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キルケゴール兄さんへ

 挿絵(By みてみん)


 キルケゴールの兄さん、あんたなら、僕の事を「異教徒」と呼ぶだろうよ。でも、まあ、いいじゃん。僕には僕のキリストがいるんだから。神ーーそれをどんな名前で呼んでも、やっぱり神だろう?


 僕はもう生きる事に疲れて果てたし、ある種の人々ーーつまり、生きる事のみに埋没した人々の中にあって、自分の生存をある角度に「仕上げる」事を覚えた。ある無益な、虚無の、空白の、宇宙の果てに向かって歩みいる事。その感覚がたまらなく心地よくて、僕はゾクゾクするんだ。


 「神と人間の間にある深淵」…こういう命題はポストモダン哲学、科学や論理学を模造しただけの哲学とはほど遠い。だけど、キルケゴールの兄さん、僕はあなたが見た神を見たいと思う。それはカントが「物自体」と呼んだ物だし、「神を要請」したその地点でもある。僕らは、カント的に言うなら「現象」だけでは物足りないんだよ。実在の奥に神を…即ち、理性と存在を越えた何かを見ないとやっていけないんだよ。僕もそうだ。だから、キルケゴールの兄さんよ、僕にも拝跪を許してくれ。僕にも拝ませてくれ。この東方の異教徒にも、神に祈る資格を与えてくれたまえ。


 世の中の人間にとって「神」が嘲笑の対象であるのは、彼らが単に盲目であるからにすぎない。それはいつの時代だって同じだ。彼らは足元ばかり見ているから遠くの太陽が見られない。で、太陽なんてないとうそぶく。彼らには足元に落ちている小銭で十分なのだ。僕らは襤褸をまとって、世界より遥かに大きい精神の帝国を得ようじゃないか。もっとも、哲学者ってのはそんなことばっかりやってきた連中で、その悲惨さは僕にもよくわかっている。でも、僕にも祈らせてくれ。神は哲学の向こうにある。哲学は神の「裾」に触れる事ができる。だけど、その顔を拝む事はできない。論理はいつも限界線で立ち止まる。


 僕が、この僕が二十一世紀の初頭にこんな風にして生きている事ーー誰からも見捨てられて一人で生きている事ーーそれがどんな意味を持つか、もううんざりするほど考えた。ただ、僕は日常を「スケジュール」で埋めたい欲望に駆られている。仕事・仕事・仕事・仕事・デート・歯医者・税金・飲み会・仕事……という風に。でも、それらの連鎖が何物でもないと知ったからこそ、今のお前には「神」が必要なんじゃないか。…ああ、忙しき者に神は訪れず。訪れるのは僕のような暇人だけ。いや、仮に忙しくても僕の本性はただの暇人なんだ。


 キルケゴールの兄さん、あんたがレギーネという婚約者を誘惑して、その後、女を捨てたというのを史実として知っている。ファウストがグレートヒェンを捨てるように、あんたはレギーネを捨てた。レギーネはさぞ良い子だっただろうよ。だから、あんたは捨てたんだ。


 僕の推測では、あんたはレギーネを神の如く思いなした。なんでも思い入れやすい性質だ。自分の中で神の位置にまで高めた聖女もまた、結局は現実の女だとあんたは知らなければならなかった。あんたも知っているだろうけど、「ピグマリオン」という神話があるね? あの神話では、彫刻家が美しい女の像を作り、アフロディーテに頼んで像に生命を与えてもらう。彫刻家は生命を受け取った美しい女と一緒になる。自分の作った像と、夫婦になる。


 だけど、あの神話はどう考えてもおかしいよ。像の中の女神は像であるからこそ、あらゆる幻想に耐えられるんだ。それが現実になったら、という願いは、それが現実ではないという一点によって僕達の欲求を支えてくれる。カントの「物自体」と同じさ。「物自体」もまたどこにも見つけられないからこそ、カントの論理を支える屋台骨となる。像の中の女がもし現実の女となったら、きっとまた彫刻家は「現実の女」に失望する事になっただろう。それが例え、元彫刻だったとしても。


 キルケゴールの兄さん。あんたは、失望する彫刻家のように、現実の女を見て、それが自分の求めるものではない事に気付いたはずだ。どこかの地点で。例え、レギーネがどんなに素晴らしい子、美しい子でも、それは同じだ。精神の欲望、特にあんたのように巨大な自意識が必要とする「対象」には耐えられない。そんな事は地球のどんな創造物を持ってきたって無駄な事だ。だから、そういう精神は必ず「外部」へ、つまり、「神」へ向かう。地球のあらゆるもの、世界のあらゆる事柄は、常に精神には小さすぎるんだ。


 だから、あんたはレギーネを捨てて、神を愛する事にした。僕はそう理解する。恥ずかしい事だけど、僕も多分、あんたと同じように神を愛さざるを得ない立場に追い込まれている。やむを得ない。そういう人生なんだ。


 人間が生きていて、何かを求めるのは悪い事か? と聞くと、世の人は「それは悪くないよ」と言ってくれるが、彼らの言葉の背後には「我々の価値観に則る限り」という注釈がついていて、それを無視すると、僕らは虚無となってしまう。


 だから、今、僕は神に向かって祈らざるを得ない。夜の底で、こんな文章をタイプしなきゃいけないんだ。辛い気持ちで。


 キルケゴールの兄さん、悪いけど、東方の異教徒にも神を拝跪する権利を許してくれたまえ。そして僕をーー神の前に跪かせてくれたまえ。


 そして、もし良かったら……もう既に命を失った者として、僕の事を見守ってくれ。僕はあんたと魂の「パターン」が似ていると思うんだ。似たもん同士だろ。ちょっとは気を利かせてくれよ。頼むぜ。


 生きる事が何であるかという抽象的思考は僕にはもうできない。もう疲れてしまったんだ。


 ただ、僕は祈る。神に拝跪する。よろしく頼むぜキルケゴールの兄さん。


 デンマークから僕を見守ってくれよ。年の離れた、鼻の高い兄さん。よろしくな。今後とも。


 これからは、神を祈るよ。あんたと共に。

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