私も一応は生きているのであって
ただ起き、ただ寝る。そうしてまた起きる――それだけをどれほど望み、そして繰り返しただろうか。
初めの十年ほどは確か夏が来た回数を数えていたのだが、数えたからなんなんだという自らの疑問に答えられなかったのでもうわからなくなってしまった。風化した記憶をなんとなく漁っていると、どうやら周囲の木が三、四回…?どうだろう、それくらい生え変わっているような気がする程の時間が経っている…と思う。確信が取れない。
それ程の時間が経ったから何なのかというと、要するに私の心が癒えてきているような気がするのだ。といっても完治したとはどう贔屓目に見ても言えない。別に立ってみて歩くとか、スタート切って走るとかそういうのを笑顔でやるほど私は精力的じゃない。ただこうして座ったままなんとなく暇つぶしが出来るくらいにはなってきているのである。
というわけで私が今何をやっているかというと、この世界に来た時に感じた「気」をより感じてみるといものである。目は最初から瞑ったままなので、そのまま体の中に意識を集中してみる。
そのまま次の春(私の認識の中では)まで私の体の中を眺めていたら、まず地面と太陽から「気」が来た後二つが混ざり合い、しばらく私の中を回った後に私の中に元々あった何等かの要素を混ぜた後地面に流れ去っていくというのが一つのプロセスとして繰り返されていることが分かった。
やはりわたしの直感は間違っていなかった。面白くなってきたのでこの「気」を認識する範囲を広げたいと思う。こういう何の意味もないことをなんとなくやるということは私の心にとって非常によい。こんなことが出来るようになったのもあの神のおかげだろう。
しかしこの試みはしばらく停滞することになる。認識する範囲を広げるといってもどうやって?という話である。全く手掛かりが無い文字通りの手探りである。
そうしてなんとなく思い付いた方法を試しては失敗し、何度かやって駄目ならまた起きて寝るを繰り返し、また思い立った時に模索を再開するということを繰り返した。
そんなことを繰り返していたら、とうとう私の外側に何かを認識することが出来たのだ。これには流石の私も喜んだ。目をしっかりと開け顔を正面に向けるほどだ。
そうして認識できた「気」は私のそれに非常によく似ていた。私の体内のプロセスをひどく小規模にしたものである。第六感ともいうべきこの感覚と久し振りに使った視覚を擦り合わせてみるとその正体はなんてことない、私の足元に生えている草であった。どうやら私はこの世界の植物と非常に似通った生き方をしているらしい。
そんなことをしていた私であったが、このしばらく――私のしばらくがすっかり当てにならないが――後に全く異なる「気」を持つものを認識することになる。