姉に彼氏ができました
山野蓮司17歳。高校二年の夏休み。
東京に進学したふたつ年上の椿は夏休みに帰省してくると交際している男性がいるとこっそり打ち明けて蓮司を驚かせる。
なぜならば、椿は幼い時から男性恐怖症だったのだ。
娘を過保護に育てた父親を説得するために蓮司は姉から協力を請われるが……
夏……茨城の田舎暮らしでよかったと思える季節だ。同じ関東圏の熊谷や館林が最高気温をマークしている日にも、涼風に恵まれることが多い。軒下の風鈴の音が心地よいBGMだった。
「姉ちゃん……今言ったのって本当なの?」
山野蓮司は、口いっぱいに頬張っていたスイカを種まで一緒に飲み込んでしまったが、そんなことは気にならなかった。
姉のとんでもない告白に比べたら些細なことだ。
「か、彼氏って言ったよな?」
「うん。東京でおつきあいしてる人がいるの」
蓮司の姉・椿ははにかみながら頷いた。
(マジかよ、姉ちゃん? だって男性恐怖症じゃなかったのかよ!)
四月から東京の大学に通っている姉は、ある理由で幼いころから男性に拒絶反応を起こしていた。簡単に言えば男性恐怖症。それなのに……彼氏ができたという報告に蓮司はわが耳を疑った。
「彼氏って、男だよな?」
「やだ、蓮ったら。当り前じゃない!」
何がおかしいのか椿はくすくす笑っている。
(だって男を怖がってたのは姉ちゃんだろ! 何がどうなって男とつきあってるんだ?)
家族みんなが椿の東京への進学を心配しながら送り出したのが三月中旬。それまで彼女が免疫のあった男性はほとんど身内だった。父、祖父、そして二歳年下の蓮司。伯父たちでも受けつけないほど重症だった男性恐怖症が治ったという。八月の帰省までに姉に何があったのだろう。
体育祭でフォークダンスを踊った翌日には高熱を出して寝込んでいたあの姉に彼氏?
「父さんたちは知ってるの?」
「お母さんにはメールで伝えてある。お父さんにはまだ言ってない。だって……わかるでしょう?」
椿が言わんとしていることは皆まで言わずともわかる。娘に過保護な父親に、恋人ができたと報告するのはどこの家庭でもかなりの難行だ。
蓮司は父親に同情する。まさか半年ほどで椿の生活が激変するとは思わなかった。
東京は恐ろしいところだと蓮司は思う。
「だから、蓮にも協力してほしいの。お父さんに許してもらえるように」
蓮司は姉の帰省の目的がやっとわかった。長女の桜子は大学時代には盆や正月に実家へ帰りたがらず、親の究極の奥義「仕送りを止める」が繰り出されなければわが家に足を運ぶこともなかったほどだ。
「でもさ、ただ許してもらうって口でどう言っても父さんにわかるのかな?」
ただ報告しただけでは父親を驚かせるだけで終わってしまうだろう。
「だから、その……彼が、来てくれるから。家族に挨拶したいって言うし」
「あい、さつ……?」
(なんだソレ、なんだソレ、なんだソレ?)
彼女の実家への挨拶なんてものは、結婚の許しを得たいときにするものとばかり思っていた蓮司だ。
「姉ちゃんわかってんの? 男とつきあうってことはさぁ……」
どう説明すればいいだろうと蓮司は悩む。恋愛を美化し過ぎると現実に傷つくことも多い。男の場合、精神的なつながりよりも物理的な、体の欲求を満たしたくなるものだ。
「男に触られることになるんだよ? 拒絶反応が出なくなったとはいえ、大丈夫なの?」
「……」
椿はぽかんと蓮司の顔を見る。オブラートに包みすぎて伝わらなかっただろうかと心配になってきた。
「それって、蓮はエッチのこと言ってるの?」
逆に姉に問われて蓮司のほうが赤面した。姉に、とくに椿の口からは聞きたくない言葉だったのだ。だが、ショックを受けたと気取られないように蓮司は耐える。
「そ、そうだよ。男は少なからず下心を持ってるんだからな! 手をつなぐくらいじゃ相手は満足しないだろうし……」
「下心って……男の人ならそういう欲求は当然あるものでしょう? 蓮だって中学校のころからエッチな雑誌……」
「わあぁ~っ、俺のことはいいんだって!」
予想外の切り替えしに、蓮は思わず声を上げてしまった。部屋を掃除してもらったことはあったし、隠していたエロ本も見られたな、とバツの悪い思いをしたこともあったが、数年後の今になって話題にあがろうとは。
全身から妙な汗が噴き出してきた蓮司を前に、椿の表情が曇る。
「蓮は反対なの?」
あまりに深刻な表情で問われると言葉がすぐに出てこなかった。
「……反対っていうか、姉ちゃんはただでさえ男に免疫がないから心配してるんだよ」
はっきり応援してやると言えないのは、蓮司のなかに複雑な思いが潜んでいるからだ。
* * *
ふたつちがいの姉と弟は仲がよかった。共働きの両親。長女は蓮司と八つも年が離れていたせいもあり、蓮司が小学校高学年のころには上京していた。幼いうちは同じ敷地内に祖父母の家があるので祖母が食事の支度をしてくれていたが、しだいに家の家事はインドア派の椿が担当するようになった。
姉であり時には母のように世話を焼いてくれた椿は、蓮司にとっては特別な存在なのだ。家族に対する反抗期がなかったわけじゃない。だが、姉に対しては反発する気力のようなものが湧かなかった。
姉の長所ならいくらだって言える。家族の女性陣はみんな華奢で、スタイルに非の打ちどころがない。姉の桜子は母親譲りの華やかな美人。椿は癒し系の愛らしさがある。本人は知らなかっただろうが、通学途中では可憐な女子高生で通っていたし、蓮司は高校の先輩たちから何度も姉を紹介してくれと頼まれていた――蓮司の独断で丁重にお断りさせていただいたのだが。
肝心な椿が男を受けつけないのだから仕方がないとしてきた。だが、男性の拒絶反応が出ないうえに彼氏ができたとなると勝手がちがってくる。
「姉ちゃんの彼氏ってどんなヤツなの? 大学の友達とか?」
「ううん。バイト先で知り合った、店長の奥さんの幼馴染って人なの」
それは紹介されたいうことなのか。母へのメールでは店主夫妻はいい人だと聞いていたが。
「じゃあ年上なんだ?」
「誕生日がきたら三十歳だって」
椿はキッチンのシンクで洗い物をしながら答える。
(三十歳なんてオッサンじゃないか! 姉ちゃんが十八歳だから干支ひとまわりちがうってことだよな?)
そこまで年上とは思わなかった。大学の先輩程度ならまだ致し方ない。そんなに年上となれば、海千山千の経験を積んでいるにちがいないと想像逞しく蓮司の妄想は膨らむ一方だ。
「そ、そんな年の離れた相手で大変じゃないの?」
騙されているのか、いいように遊ばれているのではと邪推した。
蓮司の質問に椿は首を傾げた。その仕草が、以前とちがって妙に色っぽいと思うのは男ができたせいなのかと蓮司は勘繰ってしまう。
「全然そんなことない。きっと雄介さんのほうが大変だったと思うよ」
(雄介さん……って、そんな呼び方してんだ)
「雄介さんっていうんだ?」
何気なく蓮司がつぶやけば、椿は頬を染めて照れている。しばらく会わないうちに乙女要素がてんこもりな姉になったと言わざるを得ない。
「蓮は好きなコとかいないの?」
「え、俺? 今のところはまだ」
突然自分のほうに水を向けられて蓮司は慌てる。
「そうなんだ。蓮ならすぐにいいコが見つかるよ」
椿は極上の笑顔を浮かべて言った。
蚊取り線香の煙が少し煙たく鬱陶しい。
(遊びならわざわざ実家に挨拶なんて来ないよなぁ……)
高校生でも夏休みの宿題はある。自室で読書感想文を書くつもりだったが、とても集中できる状態じゃない。
姉は帰宅した母親と何やら話し込んでいる。父親は、久々に娘が帰省したことが嬉しいらしく晩酌にビールなぞ嗜んでいた。
本当なら一も二もなく姉を祝福してやるべきなのに……蓮司は悶々としている。
誰のものでもない姉という理想像を自分のなかで作り上げていたのかもしれない。自分勝手もいいところだ。姉は蓮司が本気で何かに打ち込んでいるときは応援してくれたのに。
階下から大きな声が響き、蓮司は我に返った。母の声らしい。何事かと階段を途中まで下りると今度ははっきりと母親の声が聞きとれた。
「椿だって遊び半分で東京に出たわけじゃないわよ。親なら喜んであげるべきじゃない!」
母の声に次いで大股で歩く足音。これは父親の気が立っているときに出るわかりやすい動きだ。
「それとこれとは別だ! 男遊びをするために東京に出したわけじゃないぞ!」
父親の怒鳴り声で蓮司は悟った。椿が交際している男性について打ち明けたのだろう。やはり、父はすんなり歓迎できないんだなと思った。玄関の扉が乱暴に閉まる音に蓮司は思わず肩を竦める。父親が外に出てらしい……酔いを醒ますときにはよくあることだが。
急いで一階に下りると母親が椿の肩を抱いて声をかけている。
「大丈夫、突然彼に会ってほしいなんて言われたから、お父さんびっくりしてるだけよ!」
やっぱり、と蓮司は思った。男性恐怖症で反抗期もなかった椿を父親は可愛がっていた。同時にあまり過保護だと子供のために良くないと周囲から揶揄われるほど。東京の大学へ進学するにも最後まで渋っていたのは父だった。
男性を怖がっていた娘に、突然彼氏ができたと報告されたらさぞやショックだっただろう。蓮司も驚いたが、男親というものはそれ以上に事実を受け入れられないケースが多い。
「気にしないの、普通どおりにしてなさい! お父さんだって頭ではちゃんとわかってるんだから」
「でも……」
予想以上にしゅんとする椿は涙交じりの声で何か言いたそうだった。
「お姉ちゃんは昔から彼氏がいたのに……私は人を好きになることも認めてもらえないの?」
弱々しい言葉に蓮司はハッとした。
(そうか……そうだったんだ。姉ちゃんは――)
* * *
田舎の残念なところは、夏に蚊が多いということだ。そうじゃなくても虫が街灯や玄関の照明に虫がたかる。
自宅のすぐにそばに大きなガレージが建っている。半分は駐車スペースや物置に、残り半分は父親の隠れ家的な空間だ。木製テーブルでちびちびと缶ビールを飲んでいる姿はある程度予想がついていた。
「父さん、いつまでそこに隠れてるんだよ」
「別に隠れてない」
フンと鼻息荒くビールを飲む。五十になったばかりの父・耕司はいかつい体つきで、機嫌が悪いときには極道の人間と間違えられるほどの強面なのだ。そんな男が隠れ家に逃げ込んでいるとは、よほど娘に彼氏ができた宣言に動揺しているらしい。
「まぁ、ショックなのはわかるけど、ここに隠れてても何の解決にもならないよ」
「隠れてないって言ってるだろうが! ちょっと酔いを醒ましてるだけだ」
酔いを醒まそうとする人間が缶ビールを煽るだろうか。どう見てもヤケ酒に走るオヤジの姿そのものだ。向の席に座った蓮司が呆れたように溜息をつく。
「おまえは知ってたのか?」
「今日、姉ちゃんが帰ってきてから聞いた。正直すげぇ驚いた」
「……だよな」
衝撃を受けたのは自分だけではないと知り、耕司はどこか安堵しているようだった。蓮司はそんな父親の姿にひどく同情している。山野家の男性陣はこのテのショックに弱いのかもしれない。
「姉ちゃんの彼氏、今度の週末に来るんだろ?」
目下の課題はそこにあった。見ず知らずの男。姉が、娘が連れてくる男とどう対面したらいいのかふたりとも困惑している。
「勝手にくればいい。俺は知らん」
いい年をしてプイとそっぽを向く父親に対して蓮司もさすがに呆れた。
「知らんって……居留守でも使うの?」
「顔を合わせなくてもどうってことはないだろ。小百合が上手くやってくれるだろうからな」
ちなみに、小百合とは蓮司と椿の母親で、耕司の妻。町役場で働く父親に、県のPR大使まで務めた美人が惚れ込んでしまい、母が父をあらゆる手を使い口説き落としたという意外な馴初めがある。今でも父の同僚や友人たちが「美女と野獣カップル」と揶揄うほどだ。母も自由人だが、どういうわけか父にベタ惚れである。しかし、そんな二人が今回は娘の成長に伴い意見を衝突させた。
「それじゃ、姉ちゃんの立場がないだろ?」
「お前も母さんの味方をするのか?」
それはちょっとちがう。母は椿のことを理解したうえで父を娘の間に立っている。蓮司はそこまで客観的に物事を捉えることはできない。
「俺だって、正直心配だけどさ」
本当は、変化が急すぎる姉のことが心配だ。
「姉ちゃんは、地元を出るまでほとんど外を出歩く機会がなかったじゃん。まわりの目を気にして自分らしさもなかったと思うよ」
田舎特有の閉鎖的社会。「お隣の奥さんが」「○○さんとこの息子さんがね」なんていつの間にか家庭の事情がとんでもない噂になって広まっていることは珍しくない。椿は自分の男性恐怖症がどう悪い形で吹聴されるか、それで家族にどんな影響を及ぼすかを心配していた節がある。だから、最低限の外出しかしていなかった――おそらく両親も承知していただろう。
「椿姉ちゃんは、東京でやっと自由に、自分の足で立ちはじめたんだと思う。人を好きになるのだって姉ちゃんには初めての経験だろ」
蓮司にだって淡い初恋の思い出くらいはある。実らぬ恋で終わったけれど、それも人間の成長には大切な過程のひとつだ。
「端から否定するのは可哀そうだよ。椿姉ちゃんの性格からして、遊びで男とつきあうわけないって父さんもわかってるだろ?」
姉が真面目な性格だからこそ、隠すことなく家族に報告したのだ。
「……」
不機嫌そうに吊り上がっていた父親の眉毛が今度は眉頭を始点にぶら下がる。それから何を話しかけても押し黙り、蓮司は仕方なくガレージから出て母屋に向かう。
通り過ぎる夜風が心地いい。
(余計なことだとけどさ……)
なんだかんだ言って、蓮司は姉に弱いのだ。彼女が悲しめば全力で励ますし、協力だって惜しまない。今は、椿を独占する自分以外の存在が現れたことに寂しさを覚えるけれど。
それも大人への成長段階のひとつなのかもしれない。
「俺の姉ちゃんだもんな」
星が瞬く空を仰いで、蓮司は大きな伸びをした。
* * *
翌朝、山野家は久々に賑やかな食卓だった。
父親は昨夜の出来事を記憶にないような屈託のなさだ。
蓮司と椿は顔を見合わせた。狐につままれているようで油断ならない。両親とも平日なので出勤前で慌ただしい。
「椿」
「な、なに?」
家を出る直前、父親の声に椿がびくりと身を竦ませる。
「今日、仕事から帰ったら……そいつのことを詳しく話してくれ」
「え……」
口早に言うと父親はさっさと玄関に向かう。
一瞬蓮司を睨んだ。
「大口たたくからには、お前も責任もってつき合えよ」
(うわっ……)
微妙な風向きに蓮司は額に汗が浮かぶ。
玄関の扉が閉まり、父親の車のエンジン音が遠ざかっていのをやり過ごしてから家族は――とくに母と姉は騒ぎだした。
「今のはどういう意味?」
「きっと冷静になって考え直したのよ! 会って信用できるか人間かを確かめる気になったんじゃないの?」
ポジティブ思考の母はすでに前向きな発想だ。
「ねぇ、蓮司!」
「あ、えーと、そうなのかな……」
母親の意図を含んだ声のかけ方に蓮司はどきりとして、曖昧な返事しかできなかった。
母は昨夜の男同士の会話を知らないはずだが、まるで筒抜けだったといわんばかりに目くばせしてくる。その雰囲気に気づかないほど鈍い姉でもなかった。
すぐに椿が蓮司を問い質す。
「蓮が何か、お父さんに何か言ってくれたの?」
「いや、言ったような、言わないような……大した会話はしてないはずだけど――」
言い終わらぬうちに椿が、蓮司の首に飛びついていた。
「蓮司……ありがとう! 本当に!」
ぎゅっと抱きついてくる。
(これって、母さんと同じだ)
母親も喜ばしいニュースに興奮すると抱き着いてくる面倒なクセがある。姉にも同じ行動がみられるようになるとは……
どうせ抱き着かれるなら身内以外の女の子がいい。いずれは。
それまでは母や姉たちを見て女性心理を勉強しておこうと思う。
当面の課題は、やはり姉の彼氏がどんな男なのかを見極めることだ。
山野蓮司 十七歳。
高校二年の夏は暑さ以外にも悩まされそうだ。
終
最後まで読んでいただきありがとうございました。
チャーコさん主催の『年下男子企画』に参加させていただいた作品です。