護りたいもの~第一章
「おい、片付いたか?」
「もう少しで終わります!」
「早くしろよ。資料が届けばすぐにここを使うんだ。それまで間に合わせてくれ」
「はい! 課長!」
心の中で舌打ちをしながら、佐倉実徹はB会議室の隅に置かれた段ボール箱を持ち上げた。一つで十キロはある箱の中には、法務省刑事局総務課数名の手で昨日整理し終えたばかりの資料が入っている。ざっと数えても三百箱近くはあった。今年保管期間を過ぎた書類の中身を見て、破棄して問題ないかの確認を行っていたものだ。そして予定では、今日か明日中に少しずつ片付ければ良いはずだった。
それが今朝登庁するなり、午前中までに倉庫へ戻せと渡口総務課長から言い渡されたのである。その為思わず尋ね返した。こちらだって他の仕事との兼ね合いや、段取りがあるからだ。
「なぜですか? 部屋は明日まで確保していたはずですが」
「急遽、会議室を使う必要ができた。他の部屋は既に予定が入っていたり、同じく資料が積んだままだったりして空いていない。それなら明日までに片付ける予定だったB会議室を使用すればいいという話になった。少し予定が早まったと思えばいいだろう」
後で聞いたところ、押さえていたはずの小会議室が、手違いで他の課が使用することになっていたらしい。それを当日の朝に気が付き、慌てて別の使える部屋を探した結果、五十人程は入る中規模のB会議室を引き渡すことになったようだ。
「要は課長か誰かのミスによる、とばっちりじゃないですか」
女性の佐倉一人だけでは大変だろうと、見かねて手伝いを買って出てくれた一年下で同じ大学の後輩でもある木下秋雄が小声で愚痴った。しかしこれから使用する案件が、明らかに重要な事は二人共理解している。
それに入省して八年目を迎える佐倉だが、昨年矯正局の総務課から刑事局に配属されたばかりであり、新人扱いされても仕方がない。その為止む無く他の仕事を先延ばしにし、資料運びを優先させることにしたのだ。
もうすぐここには甲府地検から受け取った、ある事件の裁判資料等一式が運ばれてくる。最重要書類である為、決して郵送やその他の代行する機関などに任すことなく、法務省の係官が直接運ぶことになっていた。
今回は総務課から選ばれた二人が、鍵付きで頑丈なスーツケースに書類を入れて運んでくる手はずになっている。体に縛り付けた透明なワイヤーロープを袖口から通し、スーツケースの持ち手に括りつける程の念の入れようだと聞いていた。
それもそのはず、運ばれてくるのは死刑の判決が確定した事件の裁判記録や、裁判で使用されなかった公判不提出記録その他一式だ。これらの一部が万が一でも紛失すれば、死刑執行を行うための書類が作成できない。つまりは執行を妨げることになる。
もしそんな事になれば法務省としては、かつて世間を騒がせた冤罪事件「財田川事件」に次ぐ大失態となってしまうだろう。ただ今回の案件はカルト教団が起こした殺人事件で、犯人も素直に罪を認めているものだ。いい逃れができない程証拠も揃っている。上告もしていないため、冤罪の可能性もまずない。法務大臣が決裁できるまでに必要な手続きを、粛々とこなすだけだった。
とはいっても今回の仕事が、執行に至るまでの大切な段取りの一つであることは変わりない。よって刑事局付の検事が、資料に不備がないかを確認して書類を作成する為、会議室一つを一定期間貸し切る必要があった。だからこそ課長は慌てて佐倉達に命じ、関係のない資料を片付けさせているのだ。
死刑判決を出した甲府地検へは、職員二名が朝一番で事件の資料一式を受け取りに向かった。その彼達から午後一時頃着くとの連絡が、先程入ったばかりらしい。後三十分も無い。しかしまだ運び切れていない段ボールは、山のように積まれている。
「間に合わせろよ!」
再度念を押して出て行った課長の背中に舌を出している木下を見ながら、佐倉はせっせと箱を台車に乗せ、地下一階の書庫へと向かった。彼も後ろから追いかけて来た。会議室は三階にある。ここまですでに十回は往復していた。それでも後数回の往復が必要だろう。彼らが到着するまでには片付かないかもしれない。
しかし実際に資料一式が運ばれ、検事が書類の中身を精査し始めるまでには、若干時間がかかるだろう。それまでにはぎりぎり運び終えられるはず、と目算していた。あと二、三回往復すれば完了する。そう思いながら空の台車を引き、書庫から会議室へと戻った。
そこで一人の男性が窓際に立ち、秋の気配が漂う外の景色を眺めていることに気付いた。その人は佐倉達が入室してきた事に驚いたのか、振り向いてこちらを見た。しかし事情は把握していたらしい。丁寧な口調で、労わるように声をかけて来た。
「ご苦労様。申し訳ないですね。手違いがあったようで。これから重要な資料が届きますので、万が一それ以外の資料と紛れてしまうといけませんから」
そこで男性の正体が分かったため、佐倉は頭を下げた。
「峰島和明検事ですね。こちらこそ申し訳ございません。あと少しで終わりますから」
そう答えたところでバタバタと慌ただしい、しかも聞きなれた声が聞こえて来た。とうとう到着したようだ。そう思った瞬間会議室の扉が開き、大きなスーツケースを持った二人が、雪崩れ込むように入って来た。
「ああ、疲れた。ようやく運び終えたぞ」
そこで彼が声をかけた。
「お疲れさまです。ありがとうございました。私は資料の審査をさせていただきます、検事の峰島です」
検事がいるとは思いもしなかったのだろう。二人の内の一人が慌てて名乗った。
「刑事局総務課の大飯拓郎です。これから私達で書類が揃っているかの最終確認をしますので、申し少しだけお待ちいただけますか」
名乗った彼は佐倉と同期だ。もう一人は木下より一期下の間中康太である。甲府を往復するという重要任務を担っていたのがこの二人だ。その為佐倉も声をかけた。
「お疲れ様。大変だったみたいね」
すると彼はこちらを向いて目を丸くした。そして会議室に置かれている資料へと視線を移してまた驚き、怒った声で尋ねて来た。
「どういうことだ。資料をチェックする会議室には、余計な書類など無いよう事前に片付けておくはずだっただろう」
余りの剣幕に木下が慄く。しかし佐倉は彼を宥めながら話した。
「まだ最後の任務が残っているから、緊張が解けていないのは分かるよ。だけど何故こうなってしまったか、こちらにも事情があるんだって」
一通り説明をすると、ようやく彼らも納得したようだ。それでもこれから最後の大事な仕事が残っている。その為後輩の間中に声をかけた。
「だったらお前は佐倉達と一緒に、この段ボールの山を書庫に戻す手伝いをしろ。俺はその間に、地検から預かった資料が間違いなく揃っているかを確認するから」
「ああ、それでしたら私が大飯さんの手伝いをしましょう。揃っている事さえ分かれば、すぐ中身の審査に取り掛かれますからね」
丁寧な口調で年上の峰島検事が自ら申し出たのだ。断る訳にもいかず、大飯は恐縮しながら受け入れていた。間中は段ボール箱を運び出す作業を手伝うこととなり、どこからか持ってきたもう一台の台車を使って、佐倉達と一緒に書庫へと向かった。
運びながら残りの箱の数を数えると、三人いればあともう一回往復すれば終わりそうだ。これならぎりぎり間に合ったと言える。そう思いながら地下に向かい、そしてまた会議室へと戻った。
中では峰島検事と大飯が真剣な顔をして、部屋の中央で資料の突合せをしていた。その姿を横目に、最後の段ボールの山を台車に乗せて運びだす。そうして全て運び終えた三人は書庫を出て、最後に佐倉が中を簡単に確認してから鍵を閉めた。
「やっと終わりましたね。昼休みを返上して運んだからお腹が空きました。これから何か食べに行きましょうよ」
地上に向かうエレベーターに乗ろうとボタンを押して待っている時、木下がそう言ったのでそうしようと頷いた。一緒にいた間中も賛同する。
「私も甲府から戻ってきて、まだお昼は食べていません。資料一式を運び終えてからこちらで食べる予定でしたので、ご一緒していいですか」
そこで皆揃って外で食べよう、どこに行こうかと話し出していた。佐倉もその会話に参加しかけたが、B会議室の鍵を持っている事に気が付いた。予備の鍵もあるが、これを峰島検事に渡して管理して貰うよう引き継げと、課長に言われていたことを思い出す。そこで彼らに話しかけた。
「二人は先に行ってて。私は会議室の鍵を検事に渡さないといけないから」
「それなら私が行きましょうか」
木下が気を使ってそう言ってくれたが、佐倉は首を振った。
「資料運びを手伝って貰っただけで十分。先に行って店を決めておいてくれればいいから。何を食べるかは任せる。後で追いかけるから」
「分かりました。ではどこの店にするかが決まりましたら、携帯に電話します」
木下が頷き、二人はエレベーターに乗って途中の一階で降りた。佐倉は一人でそのまま三階の会議室へと向かった。そして部屋に入った途端、悲痛な声を聞いたのだ。
「おい! 大変なことになった!」
大飯が慌てている。峰島検事も必死の形相で、書類を一つ一つ確認していた。
「トラブルですか? 何が起こりました?」
「資料が、資料の一部がないんだよ!」
「えっ?」
これは一大事だ。検事は全ての資料が揃った時点で不備がないかを確かめ、裁判記録などの書類一式を審査する。その結果刑の執行を停止する事由や再審、非常上告、恩赦などがあるかを確認し、問題がなければ死刑執行起案書を作成するのだ。
起案書は刑事局内で担当検事から参事官、総務課長、刑事局長のルートで決裁され、ついで刑事局から矯正局に送られる。そこで参事官、保安課長、総務課長、矯正局長と決裁し、今度は矯正局から保護局に送られ、また参事官、恩赦課長、総務課長、保護局長の順で決裁、その後起案書は刑事局に戻される。
すると再び刑事局長が矯正局・保護局の決裁を確認した上で、起案書を「死刑執行命令書」と改名し、法務大臣官房に送る。そこでは秘書課付検事、秘書課長、官房長、法務事務次官を通り、決裁される。そこで初めて実際の死刑執行に向けて動き出すのだ。
ここに至るまで死刑囚が身体や精神を病んだり、女性の場合懐妊していたりすると、書類はすぐに刑事局へと回収され、このルーチンから外される。要するにその後の死刑執行に至るまでの起点ともいうべき起案書作りは、裁判記録など全ての資料がないと作成できない。よって死刑執行もできないことになる。これは由々しき問題なのだ。
「そ、それは本当に? 甲府地検から受けとった時は、全部揃っていたの?」
「それは間違いない。一覧表に基づいて、俺達と先方の管理者とで確かめたんだ」
「じゃあ紛失するはずがないでしょう。何がないの? 良く探した?」
すると山となって積まれている書類を黙々と掻き分けていた峰島が、代わりに答えた。
「リストに書かれている、裁判記録の項の三が見つかりません。大飯さん達が検察から間違いなく受け取ったのなら、その途中かあるいはここに運び込まれてから紛失したか、何かの書類に紛れた可能性があります。ただ私達が見落としているだけかもしれません。もう一度落ち着いてチェックしましょう」
「分かりました」
大飯が返事をして、峰島の作業を手伝い出した。余りに忙しない出来事が起こり呆然としていた佐倉は、自分がここに何故来たかを思い出して伝えた。
「ああ、そうでした。ここの会議室の鍵を検事にお渡ししておきます」
「分かりました。そこに置いていただけますか」
彼はこちらに目もくれず、書類が乗せられている長机の端を顎で指した。佐倉はポケットから取り出した鍵をそこに置く。そこでお腹がぐるりと鳴りだした。しかしこの状況で食事に行くとは言い出し難い。大飯も間中同様、昼飯抜きでここへようやく辿り着いたはずだ。そんな時にこんな大問題が起こったのである。その為思い切って告げた。
「私で良ければ、何かお手伝いすることはありますか」
「それでしたら、この部屋の中に書類が紛れていないか、確かめて頂けると助かります。それでも見つからないようでしたら、今私達があると確認した書類が、間違いなくリストに載っているかどうかの二重チェックをして頂けますか。こっちに分けて置いた山からお願いします」
長机に置かれた書類は、大きく分けて三つに分かれていた。確認し終えた山と、これから確認する山、そしてまだできていない山だ。恐らく佐倉が戻ってくる間に少なくとも一通りは目を通したらしい。今やっている作業は、その二回目か三回目なのだろう。
「分かりました。こちらの書類ですね」
すでに会議室の脇に設置してあるコピー機を使って複数枚用意されていた三枚のチェックシートの一つを手に取った。しかし作業の前に会議室のあらゆる個所を指定され、探すよう命じられた。だがやはり見つからない。
そこで席に座り、積まれた資料を一つ一つ確かめながら胸元に差してあったペンでレ点を打った。間違いなくその山の中にあるかをチェックしていく。二番目の山から次々とこちらに書類が運ばれてくる。それらをまたシートと突き合わせてレ点を打つ。そんな作業を繰り返している途中で、胸ポケットに入っていたスマホが震え出した。慌てて出ると昼食に出ていた木下からだった。入る店が決まったようだ
ここで下手に騒ぐとまずいと考え、佐倉は口を濁して小声で答えた。
「悪いけど、少し急用ができたから先に二人で食べてくれないかな。今の状況だと多分行けないと思う。でも気にしないでいいから。ああ、うん。じゃあ」
色々突っ込まれる前に素早く切り、引き続き目の前の作業に集中した。確認済みの書類がどんどんと積まれていく。やがて峰島と大飯が全ての書類を見終えたが、肩を落としていた。
やはり見つからなかったようだ。それでも見落としたのではないかという一縷の望みを持って、最終チェックをしている佐倉の作業を見守っていた。しかし最後の資料を確認したが、やはり裁判記録の項の三という書類だけ印が付かずに残ってしまったのである。
「ありませんか」
峰島の言葉に頷いた。
「はい。ありません」
大飯が主張した。
「しかし甲府地検から受け取った時には、間違いなくありました。これは一緒に同行した間中も見届けています」
書類紛失は自分達の責任ではないと、明確に主張しておきたいのだろう。
「念の為にお伺いしますが、ここに来るまでの道中、荷物から目を離してはいませんよね」
峰島の静かな問いに、少し間を置いて彼は答えた。
「ありません」
「それは大飯さんだけでなく、もう一人の方も同じですね」
「はい。間中もずっと資料から離れなかったはずです」
しかし自信がないのか、それとも大事になってしまったからなのか、声に力が無い。しばらく窓の外を眺めながら考えていた峰島が、ようやく口を開いた。
「そうなると残る紛失場所は、書類をケースから出したこの会議室しかありませんね」
「え? でも書類は直ぐに検事と大飯の二人で確認していましたよね」
佐倉が口を挟むと彼は首を縦に振った。
「そうです。でも書類は大量にありましたし、大飯さんと一つ一つ注意深くチェックしていたので、全ての資料をずっと監視していた訳ではありません。目を離した時もあったでしょう」
「そ、それはそうでしょうけど、もしかして誰かが持ち出したとでも言うのですか」
「そこまでは断言できませんが、この会議室には当初、佐倉さんの他にもう二人いらっしゃいましたよね。しかもここに積んであった他の資料を、運び出されていました。もしかすると、間違ってその箱の中に紛れ込んだ可能性はありませんか」
そう言われれば間中に手伝って貰い始めた時、運び慣れていない彼が前へとつんのめり、積んであった箱が崩れて中身が飛び出してしまった。段ボール箱の上の部分は、同じく段ボールでできた蓋を被されているだけだからだ。
しかしそれでも箱から出た資料はごく僅かだった。それに間中と木下の二人で直ぐそれらを拾い上げて片付けたため、何事もなかったはずである。
丁寧な口調とは裏腹に、峰島の鋭い眼差しを受けた。その為そんなはずはないと言いたかったが、強く否定もできなかった。黙っていたからか続けて問われた。
「ここにいた他の二人は、今どこにいらっしゃいますか?」
「間中と木下ですね。今、外へ食事に出ています」
「そうですか。では申し訳ありませんが、先程運び出した資料を置いた場所へ、案内していただけませんか。その中に紛れ込んでいないか、念のため確かめましょう。大飯さんも手伝っていただけませんか」
「わ、分かりました。佐倉も悪いが手伝ってくれるか。どの資料がここから運び出したものなのか、俺達には分からないから教えてくれ」
「それはいいけど、相当数あるよ」
「いえ、確かめるのはここにあった、全ての資料で無くても良いはずです。大飯さん達がここに資料を届けていただき、間中さんが佐倉さん達の作業のお手伝いをし始めて運び出した分からだけで結構だと思います」
「なるほど。その前に運び出した段ボールの中へは、紛れる訳がないですからね」
大飯は同意して頷いていたが、その後の資料にも間違って入るようなことはないと佐倉は心の中で呟いた。意識的に開けない限り、紛れるような事態にはなりえないからだ。
「佐倉さん、それだとどのくらいの数がありますか」
峰島に問われて、間中が手伝い始めた時の事を思い出す。確かあれから二往復したはずだ。間中も台車を持ってきたため三台で運び、一台で最高八箱は積んだはずだから、一回で二十四箱。ということは最大四十八箱分になる。ただ最後は若干少なかったはずだ。
そのことを伝えると、大飯は大きなため息をついた。
「そんなにあるのか」
「それでも確認しない訳には行きません。早く行きましょう」
峰島に急き立てられ、三人で会議室を出た。もちろん部屋はしっかり閉めて、佐倉はその鍵を彼に手渡しながら呟いた。
「本当ならこれだけの為に戻ってきたはずが、とんでもない事になりましたね」
しかし事の重大さを考えるとぼやいている暇はない。すぐにエレベーターで地下へと向かった。書庫の鍵はまだ自分が持っている。
会議室に戻り食事を終えて部署に戻った際に返しておこうと持っていたのが幸いした。三人は書庫へと入り、先程運び込んだ段ボール箱を探した。佐倉は記憶を辿り、ここからここまでの棚に置いた四十二箱が、最後の二往復で運び終えた分だと伝えた。
「それでは手分けして、順に箱の中を見ましょう」
峰島の指示により、それぞれが検分する箱を割り当てられた。それらを次々と開けていく。それ自体は簡単だが、中身を見て紛れていないかを探すにはやや多い。だが文句を言っても始まらない。佐倉達は黙々と作業を続け、紛失した資料があるかを確認した。
中の資料との区別は簡単だ。使っているバインダーの種類が違う。甲府地検で使われていたのはシンプルな黒色で、少し旧型のものだった。しかし箱の中の資料は検証作業をしながら、青い線が入った新しいバインダーに差し替えたばかりだ。
基本的に書庫にある資料は、データ化されたものがほとんどである。ただ万が一消失した場合に備えてのバックアップの意味もあり、特に重要なものは破棄されず残されていた。
といっても書類は紙であり、保管状況が悪いと判読できなくなってしまうこともある。その為中を検分したものから順に、防腐剤付きで湿気も防ぐ新型へ取り換えていたのだ。そのおかげもあって作業は思ったより簡単に済ませることが出来たが、肝心な物はやはり見つからない。
それでも紛失したモノがモノだけに慎重を期さねばならない、と峰島が言い出した。そこでそれぞれが見た箱をもう一度別の人が確かめる、トリプルチェックを行った。つまり一つの箱に三人が目を通したのである。
しかし、というより当たり前のように紛失した資料は発見できなかった。最初からこの行為は無駄だと思っていたが、検事の指示に逆らうことは出来ない。それに可能性としてゼロとは言えないため、証明が必要だと言われれば頷かざるを得なかった。
会議室にも無い。書庫にも無い。となればやはり甲府地検との受け渡し時点で漏れていたのではないか、と佐倉は主張した。どうしてもその可能性が高いに決まっている。だが大飯はそれを強く否定していた。
一体これからどうするのだろう。そう思っていたところに峰島が言った。
「佐倉さん。申し訳ありませんが、あの会議室にいた残りの二人を呼び出していただけませんか。恐らく今頃は食事も終えて、戻られているでしょうから」
時計を見ると確かにあれから一時間は経ち、二時を過ぎている。途端にまだ食事をしていないことを思い出す。大飯も同じだ。といって先程と同様、空腹なので食後にしましょうなどと言い出せる雰囲気ではない。
「木下と間中ですね。分かりました。どこに呼びますか」
「とりあえず、ここへ来てもらいましょう」
早速スマホを取り出して木下にかけた。そして理由は告げず、二人でもう一度書庫に来てくれないかと頼む。彼は訝しんでいたが、了解を取り付けて通話を切った。
「十分もすれば来られるそうです」
峰島に告げると彼はゆっくりと頷いた。だがどうしても彼らが到着するまでに聞いておかなければと思い、尋ねた。
「峰島検事、あの二人を呼ぶのはどういう意味があるのですか」
「あくまで確認です。書類が紛失した時点であの会議室にいたのは、ここにいる三人の他に彼らしかいません。合わせて五人の証言を確かめ、心当たりがあるかを聞いておかなければなりません」
「あの二人が裁判資料を隠した、とでもいうのですか」
思わず抗議口調になる。しかし彼は冷静に首を横に振った。
「いいえ。あくまで時系列を追っての立証です。それを済ませないと次の調査の段階に進めませんから」
「調査、ですか?」
今度は大飯が尋ねた。これには峰島も眉間に皺を寄せて答えた。
「しょうがないでしょう。重要な書類が紛失しているのです。ここに持ち込まれてから紛れ込んだのか、誰かが持ち去った可能性を探らなければなりません。もし何も分からなければ、次に確認するのは書類を受け取り、運ぶ間に何か起こらなかったか、です。現在はこの三人しか知らない事実ですが、上に報告もしなければならないでしょう。そうなれば本格的な調査が入るかもしれません」
大飯の顔が青ざめていく。当然だ。重要書類を間違いなく運ぶ任務を、彼達が果たせなかったことになる。そうなると間違いなく責任問題へと発展するだろう。
「信じてください! 俺達は間違いなく資料一式を確認した上で、ここへ運んで来ました。途中で紛失することなどありえません!」
「落ち着いて下さい。疑っている訳ではありません。ただ資料が一部無いという事実を鑑みて、その行方はいかなる方法を使ってでも探し出す必要があります。あなたに心当たりがなければ、そう申し開きすれは良いでしょう。それはご理解頂けますよね」
「理解はできます。しかし納得がいきません」
「申し訳ありませんが、私の仕事は地検から届いた資料一式の中身に問題がないかを精査し、死刑執行起案書を作成することです。しかし今回はそれ以前の問題ですから、これ以上は、上の判断に従っていただくしかありません」
そうこう言っているうちに、木下と間中がやって来た。
「佐倉さん、何かありましたか? 間中も連れてと言われましたが、何か問題でも?」
一度深呼吸をしてから答えた。
「実はね。甲府地検から運びこんだ資料の一部が紛失しているらしいの」
「え! いつ? どこで、ですか?」
間中が叫び、目を見開いて固まった。その質問に峰島が答えた。
「大飯さん達が会議室に運びこんだケースから書類を出され、その中身が揃っているかどうか二人でチェックしている時に発覚しました。佐倉さんにも手伝って頂き、散々探しましたが、一部だけ無いことは明らかです」
木下と間中が佐倉に視線を向け同意を求めたため、黙って頷いた。
「ということは、会議室に持ち込まれる前から無かった、ということですか?」
「そんなはずはありません! 大飯さんと私と、それに甲府地検の資料室を管理している波間口さんとで、全てリスト通りに揃っていることを確認しました。その後スーツケースに入れましたから、それは有り得ません」
木下の疑問を間中が打ち消した。大飯も横で大きく頷いている。
「そこで峰島検事が、私達の運んでいた資料に紛れ込んでいるかもしれないとおっしゃったの。それで念のために今、間中くんが手伝い始めてくれてから運んだ段ボール箱の中を三人で確認したところ。しかしここにも無かったのよ」
そう佐倉が説明すると、木下はようやく理解したようだ。
「食事にも来られないでその後も席に戻られなかったのは、ずっと書類を探していたからですか。それでも見つからないので、あの場にいた私達を呼んだのですね」
「私がお願いしました。この事はまだ上に報告していません。その前に紛失が分かった際、あの会議室を出入りしていたあなた達から、話を聞きたかったのです」
「峰島検事、それはどういうことでしょうか?」
「まず木下さんは佐倉さんを手伝って、会議室の段ボール箱を書庫に運んでいましたね」
「はい。中身は先程見られたのならお分かりでしょうが、今年保管期限を過ぎた書類です。昨日までそれらの中身を見て、破棄して問題ないかの見極めを行っていました。一応問題のないものは順次破棄するよう指示されていたので、運び込んだものは保管しておくと判断したものばかりです」
「そのようですね。それでホルダーは全て新しいものに代わっていたと先程伺いました」
「そうです。ただでさえ期限が過ぎた古いものですので、残すものは差し替えるよう指示されていましたから」
「なるほど。そして書庫に戻す作業中に大飯さん達が山梨から到着し、部屋の中央にあった長机の上へ資料一式を置いた。ちなみにその時の様子は見ていましたか?」
中会議室は結構な広さがある。保管期限が過ぎた資料の見極めの為に、部屋の中央に机を集めて作業し、区別できた箱から順に端へと運んだ。壁まで距離は五メートル程あった。
「はい。丁度書庫から戻って来て、また運び出そうと台車に乗せている途中でしたから」
「そうでしたね。そして全てスーツケースから書類を出し終えた後、あなた達が運んでいる理由を聞いて、大飯さんが間中さんに手伝うよう指示された」
「そうです。おかげで後三回は往復しなければいけないところを、二回で済んだはずです」
「その間、あなたは運び込まれた資料に近づきましたか?」
先程佐倉が感じたように、言葉遣いとは違って厳しい目つきで木下を見ている。裁判所で被疑者を尋問しているかのようだった。彼も疑われていると思ったのだろう。首を大きく横に振った。
「いいえ、近づいていません。少なくとも私と佐倉さんは、離れた場所から見ていただけです。壁際に置かれた段ボールを片付けることで必死でしたから。しかも二人が甲府から到着するまで会議室は空にしておくよう指示され焦っていたので、それどころではありませんでした」
峰島は質問する相手を変えた。
「大飯さん、それは間違いありませんか? 資料を机の上に積んだ後、お二人が近づいてきた形跡はありませんでしたか」
「い、いいえ。二人共近くには来ていません」
「なるほど。分かりました。私の記憶でもそうでしたので、間違いないでしょう。それでは間中さんにお伺いします。あなたは先程言われた通り、甲府地検からここに着いて書類を出すまで、スーツケースから目を離したりはしていませんか」
「し、していません! 書類を入れて鍵を閉め、ロープに繋いでから一度も肌身離さずここまで運んできたのです。会議室に入り、初めて鍵を開けて中身を取り出しました」
「全て残さず取り出したことは、間違いありませんか」
「はい。完全に出し終えて、後は間違いなくリスト通りに揃っているかを確認しようとしたところ、大飯さんの指示で木下さん達の作業を手伝うことになったのです」
「ではケースから資料を出した後、書類に近づいていませんか」
「はい。その場で台車を一台持ってきて段ボールを乗せこの書庫まで運び、もう一度だけ会議室に戻りましたが近づいていません。二回目に箱を積んでいた所、三人で全ての荷物を載せ終わったことが分かり、これを運びだせば作業は終わりだと思った覚えがあります」
「その後はどうしましたか」
「私と同じくお昼をまだ取っていないという木下さん達に誘われ、そのまま外へ出ました。ですから会議室には戻っていません。その旨は大飯さんにも携帯で伝え、了承いただいています」
「確かにチェックしている途中、大飯さんの携帯が鳴りましたね。その報告でしたか」
「はい。書類の確認はこっちでするから来なくていいと言われたので、木下さんと食事してからそのまま自分の席に戻り、仕事をしていました」
「分かりました。さらにお伺いしますが、あなたは先程甲府からこの会議室に来るまでスーツを肌身放さず持っていたと言いました。それは同行していた大飯さんも同じですか」
間中は一瞬驚いていたが、記憶を遡るような素振りをしながら斜め上に目を向けた。その後一度大飯の顔を見てから峰島に視線を戻し、はっきりと答えた。
「はい。大飯さんも同じく、ここまでスーツケースから目を離したことはありません」
「なるほど。それでは間中さんと木下さんに伺います。最後の二回で運んだ箱は、ここかからここまでの四十二箱と佐倉さんから教えて頂きましたが、間違いありませんか」
二人は彼が差した箱を見て、置かれている場所や横に書かれている期限、おおよその中身を記した文字を確認し、頷いた。そして木下が代表して答えた。
「間違いありません」
「そうですか。ではここにいる全員に伺います。大飯さん達が書類を運ばれた後、何か不審な動きをしたか、あるいは書類を見ている、または段ボールを運んでいる間に気付いたことはありますか」
全員が互いの顔を見渡しながら思い出しているようだ。特に何もおかしな点は無かった。そう告げようとした時、一瞬大飯が何かを言いたげな表情をした。その為思わず尋ねた。
「何? 何か気付いたことでも?」
声をかけられたことでびくりと驚いた彼だったが、直ぐに否定した。
「いや、何もない。いえ、何もおかしな事はありませんでした」
彼は峰島に対し、そう言い直す。続けて木下や間中もありませんと答え、佐倉もその言葉に続いた。
「何もありませんか。困りましたね。そうなると書類の紛失は、会議室へ到着する前に起こっていた、と考えざるを得ません。そのことを上に報告し、後は指示に従いましょう。報告はここにいる五名一緒に揃ってした方が良いと思います。これから行きましょう」
峰島が告げた後、そのまま廊下に出て歩き出した。大飯と間中が目を丸くしている。困惑するのは当たり前だろう。書類紛失の不手際の責任は二人にある、と宣言されたと同じことだからだ。
特に大飯は反論しようと口を開いたが、言い返す言葉が見つからなかったらしい。そのまま黙って彼の後について行った。佐倉もまたその後ろを歩きながら木下と顔を見合わせ、小声で謝った。
「厄介な事に巻き込んじゃってごめん。手伝ってくれただけなのに悪い事をしたね」
「いえ、それはしょうがありません。佐倉さんの責任ではありませんから。悪いとすれば会議室の手配を間違った、課長かその指示を受けた人じゃないですか。お互いとんだとばっちりですよ」
「確かにそれは言える。私はまだ昼食も取れていないしね。大飯だってそうだけど」
「食事は報告を終えてからしか無理ですね。でも私達に責任が降りかかることは無いと思います。だから大丈夫だと思いますが、大飯さん達の立場はまずい事になりそうですね」
肩を落としながら前を歩く二人の背中を見て、佐倉も頷きながら大きく息を吐いた。