていると、彼は言った。
「これまでは醜い派閥争いや不祥事により、トップや大臣がコロコロと代わる愚かな政治家達の代わりに、優秀な官僚達が国を支えていると言われてきました。それが今やどうです。人事権を握られ与党が絶対的安定多数の勢力を持ったことで、長期政権が続いています。その為なのかこれまでの関係が、完全に逆転してしまいました。同時に長らく保持してきた既得権益を守るため、モラルの欠片も無い傍若無人な振る舞いを、政治家も官僚も続けています」
これには頷かざるを得なかった。さらに彼の熱弁は続いた。
「天下り先の確保から補助金をどこに出すか、公共工事業者の選定する権限等、己達の持つ特権を利用した汚職も後を絶ちません。障害者雇用を水増しした不正問題などもそうです。民間企業には罰則規定を設けて置きながら、模範となるべき国や自治体などが法を守っていない。国の制度を守るために、必要悪として止む無く行ったと言う類の犯罪なら、多少同情の余地もあるでしょう。しかし彼らは己達の私利私欲のために、罪を犯しているとしか思えない。しかも同じ罪でも一般の人達が犯すものとは意味が大きく異なることを、彼らは全く理解していません。彼らも私も、国民から集めた税金によって収入を得ています。だからといって国民に謙れ、とは思いません。必要なのは一般企業が、お客様である消費者の為に取る行動と同じです。例えば商品を安く提供したり、より品質の良い物を開発したり、様々なサービスを行うことで支持され利益を生み出す。その対価として給与を得ているのと同じ事ではないでしょうか。私達のような国家公務員は、国民の為に働く義務があります。与えられた業務を誠実にこなし、将来に向けてより良い生活ができるよう、日々働けば良いのです。そうすれば国民の多くから支持され、信頼もされるでしょう」
以前佐倉さんと飲んでいた時にも似たような話をされたことがある。しかし現状は全く違う。対価分の仕事をしているどころか、期待を裏切り国民の生活を危うくしている。特にここ数年の官僚は、信頼を損ねることばかりしていた。
しかも選び抜かれた国のトップであるはずの、自分も含む官僚達の体たらくと理不尽な態度は、後に続く優秀な人材の将来像をも汚している。その罪はとてつもなく大きい、と自覚はしていた。
佐倉さんも良く言っていた。新聞やテレビ、ネットニュースで流れる愚かな行為を見せつけられる子供達は、こんな大人達を見てどう思うのか、と。自分の親や学校の先生達よりも地位が高いと思われる人達が、平気な顔をして社会のルールを破っている。
嘘は泥棒の始まり、人の話を聞く時の態度には気を付けろ、間違った場合は素直に謝ること、人を苛めるな、差別をしてはいけない等など。誰もが幼い頃から当たり前のように学んできた事ばかりである。
しかし国を代表する人達が、当然のように踏みにじる姿を見せつけているのが現状だ。正直者は馬鹿を見る、自分にとって都合の悪い人の話は聞かなくて良い、なんならヤジを飛ばすか力でねじ伏せて黙らせろ、間違いを犯しても簡単には頭を下げるなと言わんばかりではないか。
さらには力が無いから苛められるのであって、苛める側の人間になれ、人間は決して平等ではないから差別は当然等と堂々発言する輩もいる。当たり前のように警察官が人を殺したり、教師が生徒にわいせつ行為や暴力を振るったりするような社会なら、国民やその生徒達は誰も信じることなど出来なくなるだろう。
特に子供は親の背中を見て育つともいう。同じく国を代表する者の振る舞いは、そこに住む国民達の民度に影響を与えるとの自覚を持たなければならないのではないか。しかしそれができていないどころか、意図的に民度を下げようとしているとしか思えない。
現実の社会は目を覆いたくなる振る舞いばかりが目立っている。一方で日本は世界に誇れる良い国だと宣伝する。外国人観光客を多く招いて、国に金を落とさせるが難民はほぼ受け入れない。といって少子高齢化などによる働き手の人材不足を解消するために、海外からやってくる人達を安い賃金で働かせ、そして使い捨てにする。
その上大量に国の金で株を購入して株価を安定させ、円高を食い止め絶対的な安定多数の勢力を武器に、マスコミなどの口を封じてマイナス要因は出来るだけ流さない。プラス要因は大々的に流布させ、経済的には安定または順調に成長していると見せかける。
ただそれもここ最近に起こったと統計不正問題が明らかになったことで、メッキがはげかけて来た。しかしこれでようやく国民も目を覚ますかと思えばそうではない。悪いのは与党ばかりだとも言い切れないからだ。野党もまた非難ばかりで決定的な代替案を示せず、分裂に分裂を重ねることで国民からの信頼を損ねている。
ただでさえ日本人は、政治に関心を持たない人達が多いと言われてきた。さらにはお上に対し、奇妙な位に無条件で信頼している人達も少なくない。その上、皆日々の仕事と己の生活を維持することで必死だ。
その為だろう。目の前の経済さえ良ければそれで満足し、先の事まで見ている余裕はないと考える人達が一定数いる。そうした人達が多い事を利用し、政治家や官僚達は国民を馬鹿にするような言動など慎むことも考えていない。そして絶対的権力さえあれば、何だって出来てしまうことを容認させているのは国民自身なのだ。そういう間違ったメッセージを発信し続けている現状は、絶対に阻止しなければならない。
その為には一人一人何が正しいかを見極める力が必要で、対抗する個人も力を持たなければならないのだろう。しかし悲しいかな、綺麗ごとだけでは通用しないのが今の社会だ。矛盾しているがそれを変えるためには、敢えて泥を被ることも必要だと思う、と佐倉さんは酷く酔っぱらう度に熱弁をふるっていた。
しかしこれまで木下は半ば白けながら聞き流し、深く考えようとしてこなかった。だが峰島の話を聞いて少し分かる気がした。木下は小学校を卒業する間際に事故で父親を亡くした為、長い間母子家庭だった。父が残した死亡保険金などでそれなりに生活は出来たが、決して贅沢など出来ない環境だった。
そうした事情もあって、常に安定した生活を求め必死に勉強をして国立の大学へと進み、公務員試験を受けて官僚になった。父の突然の死を受け、今日あることが明日も続くとは限らない現実を目の当たりにしたことで、臆病になってしまったからかもしれない。または母親が苦労している背中を見て育った影響もあるだろう。
そうした育ちから身に染みた性格は、なかなか変えられるものでは無い。その為冒険はせず、無難な道を選んでばかりいた。恋愛経験も碌に無いまま、昨年近所に住む気心が知れた幼馴染と結婚をしたのもそうだ。穏やかな生活ができればそれでいい、と思って生きて来たのである。
だからといって、仕事などに対してやる気がない訳ではない。時には佐倉さん達に刺激され、正義感や使命感が湧くこともあった。しかし出る杭は打たれる怖さが先に立ち、なかなか先頭に立って突き進むことができない。そんな自分の性格に正直苛立つこともある。
今回の件についても、急に会議室を片付けろと課長に指示されている佐倉さんの姿を見てそれは余りにも酷い扱いだと思い、手伝いを買って出た。あの会議室で作業していたのは自分も含め、佐倉さんより後輩の職員が他にもいたからだ。
それなのに課長が理不尽な理由で佐倉さん一人に仕事を押し付けていた。それが許せなかったのである。しかしそれが災いしてか、大きな問題に巻き込まれ調査する立場に立たされてしまったのだから、やはり余計な事はすべきでなかったのかもしれない。
それでも佐倉さんや峰島検事の言う、公務員としての矜持はわずかながらだが自分にだってある。何か起こった際に対する隠蔽体質や、意味を理解しないまま上が行うことに従う、前例のない事はしたがらない役人気質に、腹を立てたことも何度かあった。
しかし正しい事を正しいと言えない空気に押されてしまい、流されてしまう自分がいたことも確かだ。それでいいのだろうか、どこを向いて仕事をしているのだろうかと自問自答したこともある。だからこそ今回の調査を手伝っていく内に、言われた事だけをコツコツとやるいつもの仕事とは真逆の為、心が熱くなる瞬間が何度か感じていたのだ。
自らの頭で何が必要か、何を優先してどうやって動けば効率的かを考えてきた。そして実際に行動し、その結果を分析して報告書を作り、再び次に何をすべきかを思案する。この繰り返しこそが遣り甲斐なのかもしれないと思い始めていたところだった。
黙ってしまった木下を見て、熱くなり過ぎたと思ったのだろう。峰島検事は急に話題を変えた。
「そういえば、今回の書類紛失事件は、「財田川事件」を知った上で行ったのではないかという話が出ていましたね。木下さんはどの程度ご存知ですか」
「どの程度かと言われましても、ざっとした流れと、検察や警察にとって恥ずべき冤罪事件だったことは知っています」
所謂「財田川事件」は一九五〇年の二月末、香川県三豊郡財田村の自宅で闇米ブローカーの香川重雄(当時六十一)が殺害された事件を指す。後に犯人として逮捕された谷口繁義(当時十九)が兇器を捨てたかどうか、その真実は財田川が一番よく知っている、という彼に就いた矢野弁護士の発言から、いつしか「財田川事件」と呼ばれるようになったものだ。
谷口は香川が殺された同じ年の四月に、隣村の神田農協強盗殺傷人事件で逮捕され、同年七月に香川を殺したと犯行を自供。翌八月にそれまで別件で拘留されていたが、香川殺害の罪で逮捕された。だがこの時の自供による調書や手記は、警察による捏造であると後に疑われたのだ。
しかし一九五二年の一月、高松丸亀支部が谷口に死刑判決を下した。犯行を否認する谷口は控訴したが、一九五六年六月に高松高等裁判所が控訴を棄却。翌年一九五七年一月、最高裁判所が上告を棄却して、死刑が確定。そして谷口の身柄は、死刑執行ができる大阪拘置所へと移監されたのである。そして一九五八年三月二十日、棄却を受け、死刑は動かしがたいものなった。
そのため法務省が死刑執行準備のため高松高検に命じ、「公判不提出書類」を取り寄せることになり、高検は地検に申し伝え、資料一式の提出要求を行ったのだ。
しかしここで奇妙な事が起こった。一九五九年六月二日、地検から法務省に送付された資料の中には、部下の「紛失報告」が添付されていた。つまり死刑施行の為に必要な書類の一部が無くなっていたと言うのだ。
その為起案書を作成することもできず、死刑執行が滞ったのである。そしてそこから約十年の空白期間を経た一九六九年四月、丸亀支部に就任した裁判長矢野伊吉が放置されていた谷口の手紙を発見し、これはおかしいと調査を行った。その上でこれは冤罪事件だと疑い、第二次再審請求の手続きを開始したのである。
しかも驚くべきことに、再審決定がなされれば矢野裁判長は退官し、谷口の弁護をすると発表したのだ。しかし様々な力が働いたのだろう。再審の「決定」は延期となった。そこで一九七〇年八月に矢野裁判長は、定年まで五年を残して退官。その後弁護士となった彼は大阪を訪れ、谷口と面会し弁護人選任届を作成したのだ。
当時も今もそうだが、裁判官が在任中に担当した事件を扱うことや、その内容を公表したりすることはタブーとなっている。しかしそれを破り、矢野弁護士はまず国を相手取って、損害賠償請求の民事訴訟を起こしたのだ。
彼の奮闘が実り一九七六年十月には最高裁が差し戻しを決め、一九七九年六月には高松地裁が再審開始を決定。高松地方検察所が即時抗告を提出したが、一九八一年三月に高松高裁が地検の即時抗告を棄却した。そこで同年九月に谷口は大阪拘置所から高松拘置所へ移監され、高松地裁で再審が開始されたのである。谷口が逮捕されてからここまで三十一年の歳月が流れていた。
しかし悲劇にも一九八三年三月、裁判の判決を聞くことなく七十一歳の若さで、矢野が急性肺炎で死去したのだ。そして同年九月に再審が結審し、翌年の三月高松地裁は谷口に無罪判決を出し、即日釈放したのである。逮捕から三十三年、十九歳だった谷口はすでに五十二歳になっていた。
そして彼は七十四歳で脳梗塞などを患い、心不全で死亡した。晩年は一部のジャーナリストの取材は受けていたものの、静かに暮らしていたと言う。
「あの事件で多くの問題が明らかになりました。事件当時の谷口は、よからぬ仲間と事件を起こしていたことから、素行が悪い人物だったことは確かです。別件で傷害事件を起こしていましたからね。しかし香川を殺した犯人がなかなか見つからない中、焦った警察がなんとしても谷口を犯人に仕立て上げようとしたことが、間違いの始まりでした」
昭和の四大冤罪事件とまで称されたこの事件の事は、法務省に入るまでにも関連書物を読む機会があった。その為木下でさえそれなりには理解している。
「素行が悪いという風評だけで、別件で逮捕した彼を不当な理由で長期に勾留し、拷問までして無理やり自白させたようですね」
「そうです。警察は百十日を超える強引な取り調べで、自白を強要しました。それだけではなく、供述調書や谷口の手記を警察や検察の手で捏造までしています。さらには自白した調書の中にある兇器とされた刺身包丁は、捨てたと言われる川からも発見されていません。そして谷口が有罪であると決定づけた血の付いたズボンも、彼の弟から無理やり取り上げたものでした。当時はDNA鑑定などありませんでしたからね。いい加減な鑑定でたまたまついていたO型の血痕が被害者の血と一致すると思われる、という曖昧かつ捏造された物的証拠により、有罪へと導いたのです」
「それを検察だけでなく、裁判所までもが疑わずに死刑判決を出してしまったのですね」
「そうです。最高裁まで上告して棄却され、死刑が確定されました。しかしそこで救世主が現れます。事件から十九年後に就任した矢野裁判長が、それまで黙殺され続けてきた谷口からの再審要求の手紙を発見し、動き出しました」
「当時の関係者達に様々な聞き取りを行ったようですね。そこで検察の調書を書いた事務官から話を聞き、多くの矛盾点が明らかになり捏造の疑いが浮上した。そして事件は冤罪だと確信した矢野裁判長は、再審請求の手続きを取る手助けをされたのでしたね」
「確信に至った経緯の一つが、裁判では使われなかった公判不提出書類が紛失していたことです。谷口の自白に沿わない証言などが全て抹消されていました。おそらく検事達の手によるものだと言われています」
「悪質極まりないですね。しかし現在でもいくつか表面化している冤罪事件というものも、大なり小なり、そういった有り得ない実態が裏で行われて発生しています」
「そこです。財田川事件もそうですが、多くの冤罪事件では先達が一度出した判決を覆すことなどできないと考える警察や検察、そして裁判官が思考停止して起きました。さらに悪質なのは、先の判決を貫き通そうとして嘘に嘘を重ねることにあります」
「今の国会で行われている騒動と、まるで同じですね」
「その通りです。しかし矢野裁判長はそこに立ち向かった。後に彼は自らが愛した裁判官という立場から、警察や検察庁、裁判所や法務省にまで疑惑を持ち批判しなければならなかったことに苦しんだ、と述べています」
「そうですね。大変勇気ある正義感を持った行動と、簡単には片付けられないほどの大きな決意と覚悟があったのだと思います。定年まであと数年という長い間続けてきた裁判官という立場を捨てたのですから。一人の人物を救うために弁護士となり、かつての仲間達を敵に回し、それでも真実を明らかにするなんて、自分ならできないと思います」
「木下さんは正直ですね。しかしそこが重要なポイントなのです。多くの方はそれができずに思考停止してしまいます。または現在の状況や地位などを守るため、真実ではないと気付きながらも、正義に反する行動を取ってしまう。しかしそれはしょうがない、と言って片付けられるものでしょうか。私はそう思いません。人一人の命がかかっているだけではなく真実を捻じ曲げることは、自らの職務を根本から否定することなのですから」
間違ってはいない。ただ自らの立場に置き換えた時、素直に頷けないため、反論した。
「しかし現実問題として、皆一人一人に生活があります。そこまで身を削れというのは、酷ではありませんか。個人で責任を負うには、余りにも犠牲が大きすぎます」
「ですからそうならないよう個人ではなく組織全体で、あるべき姿に戻そうとする力が働かなければなりません。組織が何のために存在しているか。その根本の理念を忘れ、個人ではなく組織自体を守ろうとするから、歪みが生じるのです。人は間違いを犯します。だからこそ素直に頭を下げ、正す姿勢が求められるのではないでしょうか」
余りの正論に言い返すことができず、俯いてしまった。峰島はそこで話を切り上げた。
「少し休憩を長く取りすぎましたね。そろそろ仕事を再開しないといけません。木下さんも仕事にお戻りください」
我に返り席を立って部屋を後にした木下は、今までの己の仕事における姿勢に対して反省をしながら部署へと戻った。その足取りはとても重く、胸の痛む思いをしながら歩いたのだった。
その日、早めに帰宅した木下に妻の智花が声をかけて来た。
「お疲れ様。今日は早かったけど、元気がないわね。大丈夫? どこか体の調子が悪い?」
「そういう訳じゃないけど、そんな風に見える?」
「うん。最近は忙しそうだったけど、何となく張り切っているというかいつもと違う感じがしていたのに、今日は疲れているように見える」
彼女とは幼馴染だからか、多くを語らずとも通じ合える仲だ。これまで仕事の内容について詳しく話したことなどなかったけれど、彼女はここ数日の普段と異なる様子に気付いていたらしい。言われてみれば、佐倉さんと一緒に書類紛失についての調査をし始めてから、これまでやってきた仕事では味わえない奇妙な充実感があった。
「そう? そんなに張り切っているように見えた?」
「うん。何事も淡々としているアックンにしては、とても楽しそうだったよ」
彼女は木下の事を下の名前の秋雄からとってそう呼ぶのだが、意外な言葉に驚いた。
「楽しそう?」
「大変な仕事をしているんだろうから、楽しいなんて言ったら不謹慎かな。でも今までやったことのない新しいことをしているんだろう、とは思ったわよ。それがアックンに合った仕事なのかもね。生き生きしているって言った方が良いのかな」
予想外の見方をされていたことに戸惑った。今やっている事は法務省での仕事としてはイレギュラーな事だ。それなのに合っているとか生き生きしているなどと言われても困る。しかしどうしてそう感じたのかがとても気になった。長い付き合いの彼女がそう言うのだ。何がそう思わせるのかを木下は知りたくなった。
そこでひとまず着替えを済ませていつもより早い夕飯を済ませた後、できるだけ仕事を家に持ち込まないという一人で密かに決めていた信条を破り、ここ数日していたことを彼女に説明してみたのである。
しばらく黙って頷いたり驚いたりしていたが、一通り聞き終わると彼女は言った。
「そんなことをしていたの。だからいつもと違ったんだ。今の話だとそう滅多にある仕事ではなさそうだけど、やる気というか本気度が高かったからじゃないかな。あなたは真面目で堅実だし、冒険するタイプじゃないよね。こう言っちゃうと誤解されるかもしれないけど、結婚相手としては安心していられる。あなたも自分でそう思っているんじゃない? 父親が早くに亡くなって、母親にとても苦労させたと思っているからかもしれないけど」
「そうかもね。だから今回の仕事は首を突っ込み過ぎると危険なんだ。下手をするとおかしなことに巻き込まれてしまう。だから佐倉さんにはこれ以上踏み込めないと思ったら、身を引くかもしれないと伝えてある。だって智花と結婚したばかりだし、地雷を踏んで仕事を首になったり、降格人事をくらったりする訳にはいかないからね」
「それは考え過ぎじゃない? あなたは何も悪い事なんてしていないじゃない。それどころかおかしなことをした人が誰なのかを調べている訳でしょ。責任を取らされるいわれはないと思うけど」
「官僚組織というのはそんな単純な所じゃないんだ。それなのに佐倉さんは踏み込み過ぎる気がするから危なっかしいんだよ。正義感が強すぎるというか、真面目過ぎるというか」
「真面目なのはあなたもそうじゃない。正義感もあるわ。石橋を叩いて渡らない堅実さは公務員としてある意味必要な事なのかもしれないけど、多分あなたは佐倉さんと同じように、今回の事件の裏にある真相を究明したいという使命感が強いんだと思う。だから忙しくても楽しく見えるし、充実しているように見えるんじゃないかな」
「そんな自覚はないんだけど。それどころか峰島検事や佐倉さん程真剣に考えた事なんてないんだよ」
「あなたとは今までこういう仕事関係や社会情勢の話なんてほとんどしたことがないわよ。でも口にしないだけで、同じ思いをしていたんじゃないかな? 私だってそうよ。最近はテレビや新聞やネットを見れば、政治家だけでなく官僚の人達が叩かれてばかりいるじゃない。あれを見て腹が立たないはずがないでしょう」
「そうなのか?」
「そうよ。それにあなただって立場上言わないだけで、本当は心の中でそう思っているんじゃない?」
そんなことは無いとも言い難く、何と答えていいか困り言葉に詰まっていると、彼女が急に話題を変えた。
「ねぇ、小学校の同級生の華ちゃんって覚えている?」
「華ちゃん? そんな名前の子がいたような気がするけど、よく覚えてないな」
「そうなの? アックンって華ちゃんの事が好きなのかなって思っていたんだけどな。本当は覚えているんじゃないの? だって小学校四年生の時、あの子が女子の間で苛められていたのを止めたことがあるじゃない」
そう言われると徐々に頭の中に小学校時代の事が蘇り、教室の風景が浮かんできた。
「ああ、思い出した。そんなことがあったね」
「そうよ。華ちゃんが囲まれて困っている時、アックンが苛めなんてカッコ悪いからやめろよ、って言ったのよ」
ぼんやりとしていた記憶が少しずつ鮮明になっていく。
「そうだった。確か教室で他の男子と遊んでいる時、直ぐ近くでおかしなことをやっているから腹が立って、そんなことを言った気がする。苛めていた奴の中心にいた女子は何て言ったけ。そいつが嫌いだったから、思わず呟いた程度だったんだけどね」
「やっぱり覚えていたんじゃない」
意地悪そうに笑う彼女に、木下は慌てて首を振った。
「いや、あれは別に華って子が好きだったからじゃないよ。どっちかといえば暗い感じだったから苦手だったと思う。苛められやすいタイプだったんじゃないかな。おかげでその後、俺が攻撃されたんだよ。五年になる時クラス替えで離れるまでずっと絡まれていた覚えがある。黒板に相合傘でその子と名前が書かれたり、トイレで大の方をしていたら、女子なのに男子の方まで入ってきて、臭い臭いとか言われたりしたんだ」
「そうそう。私はあの時、別のクラスだったけど話だけは聞いていたから、本当に好きだから苛めを止めたのかと思ってた。でもアックンは完全に無視していたよね。何をされても平気な顔をしてた」
「あの集団だけだったからね。男子でも一部では好きなの? とかからかってくる奴はいたけど、大抵は何も言わない奴が多かった気がする。だから平気だったんじゃないかな」
「アックンはあの頃から頭が良かったじゃない? 勉強ができて周りから一目置かれていたからだと思うな。宿題を見せてあげたり、分からない所があったら教えてあげたりしていたでしょ。私も同じクラスで隣の席になった時、助けて貰ったことがあるし」
「そうだった。だから男子で一番の悪ガキには気に入られていたよ。だから苛められなくて済んだのかもね。でもそんな昔の事、よく覚えているな」
「それはそうよ。あの頃は真面目だけでなく正義感が強くて、人に優しかった。まだアックンのお父さんが事故に遭う前だったからかもしれないけど」
胸がドキリとした。急に鼓動が激しくなる。彼女はそんな木下の様子に感付いたらしい。
「ごめんね。嫌な事を思い出させちゃって。でも元々アックンはそういう人だったことを思い出して欲しかったの。母親と二人で生活するようになってからは大変だったと思う。あれから少し人が変わっちゃったのは、仕方がないことだとも分かっている。でも私があなたの事を好きになって結婚したのは、そういうことも含めてだから。今のように堅実なあなたも、本当は芯の強い人だということも知っている。佐倉さん一人に任せず会議室の資料の片づけを手伝うと手を挙げたのは、あなたの正義感からじゃないの?」
照れくさくなった木下は、顔が赤くなるのを隠す為に俯いた。それでも彼女は話を続けた。
「ここ最近あなたが生き生きしているように見えたのは、そういうことだと思う。だから遠慮なんかしないで思いっきりやればいいのよ。別にいいじゃない。出世が見込めなくても死ぬわけじゃないし、クビになったからってあなたなら大丈夫。いざとなれば私だって働けばいいんだもの。まだ子供もいないし何とかなるって」
彼女は木下との結婚を機に、働いていた大手損害保険会社を退職して専業主婦になった。しかし今の時代を反映してか保険会社も働き手不足らしく、OBの再雇用を積極的に行っているらしい。最近も彼女のかつての同僚から、直接誘いの電話があったと聞いていた。
これには木下も慌てて顔を上げ、言った。
「おいおい、怖いことを言うなよ。クビになんかなってたまるか。なんの為に国家一種試験に合格して官僚になったと思っているんだ。生活に困るようなことはしないさ」
「だからって、自分の心に嘘をついてまで仕事をするのはやめてよ。そうやって流されていくうちに罪を犯すくらいなら、出世なんかしなくていいからね。それに心を病んだり上司をかばったりして自殺するような人には絶対なって欲しくない。目立たなくていいし堅実なのはいいけど、私達に胸を張れないような仕事はしないで。今あなたがやっている事は、とても大事な事だと思う。だから勇気を持って取り組んで欲しい。それはあなた自身が一番分かっているんじゃないかな」
彼女にここまで言われたのは初めてだ。仕事の話は当然ながら、心の中に抱えていたことをここまで見透かされているとは思いもしなかった。そしてこんなに彼女が頼もしいと感じたこともない。
木下は父が亡くなってからのことを思い出す。片親になったことで当初は同情的だった友人達もいたけれど、中学に入ると違う小学校から合流した同級生が増えたことが影響したらしい。母子家庭であることを弄られるようになったのだ。
小学校時代はかばってくれていた悪ガキ達も便乗し、贅沢が出来なくなって小さくなった古い靴をいつまでも履いているとからかわれもした。父が生きていたら地元の公立ではなく、中学受験して私立の中高一貫校を受けていたはずだった。進学塾だけでなく英会話教室にまで通っていたが、それもできなくなったことで木下は落ちこぼれと見なされ、苛めの対象となったのである。
そして入学した地元の公立中学の学業レベルは低く、その為か教師も酷い人が多くいた。本来いるはずのない勉強ができる生徒など、逆に邪魔だったようだ。例えば英語教師より発音が良かった木下は、目を付けられ授業で当てられることなく無視されるようになった。
特に酷かったのは、教室で生徒の持ち物の紛失騒ぎがあった時など、普段から素行の悪い問題児が先に疑われるはずのところを、貧乏だからと言う理由で犯人扱いされた時だ。おそらく嘘の告げ口をした生徒がいたらしい。おかげで職員室へ何度も呼び出され、正直に言えと迫られた。
それでも頑として認めない木下は、母まで呼び出しを受けた。もちろん息子を信じてくれた母だったが、帰宅した後恥ずかしい思いをさせたのは、贅沢させられない自分のせいだと泣かれてしまったのである。
そうした環境を抜け出すため、木下は休み時間も友人と話さず参考書を広げ、机に向かって勉強に打ち込むようになった。周囲とはなるべく関わらない様、そして目立たないように心がけて毎日を過ごしていたのだ。
その努力が実り、高校からは公立ではあるものの地域では有名な進学校へと進学することが出来た。そんな経験をしてきたからこそ、下手に自己主張せずコツコツとやるべきことだけをする、今の人格が形成されたのだと思う。
妻の智花も同じ高校に進学し、大学も一橋の近くにある津田塾女子大へ入ったことから近所に住んでいた彼女と一緒に通学するなど交流が続いていた。それでも正式に付き合い出したのは社会人になってからである。
しかし智花は木下のことを長い間近くで見続け、好意を持ち続けいたらしい。働きだして経済的に自立し余裕が出てきてからその事にようやく気付き、安らぎを与えてくれる彼女と一緒に過ごす時間が増えていった。
幼稚園時代からの繋がりもあり、母親同士も仲が良かった為に二人が結婚すると聞いた時は両家とも相当喜んでいたと聞いている。そうしてようやく掴んだ幸せな家族を大切にし、決して失いたくないと強く思うようになった。
だがその日の夜は峰島検事と話した後に感じた思いや、かつて佐倉さんが熱く語った言葉を思い返した。木下はその日なかなか眠れなかった。脳が興奮していたからだろう。
しかし次の日の朝、彼女が笑顔で言った言葉で目が覚めたような気がした。
「おはよう。あまり眠れなかったようだけど大丈夫? 無理はしないでね」
その言葉を聞いて強く頷いた。
「大丈夫。今日も一日頑張ってくるよ」
そうして部屋を出た。するとこれまでにないほど清々しさを感じた。空を見ると薄曇りの天気だったが、木下の心は晴れ晴れとしていたのだった。
局長に報告書を提出し終えた佐倉は、その後課長室で今後の事について簡単な打ち合わせをすることになった。だが途中からは愚痴や雑談へと移った。
最初に課長が口にしたことは、報告書の中身についてである。
「大飯や間中を、調査対象から外すことは出来なかったのか」
言わんとすることは理解できた。現在疑わしいとされている人物の中で、二人は総務課の職員であり、彼にとって直属の部下だ。もし彼らの責任問題となれば、管理責任者としても処罰を受ける可能性がある。そのことを心配しているらしい。
「今の段階では、間中はともかく大飯を外す明確な根拠がありません。もちろん私も個人的には早急に外したいと思っています。しかしそんな恣意的な報告書を出せば、逆に彼らが疑われかねません。調査対象の一人である峰島検事辺りから、平等な調査結果ではないとクレームが出れば面倒な事になります」
佐倉の説明に納得せざるをえなかった彼は、深く息を吐いた。
「そうだったな。相手は検事だ。下手な小細工は通用しないだろう」
「そうです。それに今回の報告書でも間中はまずシロとみて間違いなく、大飯も対象者ですが特に怪しい結果は出ていないと書きました。ご心配はいりません。後は現時点で最も怪しいと疑われる、甲府での調査を待ってください」
「そうするしかないか。それにしてもGPSシールが見つかったり、加治田の父親らしき人物が声をかけてきたりと、おかしな事が起こったものだ。余計に問題が複雑化してしまっている。どうなっているんだ」
「こっちが聞きたいくらいです。それにまさか局長からこれらの調査を私が任されるなんて、思ってもいませんでした。それこそどうなっているのか、教えて欲しいですよ」
「しょうがないだろう。私だって驚いたんだ。今回起こった問題について、関係したもの以外に情報を広めたくないと考えたのは致し方ない。当然の判断だったと思う。問題はあの場に峰島検事がいたことで、調査しないという選択肢が無くなったことだ」
「そうですね。偶然居合わせたとはいえ、検事がいらっしゃったことは今回の件に大きな影響を与えたことは確かです」
「彼はあくまで出向中だから法務省の人間ではない。後あと騒がれては困る。そうなるとあの場にいた人間で、書類紛失に関わっていないと思われる者に調査を任せるしかないだろう。それが課長の私以外には、お前達二人しかいなかったんだ。諦めるしかない。しっかりやってくれ」
これ以上この件について頭を悩ましたくないと割り切ったのか、課長は話題を変えた。
「佐倉は確か大学は一橋だったよな。大学時代の友人とは、今も付き合いがあるのか」
「年賀状のやり取りをたまにする程度です。少し前までは、結婚式の二次会などによく呼ばれていましたね。最近は少し落ち着きましたけど」
「年齢はいくつだったかな。入省して確か八年目だったと思ったが」
「そうです。今年で三十になりました」
「ああ。君の大学くらいだと、それなりの企業に勤めている友人が多いからだろう。社会人になって数年経ったら落ち着くのか、二十代辺りで結婚する子達が多いだろうな」
「そうですね。第一弾で大学時代から付き合っていた子がいる同期が、一年目で結婚し始めました。それが済むと三年目辺りで第二弾、五年目辺りで第三弾という感じでした。最初の頃はおめでたい事ですし式に呼ばれること自体珍しかったので、余程のことが無い限り出席していました。しかし後半になると飽きてしまい、祝儀貧乏になるばかりなのでよっぽど親しい友人以外の誘いは断るようになりましたが」
基本的に勤務地は都内に限られ転居がほとんどなかった祖父とは違い、父が務める警察庁では地方への配属や出向などがあった。その為佐倉は転勤に伴った転校も多く経験してきたおかげで、孤立しないように友人を早くつくる術を身に着けてきた。
ただ基本的には都内で過ごした期間が長く大学も東京だった為、入省してからも同期を中心として、親しくしている友人の数は比較的多い方だと思う。だからなのか結婚式の案内状がやたらと送られてきた。しかし相手方とバランスを取る必要があるためか、招待する側としても独身官僚の友人だと招待しやすかったのだと後々気が付くようになる。
結婚式というものは、独身者達の新たな出会いの場として利用されるだけでなく、出席する友人達の肩書も大事らしい。金銭面もあったがそういう煩わしさも手伝って後半は足が遠のいた、と言うのが本音だった。
「こういうことを聞くといけないのかもしれないが、まだ結婚する予定はないのか」
佐倉はずっと共学の学校に通っていた。その為異性と話すことに抵抗感も無かったため、そうした友人も少なくないし、過去には恋人もいたこともある。けれど大学時代に付き合っていた人とは就職後の一年目の冬に別れた。恐らくあの時相手は結婚を考えていたと思う。
しかしその気がなかった佐倉に愛想を尽かしたのだろう。その証拠に向こうは二人が別れたその翌年に結婚した、と別の友人から聞かされた。あの頃も結婚すること自体が嫌な訳ではなかった。だが今となっては、守るべきものを持つ煩わしさが先に立つ。
その後も好きな人は出来たが、付き合っていることを公にする事は憚られた人だった為、こっそりとデートを重ねていた時期はあった。けれど彼は二年前に佐倉の前から姿を消したのである。あれから人を好きになることなど諦めたと言っていい。
木下から以前言われたことを考えると、さらにその思いは強くなった。それに忙しく働いていれば、結婚したいと思う相手に巡り合う機会などそうそうない。その為あれから異性と付き合う関係のないまま三十になり、独身生活を続けている。
ただ独り身の気楽さに慣れてしまったからか、休日でも外出し遊びに出ることなど稀で、一日中部屋にいることが多くなった。下手をすれば好きな推理小説を夢中で読んでいる内に、日が暮れていたことなど何度もある。
二つ上の姉は、二十八歳の時に都庁に勤める公務員と結婚して専業主婦となり、既に男女二人の子供を産んだ。最近の両親は既に初孫を抱いて、近くに住む彼女達の世話をする幸せを満喫しているらしい。おかげで佐倉に対しては、早く結婚しろと小煩く言われることが少なくなった。
しかし昨年相次いで亡くなった祖父母達には、申し訳ないことをしたと思っている。ただこればかりは一人でどうにかできることでもない。それこそ縁が無いと難しいものだ。
「今のところはないですね。大飯もまだ独身ですが、彼の事は知りませんよ」
課長の問いを軽くかわすと、矛先が変わった。
「そうだったな。しかし君の所もそうだろうが、彼の父親は特に超エリート官僚だったから、下手な相手とは付き合えないだろう。見合いなどもしていると聞いたことはあるが、なかなか親の目に適う相手がいないらしいと耳にしたことがあるよ」
彼らしいエピソードだが、実際は少し違う。本人はどちらかというと肉食系でガツガツしているタイプだが、父親には頭が上がらないらしい。だから彼が連れて行く女性は、どうにも気に入って貰えないそうだ。
逆に親が連れてくる相手は相性が合わないタイプばかりで、親の顔を立てながら断るにも一苦労だと聞いている。しかし詳しくは口にせず適当に相槌を打っていると、それ以上掘り下げはされず、さらに話題が変わった。
「佐倉の同期だと中小企業なら別だが、大企業に勤めているとまだ管理職にはなっていないか」
「そうですね。会社の規定によって名称も違いますから単純には比べられませんが、早くて課長代理クラスだったと思いますよ。他はだいたい主任とか係長じゃないですか」
「そうだろうな。特に君達の年代は上が詰まっているからね。私達のようなアラフィフのバブル世代がまだ多く残っていれば、部長クラスに上がるのは至難の業だろう」
「そのようですね。でもその下の四十前後の方達は、就職氷河期に入社した為人数が極端に少ないとも聞きます。だからその五十代前後の人達が抜けると、一気にポストが空くからチャンスだといっている先輩方がいましたね」
「そうかもしれないな。その分経験が伴わない若い人材ばかりになると、仕事のバランスが崩れる。しかも最近は厳しくするとパワハラだ、何だと騒いですぐ会社を辞めてしまう若手が多いからな。管理職になっても今まで以上に大変だろう」
「一般企業はそうかもしれませんね。公務員でも若干そういう傾向はありますが、税金から給与を頂いているとの意識があるからか、それほどブラックだ、なんだとは騒がれないですよね」
「省庁や部署にもよるが、官僚なんて思いっきりブラックだよ。それでも一般企業に比べて表沙汰にはならない。世論としては税金を貰っているのだからもっと働け、という見方が強いからかもしれないが」
「国会が開かれて厄介な問題が起こると、徹夜仕事になる部署も少なくありませんからね。そうではない時もありますから、よく言えばメリハリがあるのは確かです。それで課長達のような管理職になったらなったで、忙しいでしょう」
佐倉達の仕事も、普段は比較的淡々としたペースで仕事が出来る環境にある。しかし急ぎの仕事が入ると、それこそ徹夜になることもしばしばだ。今の時代はSNSなどが発達していることや、労働局の監視も厳しくなった為、一般の大きな企業では昔と比べると労働環境は改善されているらしい。
それでも時々自殺者が出たりする。しかし官僚は国家公務員だから、仕事に関することを外部に漏らすことは禁じられている為、ブラックボックスとなっているのが現状だ。国会でも論議された働き方改革法案などは、一般企業向けのものであり公務員に対するものではない。
「そうだな。確かに局長レベルともなれば、国会に呼ばれて答弁させられたりするから大変だよ。でも実際はそれ以上に、下にいる人間達が懸命に資料を引っ張り出し、原稿の作成を手伝わされたりするからもっと過酷だ。しかしそこは見過ごされている」
「昇格したらしたで、責任が重くなるだけでなく仕事量も増えますから、良い事ばかりではないですよね」
「ああ。でもどうせ同じ仕事をしていくのなら、よりやりがいのある事をしたいだろ。その為には少しでも昇進すれば権限も得られる分、仕事の幅も広がる。サラリーマンではないけれど、上を目指すことは悪いことじゃない」
「そうですね。まだ目の前にある仕事をこなすことで必死な私には、良く分りませんが」
「いまはそれでいい。そうやってコツコツと懸命に勤めあげていけば、自ずとその先にあるものが見えてくる。佐倉は真面目だから課長クラスにまで昇進するのは、そんなに時間がかからないはずだ。まあ要領のいい大飯の方が早いとは思うが、その先は二人共難しくいだろうな」
課長は少し寂しそうに話した。佐倉は頷く。
「はい、それは承知しています」
課長が決して意地悪を言ったわけではないことは理解していた。なぜなら法務省は、他の省庁と違う。検察や裁判官など法曹界の人材が出向して入省し、局長や事務次官などの重要ポストを占めるからだ。つまり佐倉や課長のような法務省から入った職員にとっては、ほぼ課長クラスまでで頭打ちになる。局長クラスまで昇進できるものは稀だった。その為佐倉には複雑な表情を見せたのだろう。
どこで教育を間違えたのか。何故私達が産んだ子供があのような犯罪者になってしまったのだろうか。智彦は永智が事件を犯して逮捕された後、何度となく考えて来た。最初は永智が嵌ったカルト教団のせいだと信じ、あの子は悪くないと思っていた。しかしそれは間違っていたようだ。きっかけは確かに教団に入ったことだろう。それでも四人もの命を奪った、鬼畜の所業と呼ばれても仕方がないことをしたのは、永智なのだ。
妻との間に初めて生まれた我が子は三二〇〇グラムと大きく、元気で玉のように可愛い男の子だった。智彦の一字を取り、永く二人の宝のように育って欲しいと願って永智と名付けた。最初の子だからと、なんでも自由にさせて甘えさせたのがいけなかったのだろうか。下に妹が生まれた後すくすくと元気に育った息子だが、段々と親の言うことを聞かなくなった。それをどこにでもある反抗期程度だと、甘く見ていたことが大きな誤りだったのかもしれない。
それなりに勉強をして、大学は東京へ行きたいと言うから好きなようにさせた。そこで永智が以前から興味を持っていたカルト集団に自ら近づき、入信したと分かった時には驚いたものだ。それが上京の目的だったと言うことも、相当後になって知ることとなる。妻と一緒に何度も教団へと押しかけ、連れ戻そうとした。弁護士にも相談し、同じように悩み苦しんでいる親達と一緒に乗り込んだこともある。それでもあいつを連れ戻すことが出来なかったのだ。親を見る息子の目は、もう自分達が知っているものでは無かった。
「親なんていらない。自分が信じる道を行く」
そう目の前で宣言され、周りからも諦めるしかないと慰められて数年が経った。残った娘の幸せのことを考えると、もうあの子は死んだものと思い、縁を切った方が良いと考えたこともある。おかげで娘は結婚が出来て、子供も二人産まれた。私達にとっても大事な孫達だ。彼女達の生活を守るために、永智のことはずっと黙って暮らしてきた。
しかしそんな自分達に罰が当たったのだろう。突然あの子の名がテレビのニュースで流れだした。しかも一家四人を惨殺した疑いで逮捕されたというのだ。もちろん娘の夫の親や親戚からは、なじられた。
「何故、あんな息子がいることを黙っていた! 私達を騙したな!」
離婚を突き付けられた娘は、子供達を連れて実家へと戻ってきたが、それはそれで地獄だった。智彦達が住んでいた家では、殺人鬼を生んだ奴らだと毎日のように電話が鳴っては怒鳴られ、外からは石を投げつけられた。窓ガラスを割られたこともある。家の壁やドアには落書きもされた。これでは住んでいられないと、まず妻の実家へ娘と孫達が逃げ込んだ。もちろん加治田の名のままではいられない為、離婚届を出して旧姓に戻って貰った。しかし妻の実家でも、嫌がらせは完全に無くならなかったようだ。
その為娘は別の離れた場所に移り住むこととなった。するとしばらくは平穏な生活に戻れたようだが、少し経つとどこからから噂を聞き付けた人が現れるのだ。そして殺人鬼の妹がいる、その子供も近くにいるらしいと騒ぎ出すらしい。そうなると学校で孫達は苛められ通えなくなる。それ以前に娘が生活費を稼ぐために働いていたパート先を解雇され、その街で生きていられなくなった。そして再び遠くの土地へと離れ、生活を立て直さざるを得なくなったのだ。それでも何年か経つと、思い出したように噂が立ち始めて結局その土地を逃げ出す。そんな生活を繰り返していたのである。
妻はなんとか実家に籠り、嫌がらせや誹謗中傷を受けながらも、両親達や一部の理解者に守られて何とか生活できているらしい。それでもどこかで理不尽な殺人事件が起こる度に思い出されるのか、嫌がらせは続いているそうだ。いつまでこんなことが続くのか。永智の死刑が確定されてからも状況は変わらない。刑が執行されたとしても、私達が生きている限り、殺人者の親として一生日陰に身を置きながら被害者やその遺族に対して償う日々を送るのだろう。そして目に見えない第三者の悪意に晒され、叩かれ続けなければならない。そう思うと何がどう間違っていたのか、これからどうして生きていくことが正しいのかと考える。その度に答えの出ない無限地獄へと陥るのだった。