護りたいもの~第二章
峰島は柳生忠正刑事局局長の元に向かった。彼は現在刑事局付の検事である為、直属の上司は局長だからだ。しかも問題は決して小さなものでは無い。これは厄介なことになりそうだと、佐倉は改めて覚悟する。
当然その場には、自分達の直属の上司である刑事局総務課の渡口課長も呼ばれていた。峰島から書類の紛失に気付いた時の様子や、その後の経緯も含めて説明している間、渡口は顔を青くしていた。それもそのはず、峰島以外の四人は全員総務課の所属だ。問題となれば、間違いなく課長の管理責任も問われるからだろう。
話を一通り聞き終わると、局長が確認の意味も込めて尋ねた。
「つまり紛失した裁判書類は、間違いなくここに無いと考えていいのかね」
「はい。ここにいる三名で探した結果と、他二名にも話を聞いたことを合わせれば、こちらの会議室に持ち込まれる前から、無くなっていたものと思われます」
「ちょ、ちょっと待ってください。それなら峰島検事は、書類を運んだ大飯と間中の失態だとおっしゃるのですか」
課長が抗議すると、大飯と間中もそれに同調した。
「私達が途中で紛失することはあり得ません」
しかし興奮している三人とは対照的に、峰島は静かに反論した。
「私は途中で無くなったとは断言していません。もちろんその可能性もゼロではないでしょう。しかしここに運ばれてくるまでの間に、裁判書類を誰かが抜き去る、または意図せず抜け落ちたとすれば、後は甲府地検での受け渡し時しかあり得ないと思います」
「し、しかしそれは先程ご説明したように、私と間中、そして先方の三人で間違いなく揃っていることを確認しています」
「それは伺いました。しかし確かめながら、資料一式をスーツケースに入れる作業を行ったのですか」
峰島の冷静だが厳しい質問に、大飯は怯みながら答えた。
「い、いいえ。揃っていると判った後に、間中と二人でスーツケースに詰め込みました」
「ならばその間に誰かが抜き去る、または間違って入れ損ねたということはあり得ませんか。入れ終わった後に書類の数を確認したり、数を確かめながらケースに入れたりした訳ではなかった。そうですよね。つまり移している間に、何かが起こった場合もあり得ます」
「ぬ、抜き去った人がいるとは思いません。私達は間違いなく、書類を全て、」
大飯は断言したかったようだが、記憶が曖昧になったのか自信が無くなったらしく、途中で言葉が途切れた。その様子を見た峰島はさらに詰問口調で質問した。
「それでは受け渡し時の状況を、詳しく説明してください」
大飯は大きく深呼吸してから姿勢を正し、彼の問いに答えた。
「こちらの書庫と同じように、地検の資料室の入り口には腰より少し高めで、広めのカウンターがありました。そこへ先方の監理官が事前に確認し用意していた、資料一式が入った段ボールを奥から出して乗せられました」
「ではお二人と監理官とは、カウンター越しで迎え合わせになっていたのですね」
「はい。その状態で監理官が箱から資料を出し、中身をリストで確認しながらカウンターの空いた場所に置いていきました。私達もそれをずっと見ていました。そして間違いなく揃っていることを見届け終わったところで、私達の足元に置いてあったスーツケースに山と積まれた資料を下ろして詰めこんだのです」
「ということは、カウンターが腰より少し高めですから、ややしゃがむ形になりますね」
「はい。しかし二人共が別々に積み込みましたから、それ程時間はかかっていません。カウンターに置かれた資料から目を離したとしても、ほんの一瞬かせいぜい数秒ぐらいです」
「しかしそれだけの時間があれば、積まれた資料の一部がカウンターの向こう側、つまり監理官側に落ちることもあり得たかもしれませんね」
予想外の質問だったのだろう。それでも彼は戸惑いながら何とか答えた。
「そ、そういったことが無かったとは言い切れません。確かにカウンターの向こう側までは、私達から見えませんから。しかし落ちたとしたら、監理官が気付かれるはずです」
「普通はそうでしょう。しかし気付かなかったのかもしれません」
「そうですね。でも落ちたくらいなら、すぐに見つかるはずだと思います」
「私もそう願っています。だとすれば別の方に再度受け取りに行っていただけば済むでしょう。それに越したことはありません」
そこで局長が指示を出した。
「それでは峰島検事は至急、甲府地検に連絡して該当の書類が間違って書庫に残っていないか、調べるよう伝えなさい。ここの電話を使っていいから」
「了解しました。拝借します。先方で立ち会ったのは、波間口検務監理官でしたね」
「はい。地検の資料室管理責任者です。電話番号はこちらになります」
確認された大飯が答え、胸元から出したスマホに入力されていた番号を、画面に出して見せていた。書類のやり取りをする為に、登録していたらしい。受話器を取った峰島は、その番号を打ち込んだ。そして相手を呼び出し、要件を伝えていた。連絡を受けた先方でも、事の重大さを理解したのだろう。慌てている様子が受話器から漏れ聞こえてきた。結局書庫を探してから、後に折り返し電話することとなったようだ。そこで峰島は自分のスマホの番号を伝えていた。
話終わって電話を切った彼は、局長に頭を下げた。
「ありがとうございました。先方が探している間、早速残りの書類の精査を始めたいと思います。その間に先方から見つかったと連絡があれば、申し訳ありませんがもう一度どなたか回収に行っていただけますか。できれば今回の二人以外が良いかと思います」
「いえ、もし書庫に残っていたとすれば、私達の責任でもあります。二人でもう一度行かせてください」
大飯が反論すると課長が首を振った。
「検事がおっしゃるように、他の職員に行かせた方が良いでしょう。そうだ佐倉、お前が行ってくれるか」
突然指名された為驚いていると、峰島が頷いた。
「そうですね。佐倉さんのお仕事に支障が無いようでしたら、お願いしたいと思います。それに今回は持ち帰る資料も一部だけですから、お一人で十分でしょう」
「いいえ、一部とはいえ重要な書類です。一名だと何かあった場合に対処できなくなりますから、もう一人行かせましょう。木下、お前は行けるか?」
課長の言葉に彼は納得したらしく、頷いた。
「分かりました。この件は最優先すべき案件だと思われますので同行します」
「それは助かります。ではよろしくお願いします。ただ先方から見つからないとの回答があった場合は、別途打ち合わせをさせてください。それまでは各自、それぞれの仕事に戻っていただいて結構です」
淡々と述べる彼の言葉にひやりとした。もしも見つからなければ、本当に大事件になる。それこそあの「財田川事件」以来の、資料が全て揃っていなかった為に長年死刑執行命令を下す書類が作成できない事態と同じだ。
しかし「財田川事件」は、警察や検察による杜撰な捜査と証拠隠滅の可能性も取り沙汰された不祥事である。さらには冤罪であることも後に明らかとなった。よって結果的に死刑執行への流れが止まったことは、皮肉にも不幸中の幸いとなった案件である。
だが今回は違う。冤罪事件でも検察が裁判記録を破棄するような理由もない。よって粛々と手続きを進め、死刑執行に向けて書類を作成しなければならないものだ。執行自体は早くて二、三年後である。遅ければ数十年と執行されない。
それでも裁判記録が紛失し、書類が作成できず死刑執行できないとなれば、大変な不祥事となるだろう。ただ昔と違い、今は様々な形で裁判記録などが残されている。紛失した記録がデータ保存されていて再作成可能なものであれば、作り直すことも可能だ。しかしそれが難しいとなると一体その先はどうなるのか。考えただけで恐ろしい。
「では検事の言う通り、各自持ち場に戻ってくれ。ただしこの件に関して、ここにいる職員以外には絶対他言するな」
局長の一声で全員が解散し、それぞれ職場へと戻ることになった。しかしまだ昼食を取っていない佐倉は大飯に声をかけた。お腹が空き過ぎて仕事どころではない。まずは腹ごしらえが必要だ。それに彼とは少し話をしておきたいこともある。
「ああ、そうしよう。さっきまでは食欲も無かったが、急に空いてきたよ」
問題は解決していないものの、まずは一段落が付いたためか緊張が解けたらしい。そこで二人は遅い食事を取りに外へ出ると課長に告げ、庁舎を出た。すでに時間は三時近くになっている。ランチタイムなど終わっている店ばかりだ。
そのため近くのファストフード店へ入ることにした。セットに単品も加えて注文をし、学生達が出入りし始めていた店内の隅に席を取る。二人はハンバーガーをむしゃぶりつくように無言で食べた後、ようやく息をつくことができた。適度にざわついている中で大飯が深く息を吐く。
「ふう。やっと生き返った気がする」
「何を大げさな。しかし面倒な事になったね」
佐倉は小声で告げる。彼もまた頷きながら呟いた。
「本当だよ。厄介なことになった」
「確かに書類は大量にあったけれど、検事が言っていたように一部だけ置き忘れてくるなんてこと、普通は有り得ないでしょう」
「いずれにしても俺達が戻った頃か、もうしばらくすれば結果が出ているはずだ」
店を出て席に戻った佐倉達は、再び局長室に呼ばれた。そこで思った通り、峰島から連絡を受けた甲府地検は丹念に資料室を探したが、どこにもなかったと聞かされたのである。
もちろん書庫の管理責任者である波間口対しても、地検の上司により聞き取りを行ったそうだ。しかし書類を落とした、ましてや抜き取った事実など無いと断言したらしい。
こうなると完全な紛失事案となる。後はどう対処するかだ。無くなった裁判記録の項の三が再作成可能かどうかも、今調べているという。これで佐倉達が甲府へと急遽飛ぶことはなくなった。しかし問題はさらに悪化してしまっている。
先ほど局長室に揃った時は、立ったままで報告をしていた。だが今回は応接用のソファに各自座らされて説明を受けることになった。そして今後どうするかを、じっくり打ち合わせしようと言われたのである。
「改めて説明するが、少し前に峰島検事の携帯へ甲府地検から連絡が入り、資料は見つからなかったとの報告を受けた。それを聞いて局長の私から再度地検の上層部に確認の連絡を入れたが、同じく無いとの回答だった。先方の説明では、間違いなく資料一式が揃っていることを確かめた上で大飯達に引き継いだ。よってその後の事はこちらの責任ではない、とはっきり言われたよ」
「私は波間口監理官に携帯で直接話を伺いましたが、書類の確認やその後の受け渡しの状況は、大飯さんから伺った通りでした。しかしチェックを終了した後は、大飯さん達が書類をスーツケースに詰めていく様子をカウンター越しに見ていただけだったそうです。その為、一切資料に触れたりはしていないと断言されていました」
「検事と局長のお話からすると、資料の紛失は引き渡した後に起こったと先方は主張している。ただ幸いなことに再作成が必要であるなら、少し時間はかかるけれども可能だと言う連絡が先程入ったので依頼しておいた。数日もすれば連絡があるだろう。その時は改めて書類を回収しに行って欲しい。その任務は先程告げたように、佐倉達二人に任せる」
局長と検事の後に課長が補足説明をいれた。再作成が可能ならば、起案書の作成に支障はない。これで最悪の事態は避けられそうだ。しかしデータが残っているとはいえ、メールなどで送信できるものでは無い。改めて各部署の責任者などの捺印やサインを取り、書類として完成させなければならないのだ。
お役所仕事ではあるが、人一人を国家が殺すかどうかを決めた大事な裁判資料等の一部である。それも止むを得ないことだろう。
「現在、その他の書類に目を通していますが、十日程度かかると思います。課長の言われたスケジュールであれば、起案書の作成にそれほど支障は無いでしょう」
検事は取り寄せた裁判資料の中身を見て、審査を行う。問題なければ死刑執行起案書が作成され、多くの上層部質の目を通して決済されていく。
「資料が再作成され、私達が甲府地検へ取りに伺うことに異論はありません。ただ今回の紛失に関しては、どう対処するおつもりですか」
佐倉が課長に尋ねると、彼は眉間に皺を寄せて局長の方を向き、何かを確認して頷く。そしてこちらへ向き直り答えた。
「起案書の作成に支障はないが、重要な裁判記録が紛失したことは大きな問題だ。この事態が外に漏れては大事になる。だから絶対他言は無用だ。いいな。その上でこれは局長からの指示だが、佐倉と木下には内々で資料を探して欲しい。甲府地検から再作成された資料が出来たとの連絡があるまで、この庁舎の内部での捜索を徹底してやってくれ。それでも見つからなければ、甲府に書類を回収に向かった際、先方での聞き取り調査と書類の捜索をして欲しい」
佐倉は想定外の指示に、思わず尋ね返した。
「え? こちらを再捜索するだけでなく、甲府地検でも探すのですか?」
「こちらで見つからなかった時はそうしてくれ。もちろん甲府地検が手放した後の流れを徹底的に裏付けして、それでも見つからなかった場合だ。そうでないと先方を捜索する名目が立たないからな」
「こちらとしても調査した結果、甲府から運びだす前に紛失した可能性が高いと先方に納得させるだけの証拠を掴む必要がある。だから生半可なものではなく、確実にこちらにはないと胸を張って言わなければならない。分かったな」
局長によるさらなる念押しによって、佐倉達は頷かざるを得なくなった。
「検事は引き続き書類の審査を行ってください。その他の二人は通常業務に戻るとともに、佐倉達が今抱えている急ぎの仕事を引き継いでくれるか。それと調査への協力は積極的に行ってくれ。検事もお忙しいとは思いますが、その点はご協力ください」
「もちろんです、渡口課長。佐倉さん達も遠慮なく確認したいことがあれば、いつでも会議室に来てください。これから少なくとも一週間以上は、ほぼあの部屋で缶詰め状態になっているでしょうから。しかし私がお話しできることは、大飯さんと二人で書類の有無をチェックしていた時の事しかありませんが」
「それではこれで解散だ。ああ、佐倉と木下と課長は残ってくれ」
局長の一言で峰島や大飯達が席を立ち、部屋を出て行った。その後課長が口を開いた。
「調査の件は予断を持たず取り組むように。佐倉は大飯と同期だからやりにくいだろうが、そこは仕事と割り切ってくれ。今回の紛失に関わっているのは、基本的に今出て行った三人だが、外部の人間の可能性だってある。局長はそこもしっかり調査するようにとおっしゃっているから頼んだぞ」
これには佐倉も驚いた。
「外部、ですか? 第三者が裁判資料を持ち去った、とでも?」
今度は局長自らが口を挟んだ。
「予断を持つなと言ったはずだ。大飯達が山梨からここへ運ぶ間、何らかのトラブルがあった可能性も考えろ。まずないとは思うが、念のためだ」
「死刑執行が止まることを望む人物による犯行、とでもおっしゃるのですか」
「可能性としてはゼロではないだろ。幸い紛失した書類が再作成可能なものだったから、起案書の作成に支障はなさそうだ。しかしそんな事は、第三者や素人に分かる訳がない。かつての財田川事件や死刑執行の流れに関心を持って調べた人物がいて、資料の一部が無くなれば死刑を止められる、と考えても不思議ではないだろう」
確かにかつて起こった「財田川事件」では、裁判資料の一部がなかったことで起案書が作成されなかった。その為死刑判決が出た谷口繁義は、長年死刑が執行されず放置されていた経緯がある。当時の死刑を求刑した検事の手により、紛失または廃棄された疑いもあったそうだ。
結局冤罪だと証明されたため、死刑が執行されなかったこと自体に問題は無かった。しかし今回それとは意味合いが異なる。
すると横にいた木下が、鋭い質問を投げかけた。
「今回の紛失の件は、本当にそこまでして調査するおつもりですか」
これには局長と課長の動きが一瞬止まった。彼の言う通りだ。書類の紛失調査は本気でしていいものなのか。そこまでやるのか。実際には再作成できるのだからそのまま問題は無かったことにしてもいいのではないか、と問うているのだ。
このところ各省庁における決裁書類の改ざんや紛失、または廃棄等についてでたらめな文書管理をしていると、野党の議員や世間から相当な非難を浴びていた。法務省でも二〇一八年一二月に全国二十九の保護観察所や地方更生保護委員会で公文書を綴ったファイル、計七千六百八十八件を誤って破棄していたことが省内の調査で分かったと発表している。
中身は職員の出勤簿や表彰関係の文書に加えて、事件関係の記録や統計作成のための元データであり、保存期間が過ぎていない公文書も十二件あった。さらには年が明けた二〇一九年には厚生労働省における統計不正問題の発覚を機に、法務省でも再び不祥事が明らかになっている。
外国人労働者の受入数や実態、外国人技能実習生の失踪者数などが法務委員会で取り上げられた際のことだ。具体的な数字や根拠を示さなかっただけでなく、失踪理由ついて政府が報告していた内容が虚偽であったと報告しなければならない失態を犯した。
だからこそ法の秩序を守る法務省において、これ以上同じような事を起こしてはならないと考えるのも無理はない。佐倉達がB会議室で行っていた文書管理もその一環で実施されたものだったから余計だ。しかしこの紛失の真相を探るには、相当な労力がかかると予想される。
まずは身内を疑うことから始まるのだ。結果によっては傷口を大きく広げかねない。さらに外部犯行説まで飛び出すのなら、藪を突いて余計なものを引き出してしまうこともあり得る。マスコミなど外部に漏れる危険性もあった。その為木下は、局長と課長がどこまで本気で言っているのかを率直に尋ねたのだろう。
他の三名がいる手前、調査は本気でやると言っただけではないか。実際は表沙汰となった時に備え、そこまではやったとのアリバイ作り程度で済ますつもりではないか。結局紛失自体をうやむやの内に隠蔽してしまうつもりではないか、という核心を突いた質問だ。
さてどう答えるかと佐倉も息を飲む。しかしその回答はあっさりしたものだった。
「言った通りだ。やり方はお前達に任せる。まずは内部と外部の両面を調査し、何も出てこなければその結果を持った上で、甲府地検にヒアリングしてくれ。それでも書類が出てこない時は、また改めて打ち合わせを行う。以上だ」
局長は立ち上がった。これ以上言う事は無いとの意思表示だろう。続いて課長も席を立ち、局長に頭を下げた。結局調査の指示は出したが、どこまで突っ込むかは佐倉達に一任した形だ。部屋を出た後、これは面倒な仕事を押し付けられたものだと頭を抱える。そこで木下に声をかけられた。
「しばらく他の仕事はできないでしょう。まずは今抱えている案件を大飯さん達に引き継ぐことから始めますか。調査に関する打ち合わせはそれからですね」
「そうしようか」
気を取り直して席に戻った佐倉は先に戻っていた大飯達を呼んだ。そしてとりあえずここ一カ月以内には手を付けなければならない案件に絞り、それらの引継ぎを行った。それは結局夜までかかった。その為今日は荷物を運びだすことから始まり、手近な仕事を手放す代わりに厄介な仕事を抱えこむことで終始した一日だったことになる。脱力感と虚しさだけが残った。
先日三十になったばかりの佐倉は独り身だ。これから独身者のために用意された官舎へ帰るが、どこかで遅い夕食を済まさなければならない。昨年結婚したばかりの木下は、少し離れた場所にある省庁が借り上げたマンションに住んでいる。そこに帰れば食事は用意されているのだろう。
しかし今日はこのまま帰る気にならなかった。その為悪いとは思ったがちょっと飲んでいこうと誘ったのである。そして彼の知っている小洒落た居酒屋へと入った。そこを選んだのは個室があったかららしい。内密の話が出るだろうと気を利かせたのだろう。彼らしい判断だ。
席について食べるものを適当に頼み、ハイボールを注文した二人は軽く杯を持ち上げた。
「お疲れ様」「お疲れ様です」
そうお互いが呟き、最初の一口を飲んで息を吐いた彼が口火を切った。
「佐倉さんはどこまでやればいい、と思っていますか。徹底的に調べるか、お叱りを受けない程度の範囲でさらりと調べて終わらせる方法もあるでしょう。どう考えます?」
「そういうあなたはどう思う? 荷物運びを手伝っただけで、こんなことに巻き込まれたのだから、やる気なんて起きないんじゃない? 正直に言っていいよ」
「申し訳ありませんが、本音を言えばそうです。さらりと調べて報告し、後は責任を負わされない程度に済ませ、上の判断に任せればいいと思っています。でも佐倉さんは違うお考えをお持ちではないですか」
妙に真面目過ぎて融通が利かないと昔から言われ続けてきた。法務省に入って今の部署に着任してからも、周りからはそう見られている。生まれ持った性格というのはなかなか直らないものらしい。実徹と書いて“みゆき”と読ませるいう名前は、警視庁の警察官であった祖父が付けたものだ。
実直や誠実などで使われ、嘘や偽りのない本当の事を意味する“実”と徹頭徹尾や一徹、貫徹などと使われる“徹”という字を併せた名である。正直にとことん自分の意思を貫き通し最後までやり遂げる人間になれ、と言う願いが込められていると言う。
その為幼い頃から事あるごとに、嘘をつくな、そして筋が明確に通っていて一貫していることを意味する透徹で、冷静に物事の根本まで深く鋭く見通す冷徹さと、清く透き通る様を表す朗徹な人間になれ、と父親からも厳しく躾けられた。
その事に反抗する気など起きないほど、心と体に刷り込まれていたのだろう。学校の友人達には真面目で面白みがない奴だとよく言われたものだ。一方で嘘をつかないから信頼できる、頼りがいがあるという評価もされた。
佐倉はそういう自分が好きとか嫌いなどと考えたことがない。自分は生まれた頃からそういう人間なのだと信じ、言い聞かせていたのかもしれない。祖父の影響を受けたのか、佐倉家一族が代々公務員を多く輩出していたこともあったのだろう。
父は東大を卒業して国家公務員一種を受け、警察庁に入庁した。高校を卒業して警視庁に入るための試験を受けたノンキャリアの祖父が、苦労していた姿を見てきたからかもしれない。キャリア組となり、今年定年を迎えて関東管区警察局の局長の職を辞したばかりだ。
祖父が警視庁で警部補として退官した事と比べれば、父はそれより五階級上の警視監まで昇りつめた。警視庁でいえば副総監や部長職の役職だ。
そんな父の影響を受け、一橋大学を卒業して同じく国家公務員一種を受けた佐倉だが、入省出来たのはあまり人気がないと言われる法務省だった。国家一種の合格者の中でも優秀な成績を収めた者は、上から順に財務省や警察庁、次いで外務省や防衛省や経済産業省や金融庁へと入る。
しかしそこまで優秀ではなかった佐倉は、競争の激しい人気のある省庁は選べなかった。ただその中でも法務省を選択したのは理由がある。かつては序列筆頭の省であった法務省の任務は、基本法制の維持及び整備、法秩序の維持、国民の権利擁護、国の利害に関係のある争訟の統一的かつ適正な処理、並びに出入国の公正な管理を図ること、と謳われていた。
祖父や父は警察として国民の安全を守ってきた。その根本となる法律に関わる仕事に興味を持ち、国民の権利擁護の為働くことに意義を感じたのだ。決して安易な考えで選んだ訳ではない。父にも入省する際に相談はしたが、反対されることなく背中を押してくれさえした。
「自分がそう思ったのなら、信じて前に進みなさい。その初心を忘れず仕事に邁進していれば、後悔することはない。国民の為に身を粉にして働く覚悟さえあれば、それでいい」
喜怒哀楽の激しかった祖父とは対照的に、父は寡黙で感情を表に出さなかった。そんな父が淡々と、しかし噛み締めるように発した言葉である。だから入省して十年目になった今でも忘れたことは無い。
そんな佐倉の血筋と性格を木下は知っている。さらに近親が起こしたあの事件のことも念頭に入れた上で、彼はどうするつもりだと尋ねたのだろう。
「木下くんには申し訳ないけど、さらりと調査して終わらせることは私の性分からして無理だよ。もちろん私達は警察じゃないから捜査権もない。調べろと言っても人員は二人。限界はあるだろうし、何も分からずに終わるかもしれない。でも折角調査しろと言われたのだから、少なくともここまで徹底的に調べた、と納得するところまではやってみたい」
「例えば、どんな感じで調べるつもりですか?」
「まずはこれが単なる事故による紛失か、意図的な紛失かを明らかにしないと。それに関係して書類が落ちる、または抜き取られる可能性がある場所となると三か所だけだから、そこは調べる必要があるかな」
「三か所? 甲府地検の書庫か、こっちの会議室以外にどこがあります?」
「その間、道中よ。課長も言っていたように何かトラブルがあった、または意図的であればその間に抜き取ることもできる」
これには木下も驚いて反論してきた。
「ですが大飯さん達はスーツケースから目を離していないし、肌身放さず持っていたと言っていました。それにもしそうだとすれば、本当の意味で事件になってしまいますよ」
「それが本当かは分からない。その件について尋ねた時の二人の反応には、若干違和感があった。何か隠していることがありそうな気が私はした」
「そ、それは本当ですか。じゃあ、あの二人が絡んでいるってことですか?」
「いや、そうとも限らないよ。何かあったとしても、直接紛失と関係するかは今のところはっきりしない。セキュリティは万全だったはずだから」
そこまで言うと彼は唸った。
「なるほど。ではまずはあの二人に甲府からここへ来るまでの出来事を、再聴取する必要がありますね」
「正直に話してくれるかどうかが問題よ」
「そうですね。隠した犯人なら嘘をつくかもしれません。しかしそうなると何故そんなことをしたか、動機が気になります。軽い処罰では済まされないでしょう」
「そう。紛失が意図的だったとすれば、何らかの目的があるはず。誰がどんな動機を持っているのかを探る必要があるでしょう。紛失が単なる事故だったとしたら、場所は今のところ甲府か道中しか考えられない。こっちは会議室や書庫など可能性のあるところを徹底的に調べているからね。甲府の方は資料の再作成が出来て回収する際、調べるしかないかな。そうなると道中で目を離した時間帯が無かったかを、先に見定めないと」
「まずはそこから手を付けるってことですか」
「そこで立証した内容から、外部犯行の可能性があるかも分かるんじゃないかな。今の所、意図的に隠せて資料一式に触れることができたのは、大飯達と検事を含めて三人だけ。しかし外部の人間も含むとなれば、調査の範囲が広がるから厄介になる」
「峰島検事も対象ですか?」
「当然入るでしょう。意図的に隠したとなれば検事だって可能性がないとは言えない。動機は分からないけど、それは大飯達も同じだからね。今の時点で外す理由は無いと思うよ」
「なるほど。とりあえずまずは大飯さん達に山梨からここの会議室に運ぶまでの間の出来事を聴取するとして、その次はどうしますか」
「改めて地検での受け渡し状況の聞き取り、そして会議室での峰島検事と一緒に書類を見始めた際の状況を確かめる。再度詳細に聴取して、大飯と間中くんの話が一致するかどうかだね。それらを完全に調べ切った後でないと、書類は無いと否定している甲府に乗り込んで調べることもできない。そうでないと向こうも調査に応じてくれないだろうから」
「責任問題になりかねませんからね。大飯さん達の話を聞き終わったら、どうしますか?」
「峰島検事に大飯達から書類を受け取った際とその後の行動を聞く。それが彼らの証言と一致するかの追認も必要だからね。抜き取ったとしたならそれが可能だったか、そしてどうやって今なお隠し続けているか、を見極めなければいけない。後は動機さえ分かればいいんだけど、そこまで探るのは難しいかな」
「ああ、そうか。峰島検事が係わっていたなら事故で紛失という可能性は無いから、意図的にやった場合しかない。そういうことですね」
「そう。検事のこれまでの経歴や過去に扱った事例なども含め、動機に繋がるものがあるかを突き止めることも必要になるかもしれない」
「え? そこまでやるつもりですか?」
目を丸くする彼に佐倉は答えた。
「その必要があればよ。その前に書類が発見されるかもしれない。それに大飯達の動機を探る方が先になるかもしれないでしょう。話によっては第三者が関わっている可能性があるし、そうなるとそっちの動機やアリバイ、抜き取った方法等も調べなければならなくなる」
「佐倉さんはそんな事まで考えていたのですね」
「考えていた訳ではないけど調べるとなれば、それぐらいやらないと甲府での調査はできないんじゃないかな。それにその途中で終わることだってあり得るよ」
「そうですね。まずは甲府に行くまでにどれだけ調査して、どこまで突っ込む必要があるかを見極めるところから始めましょう。やることが明確になればあとは実行するか、しないかだけですね」
だがここで大きくため息をついた彼は、意を決したように姿勢を正して言った。
「佐倉さんの足を引っ張るようなことはしません。しかし最初にこれだけは言っておきます。問題が問題だけに、ここからは踏み込めないと判断する時が来るかもしれません。その場合私は身を引く可能性があることを覚悟していただけませんか。こんな言い方は卑怯で失礼かもしれませんが、独身の佐倉さんと違って私には守るべき家族がいます。下手を打って仕事を首になったり、降格人事をくらったりする訳にはいきません」
「うん、それは分かっている。ただでさえ巻き込んでしまって悪いと思っているから気にしなくていいから」
木下は真面目だが、上昇志向の強い人間ではない。言われたことは確実にこなすが、それ以上の新しい提案を積極的に行ったり、自分の意見を強く主張したりするタイプではなかった。石橋を叩いて渡らない、ある意味典型的な今時の官僚タイプと言っていい。佐倉は心の中では寂しい思いをしながらも、自らが背負わなければならないこれからのことを考えながら、ジョッキを口に運んだ。
佐倉の親戚達は、祖父の代から公務員が多かった。警視庁に入った祖父は三人人兄弟で、都庁や隣の埼玉県庁で働いていた。その影響からか、従兄弟達の多くも公立学校の教師などを含め、国家公務員か地方公務員になっている。いわゆる一般の企業の就職し、サラリーマンになったものはほとんどいない。
その為経済的には特別裕福な者もいない代わりに、皆が東京近郊に住んでいて比較的安定した生活を送っている。かつて言われた一億総中流世帯ならぬ、一族総中流世帯だ。皆それなりの学校に通い、父のように東大卒もいたが、国公立だと一橋や東工大、横浜国立、私立だと慶応や早稲田、上智や青学、立教や法政などを主に卒業している。佐倉の他にも官僚になった従兄弟は複数いた。
世の中ではバブルが崩壊し、不況だった頃はやはり公務員が安泰だと言われてきた。しかし近年、長期的に安定政権が続いて少し景気が持ち直したと思った途端、官僚にとっては不遇とも呼ぶべき時代へと突入している。それは四年以上続く、国会における政府や官僚が行う答弁に対しての、国民による不信感によるものだ。
もとを正せば国有地を不正な価格で売却したとされる疑惑から始まった。その後二転三転する答弁、挙句の果てには過去の公文書を改ざん、または隠蔽などが立て続けに起こり、それは未だに止まる事がない。
この問題は政治家達だけでなく、大臣達の答弁をする原稿を作成したり、実際に答弁に立たされたりした官僚達にも火の粉が降りかかった。さらに検察の特捜が動く騒ぎへと発展したケースもある。そんな中で、官僚の一人が自殺する事件まで起こったのだ。
これらの騒ぎは法務省に在籍する佐倉にとって、他山の石では無かった。同じ官僚仲間だからではない。その自殺した財務官僚は、佐倉より五つ上の従兄だったからだ。
佐倉の曾祖父の時代は、とても貧しい生活だったらしい。そんな中、三人兄弟の長男だった祖父が高校を卒業してすぐに警察官となり、生活を支えていたそうだ。弟達が大学へ行くための学費も出したらしく、二番目の弟が当時の都立大学へ進み、後に都庁へ就職、末っ子が一橋を卒業後、当時の文部省へ入省したという。
その頃から佐倉一族それぞれが、貧乏から一気に中流からやや裕福な家庭を築くようになったそうだ。そうした成功例があったからかもしれない。生活を安定させるためにと、その子供達の多くも公務員になっていった。
その中で祖父の一番下の弟が経済的には最も裕福となり、都内に大きな家を建てたという。そして祖父のおかげで今の自分達があると言い、その上の兄と共に年末年始は祖父の家族達も招きもてなすなど、親戚一同揃って年を越す習慣が根付いたそうだ。
それはその息子の代になっても続いた。一年に一回、佐倉達も幼い頃から集まりに参加していた記憶がある。大人だけでなくその子供達も含め、多くの親戚が集っていた。その為歳の近い従兄弟達と遊んだり、大人達にはお年玉を貰ったりして、毎年とても楽しみにしていた行事だった。
しかしそれが十数年前に起こった事件で一変する。祖父の二番目の弟の息子で今の国土交通省に入った親戚が、汚職事件に巻き込まれて自殺したからだ。後に彼の直属の上司が逮捕され、幸いその部下だった彼に罪は無かったことが明らかになった。
彼は上司の罪を被るため、責任を取って命を絶ったらしい。それでも当時は周囲から相当な非難を浴び、一族の中でも泥を塗ったと怒り出す大人達もいた。その為事実が明らかになってからは犯罪者呼ばわりをしていた親戚と、そんなはずはないと庇っていた親戚達との仲が決裂したのだ。よって恒例だった年末年始の集まりは、その後開かれることも無くなった。
しかし悲劇は繰り返された。今度は当時最も非難していた親戚の息子が、上の指示により一昨年国有地売却の経緯を示した文書の書き換えを行っていたのだ。そして世間が大きく騒ぐ中で責任を感じ、自らの命を絶った。
まだ親戚の集まりがあった頃、幼かった佐倉はその従兄にとても優しく接して貰っていた記憶が残っている。よく遊んでもらったし、彼はとても頭が良かったので真面目な相談にも乗ってくれた。親戚付き合いが疎遠になってからも、彼とは同じ官僚になったことから定期的に連絡を取っていたのである。そして色々とアドバイスを受けたりしていたのだ。財務官僚という強い力と広い人脈を持っていた彼のおかげで、仕事の上でも助けられたことが何度かあった。
彼の死後、気さくだが仕事にはとても真剣に取り組んでいて、真面目で優秀だったと同僚達の多くから異口同音の話を耳にした。祖父母が亡くなった時でもそれほど泣かなかった佐倉だが、彼の葬式に参列した時には人目をはばかることなく号泣したものだ。それだけ彼の事を慕い、頼りにして尊敬もしていた。
だからこそ佐倉は、その後官僚組織に対する怒りを強く持つようになったのだ。十数年前に同じく親戚が自殺した時は、まだ学生だった。その為身に染みる程の感情が湧くことは無かった。どちらかというと近しい親戚が起こしたこととはいえ、多くの大衆と同様、どこか他人事のように捉えていたと思う。
しかし同じ官僚の一員となった今では国民の為ではなく、何故上司やその上にいるらしい政治家達の尻拭いの為に、馬車馬のごとく働かなければならないのかと憤慨した。国会で問題が起こる度に朝早く夜遅くまで、答弁の為の資料作りや書類の捜索に追われ、挙句の果てには命まで奪われてしまう。または責任を取らされ辞任させられるのだ。そんな不条理な事が許される訳がないと、やるせない気持ちにもなった。
祖父の時代から始まった、国民の命と財産そして権利を守るために身を粉にして働くことを厭わない精神はどこへ行ったのか。そして佐倉家はいつから根本にある志を忘れ、いつの間にか組織の中に埋もれていったのかを考えるようになった。
国家公務員の雇い主は、あくまで国民だ。民間企業なら消費者の顔を見ないで社内の人間の顔色ばかりに目を配っていれば、いずれは腐っていき会社は潰れる、または業績不振に陥るだろう。しかし国家公務員は違った。国はそう簡単に潰れない。それがこれまでのような腐敗を生んでしまったのだろう。
いつからそんな愚かな組織になり下がったのか。理想や本道を掲げることが馬鹿を見る風潮となり、目先の現実路線を進む余り、国の行く末を大きく歪ませていることに何故気が付かないのか。祖父が生きていたら激しく憤り、嘆いていただろう。
日頃は静かで今は第一線から退いている父でさえも、最近はテレビや新聞を見る度に機嫌が悪くなり、毎日のように愚痴を吐いている、と母から聞かされていた。正義感が人一倍強かった父にとっても、この現状は辛抱できないはずだ。
十数年前の国土交通省での汚職事件の時も、警察庁にいたことで人脈をフルに活用し、検察も動かして真相究明のため奔走したと聞いている。親戚の無実を晴らすという私情からではなく、国民の期待を裏切った官僚の犯した罪の根本が、どこにあるのかを探っていた。それを暴き世間に知らしめることで、二度とそのような事が起きないよう膿を出し切ることが自分の役目だと、心の底から思っていたようだ。
もちろん越権行為だと非難されたこともあったそうだが、父はその信念に従って多くの仲間を集って動いたと言う。おかげで真相の一部は解明されたが、その後の父への風当たりは厳しくなったらしい。そして本来ならもっと上のポストに昇ると思われていたが、結局ラインからは外された。
それでも父は自ら行ったことに悔いは無いと退職する際も言い放ち、最後の挨拶では珍しく感情を露にして、後輩達に最後の訓示を述べたそうだ。中身はごく普通の、国民の為に働けと言うものだったらしい。しかしその当たり前のことが蔑ろ(ないがしろ)にされていることに、皆一人一人が強い危機感を持て、と熱弁したという。
そうした背景もあって、当初は退職後の再就職先が見つからなかったらしい。しかし捨てる神もいれば、拾う神もいる。世の中にはきちんと見ている人がいるようだ。同じく警察庁を退職した、かつての上司の勤める企業から声がかかったのである。そこは所謂天下り先と呼ばれるような、警察機構の息がかかった会社では無かった。
それでも父は条件を聞き、週三日の勤務で十分だといって正社員ではなく、契約社員として働き始めた。その代わりに同じく不遇な境遇で警察庁を辞めた者がいれば、正社員として雇って欲しいとお願いしたそうだ。
佐倉はそんな馬鹿が付くほど実直な父の背中を見て育った。そのせいか、省内では勤勉だが融通の利かない要領の悪い職員だと、同僚や上司達からは評価されている。これも血筋だろう。それでも木下など気の置けない後輩にも恵まれ、忙しいがそれなりに遣り甲斐のある仕事ができる環境にいた。
それに父ほど自分の信条を曲げない強さなど、自分には無いと思っていた。祖父や父のような警察関係を就職先に選ばなかったのは、そんな自分の弱さを知っていたからだ。いざとなった場合、逃げてしまうことが怖かったのかもしれない。
だが今回自分が置かれている立場は違う。ここでどう動くか。書類紛失の調査をするよう局長から指名された時点で、佐倉は自分が試されているのではないかと感じた。それならこれからの為にも出来る限りのことをしようと腹を括ったのだった。