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願った翼、散らばった羽

作者: 武庫川燕

「だーれだ!」

 部室に入った瞬間に視界が両手で塞がれた。後ろから手を回して来たということは後をつけられていたのか?いやそんなはずはない。犯人はちょこまかと落ち着きのない歩き方をするのが特徴だ。もし後ろからつけられていたのなら足音で分かる。つけられていたのでないのなら、犯人は部室に先に着いていたのだ。そしてドア脇の壁際に待機し、俺が入室した瞬間に後ろに回り込んで目隠しをしたんだろう。

「放してくれ。つばさ」

「ほーい」

 犯人は能天気な声を上げてすぐに視界を塞いでいた手をのけた。

「遅いですよ先輩。おかげで退屈しちゃいました」

「そんなに遅いか?授業終わってすぐにこっちに向かったんだけどな」

「甘いですね先輩。私みたいに走って来ないと」

 なるほど。相変わらずの落ち着きのなさだ。


 白河つばさ。一年年下の後輩で、たった二人しかいない新聞部の部員の一人でもある。去年の春、先輩が卒業して部員が俺一人となった新聞部に双子の妹と二人で加入してきた。忘れもしない、あの時つばさはこう言ったのだ。

「部員は先輩一人なんですよね?廃部寸前なんてすっごく面白そう!」

 それだけの理由で彼女はこの部に入って来たのである。当時はなかなかの曲者(くせもの)が入って来たな、と頭を抱えるしかなかった。


 足元に電気ストーブを置いて、だんだんと身体が温まって来たところで赤本を開いた。紙面には繰り返し挑戦し、玉砕した履歴がびっしりと書き込まれている。今日こそは、と俺は気合を入れて問題を見下ろした。

「お茶入れます?」

「ああ、お願い」

 つばさがお茶を入れるまでの間にまず一問は解き終わりたいところだ。

「どうぞ」

 ペンをくるくる回しながら少し考えている間に、手元に湯飲みが置かれた。

「早いな」

「そうですか?」

 本当は一問でも解いてから、と思ったが、お茶が冷めてしまってはもったいない。俺は一旦手を止め、お茶を一口含んだ。

「ん、なんだこれ」

 口の中にざらざらした感触が残る。茶葉が口になだれ込んできたようだ。

「なんで急須を使わない?」

 俺は、向かい側の席に座っているつばさに尋ねる。

「いい加減慣れてくださいよ」

 そう言うつばさは、平然とお茶っ葉だらけの緑茶をがぶ飲みしていた。

「お茶の成分を抽出できれば良いんだから、湯飲みに直接茶葉を入れたって同じじゃないですか」

 可憐な乙女とは思えないガサツ発言だ。

「つばさは良いお嫁さんにはなれそうにないな」

「でもそんなあたしのことが好きなんですよね?」

「そうなんだよ。困ったものだ」

 俺がつばさに好意を抱いていることをつばさは知っている。俺はたびたび彼女に告白し、そのたびに返事をはぐらかされ続けていた。

「先輩」

「なんだ?」

「退屈です」

「取材でもして来れば良いんじゃないか?」

「分かりました。じゃあ始めさせていただきますね。受験勉強は捗ってます?」

「取材に行くんじゃなかったのか」

「先輩に取材してるんですよ」

「勉強の邪魔だ」

「邪魔してるんです」

 すがすがしいまでの開き直りに呆れるしかないところだが、今は呆れていても仕方がない。じっと一人で黙って座っているなどつばさには不可能なのだ。

「まったく……。まだ部活で残ってる生徒が沢山いるはずだ。そういう子たちの所に行けば面白い話が聞けるかも知れないぞ」

「先輩も部活で残ってる生徒の一人じゃないですか」

「俺は勉強してるんだけど」

「集中したいなら部室に来なければいい話です。部室は部活動をする場所ですよ。勉強をする場所ではありません」

 確かに正論だが、放課後この場所に来るのはもう俺の日課になっている。それ以外の行動をするとなんだか落ち着かないのだ。

「仮にあたしが邪魔をしなかったとしましょう。先輩は今頃その問題を解き終わっていると思いますか?」

「うっ……」

 そう言われると自信がない。いや、むしろ断言できる。進捗は何も変わらない。

「己のバカさ加減が情けなくなってくるよ……」

 幾度となく挑戦し、玉砕し、最後に解説を読む。その繰り返し。解説を読めばその場では何となく分かった気にはなるのだ。にも関わらず、いざ後で解き直そうとすると頭が真っ白になる。

「ぜんぜん先が見えてこないんだよなぁ。もう本番まで三ヶ月だっていうのに……」

「先輩はきっと頑張り過ぎなんです。諦めないで続けることは大事だけど、ただがむしゃらにやるだけじゃ上手く行かないことだってあると思うんですよ。気分転換にあたしとお話ししましょう」

「良いこと言ってるようだけど、要は退屈だから話し相手になって欲しいだけだろ」

「七割方は」

「ひどいなあ」

 とはいえ、つばさの言っていることもあながち間違いではないだろう。ちょうど気が滅入っていたところだし、つばさの提案に乗るのも悪くなさそうだ。

「そうだ。駅前に新しいケーキ屋さん出来たの知ってます?」

「いや、知らないな」

「ずいぶん流行ってるみたいですよ。友達も『フルーツタルトが特に絶品なの。絶対食べた方が良いよ!』って言ってました」

「へえ」

「あれ、あんまり興味ないですか?」

「そういう訳じゃないが……スイーツのお店なんて男の俺にはあまり縁のない場所だからな」

「今度一緒に行きましょうよ。店内で食べられるスペースがあって、紅茶なんかも一緒に頼めるみたいです」

「嬉しいな。まさかつばさからデートのお誘いをしてくれるなんて」

「間違ってはないですけど、あくまでたまには先輩と親睦を深めようってだけですよ。あ、良いこと思いついた!先輩の合格祝いってことにしましょう」

「合格祝いか……なら、絶対に受からないとな」

「おっ、やる気になったみたいですね。先輩」

「ああ。つばさとのデートのためなんだから、絶対に頑張らないとな」

「現金な人ですね。さっきまでこの世の終わりみたいな顔してたのに」

「そんなにげっそりしてたか?」

「してましたよ。正直見てられませんでした」

「そっか。ならつばさは俺を元気づけてくれたんだな。ありがとう」

「そんなつもりじゃないですって!本当にただ退屈だっただけなんですから」

 そう言ったきり、つばさはそっぽを向いてしまった。そろそろ真面目に勉強しろということだろう。俺は再びシャーペンを手に取った。


 ―・―・―


 そして時が過ぎて、あっという間に合格発表の日は訪れた。


 当日は朝から雪が降っていた。緊張に加えて足場の悪さも相まって足取りは自然と重くなる。いつもの倍近い時間をかけて大学に着くと、掲示板の横に既に人だかりが出来ていた。

 ひとつ深呼吸をしてから、俺はその人だかりの方へと足を踏み出そうとして

「あれ?」

 ふと後ろが気になって振り向くと、向こうから誰かが走ってくるのが見えた。そいつは降り積もる雪をものともせず、真っ直ぐこっちに向かって突進してきた。

「せんぱーい!」

 彼女は、大きな声で叫んで手を振った。

「つばさ!?どうしてここに」

「何となくですよ。どうせこの後一緒にケーキ屋さんに行くんだから、いっそ合格発表にも付き合おうかなと」

「この雪の中?」

「ええ、悪いですか?」

「そんなことはないが……」

「手、繋いでも良いですか?」

「つばさ……?」

 彼女からそんなことを言われたのは初めてだ。ただでさえ心臓がバクバクしている状況で、さらに鼓動が跳ね上がって息苦しい。

「やっぱり来て良かった……先輩、震えてますよ」

 返事を待たずしてつばさは俺の手を握っていた。手袋越しでも彼女の手の温もりが伝わってくる。

「寒かったからな」

「それだけじゃないですよね?不安だったんでしょ。でも大丈夫ですよ。先輩が一生懸命やってたの、あたし知ってますから」

 身体の震えが少しずつ治まっていくのを感じる。事あるごとに俺の邪魔ばかりしていたはずのつばさの言葉が、今は何よりも心強かった。


 歓喜の声を上げる者、その場で胴上げをされる者、そのまま泣き崩れる者……天国と地獄が入り乱れる混沌(こんとん)の中で、俺は必死に自分の番号を探した。

「あった!」

 さきに見つけたのはつばさの方だった。

「本当だ……」

 追って俺も確認する。

「やりました、やりましたよ先輩!!」

 つばさは、まるで自分のことのように興奮した様子で飛び跳ねた。

「ああ、良かった……」

 一方の俺は、嬉しいというより「ほっとした」というのが一番だった。緊張が解けて疲れがどっと押し寄せてくる。

「ありがとな、つばさ」

「どうしたんですかいきなり?」

「つばさのお陰だよ。ずっと俺を励ましてくれてただろ」

 これは俺の素直な気持ちだ。つばさがいたから頑張れた。彼女がいなかったら、きっと俺の心はとっくのとうに折れていただろう。

「違いますよ。退屈だったから先輩の相手をしていただけです。落ち着きがないんですよあたしって。先輩だって知ってるでしょ?」

「例えそうだとしても俺はそれに救われたんだ。だから感謝の言葉だけは言わせてほしい」

「ま、まあ先輩がそう言うならご自由に」

 そう言ったきり、つばさはぷいっとそっぽを向いてしまった。何か気に触るようなことを言ってしまっただろうか?


 地元の駅に戻り、俺たちは約束通りケーキ屋に立ち寄った。

「楽しみだなー。先輩の(おご)りで食べるケーキ」

「いきなり何を言い出すんだ」

 席に着いて一言目のセリフがそれとは……つばさらしいといえばつばさらしいのだが。

「え、奢ってくれないんですか?」

「なんだその鳩が豆鉄砲を食ったような目は……。いや、もちろん奢るつもりではいたけどさ。何せ可愛い後輩とのデートなんだから」

「そうですよね、信じてましたよ。先輩なら絶対奢ってくれるって」

 なんだろう。最初から奢るつもりでいたのは事実だが、そんな奢られるのが当たり前、みたいな態度を取られると納得いかないぞ。


「美味しいですよこれ!」

 フルーツタルトをほうばりながら、つばさは満面の笑みを咲かせた。その表情があまりに魅力的で、思わず俺の目は釘付けになってしまう。

「何ですか?じっと見つめて」

 まずい、気づかれたか。

「あ、いや特に見つめていたつもりは……」

「ウソ。ぜったい見つめてましたって」

 誤魔化したところで通用しないか……。さて、どうしたものかな。

「あ、もしかして先輩も食べたいんですか?なら一口上げますよ。でもその代わり、先輩のチーズケーキも一口いただきますね?」

 言うが早いか、つばさのフォークが俺のチーズケーキの方に飛んで来て、さっと一口分掻っ(さら)っていった。

「おいちょっと待った」

「へへーん。あ、こっちも美味しいですね」

「うむ。確かにここのチーズケーキは中々のものだ」

「あたしのフルーツタルトも食べて良いですよ」

「いや、俺はいいよ」

「ダメです。すっごく美味しいんだから。食べなきゃ絶対損しますよ!ほら」

 そう言って、つばさはフルーツタルトを突き刺したフォークを俺の口元に差し出して来た。

「えっと……これは?」

「ほら、あーん。今日だけ。特別ですよ。一応先輩の合格祝いなわけですし」

 いや、何なんだこの状況は!?どう考えてもおかしい。今まで俺が何度告白してもはぐらかし続けてきたつばさだ。そんな彼女がこんな甘ったるい状況を望むはずがない。

「なあ、一体どうしたんだよつばさ?少し変だぞ?」

 俺は、あえて真剣なトーンを作ってつばさに語り掛けた。

「何ですか。あたしが食べさせてあげるって言ってるんですから何も考えず喜んで食べてくれればいいのに」

 つばさは口をとがらせる。しかし、ここは言うべきことをはっきりと言わなければならない場面だ。

「それは違うよつばさ。こんなのまるで恋人じゃないか。先輩後輩の仲でやることじゃない。そういうところはきっちりと区別しておくべきなんじゃないか?」

「もー、先輩は大げさなんですよ。あくまでこれは今日だけ、先輩の合格祝いってことで特別にやってあげるだけなんですから」

「お祝いなら、こうしてデートが出来ただけで十分だ」

「あたしの気が済まないんですよ。あたし、本気で先輩のことお祝いしたいって思ってるんですから」

「だったら、もっときちんとした形でお祝いをしてくれ」

「エッチなことはダメですよ」

「こっちは真剣な話をしてるんだ」

 つばさはびくっと体を震わせて押し黙った。少し厳しい言い方をし過ぎたか。でも、これでようやくきちんとした話し合いの出来る舞台が整った。俺は単刀直入に切り出す。

「俺はつばさのことが好きなんだ」

「はい。それは知ってますけど……」

「この際だからはっきりしておきたいんだ。つばさは俺のことをどう思ってる?」

「どうって言われましても……嫌いじゃないですよ。普通に良い先輩だって思ってます」

「つばさはいつもそうやってはぐらかす」

「はぐらかしてるつもりなんて……」

「なあつばさ。俺はもうすぐ卒業だ。つばさとの部活の先輩後輩という関係も解消される。だからもしつばさが俺に気を遣っているんだったら、そんなのは止めにして欲しい。はっきりと俺とは付き合えないって言ってくれ」

「それがそんなに重要なことですか?」

「重要だよ。俺はつばさの正直な気持ちが知りたいんだ」

「なんですか……。今日に限ってなんでそこまでこだわるんですか」

「逆に、つばさはどうしてはっきりとした返事をくれないんだ?もう一度言うけど、俺に遠慮してるならそれだけは本当に止めて欲しい。俺はつばさと、あくまで対等に話がしたい」

「……分かりました。だったらはっきりと言わせていただきます。一度しか言いませんから、絶対に聞き逃さないで下さいね」

「ああ、分かった」

 覚悟は決めていた。それでもつばさの今までに見たことのない真剣な眼差しに射抜かれて身が(すく)んだ。手足が冷たくなっていくのを感じる。恐らく、先ほどの合格発表の時以上に俺の身体は震えていたと思う。

「……ごめんなさい、やっぱり先輩とは付き合えません」

 予期していた答えだ。だからそれほどの衝撃はなかった。

「そうか……」

 からからになった喉の奥から、俺は何とかその一言を絞り出した。こうなると分かってはいても無念であることに変わりはない。俺はその場でうなだれるしかなかった。ところがその直後、あまりにも意外な言葉が耳に飛び込んできた。

「なんて……言えるわけないじゃないですかっ!」

 俺は慌てて顔を上げる。そして気づいた。


 つばさは泣いていた。


 溢れる涙が、次から次へと頬を伝ってフルーツタルトの上に零れ落ちていく。

「どうしたんだよつばさ!」

 俺は慌てた。とりあえず涙を拭いてあげるべきだろうか!?俺はテーブルの脇に置かれていた紙ナプキンを乱暴につかみ取る。

「やっぱり……あたしって最低だ……」

 最低……?一体何のことだ。さっぱり分からない。

「落ち着けつばさ。出来る範囲でいい。俺に分かるように説明してくれ」

 俺は息を飲んでつばさを見守った。やがてつばさは静かな声で言った。

「本当はずっと好きでした……」

「え?」

 つばさが?俺のことを?本当に?

「先輩のこと、好きで好きでたまらなくって」

「告白されるたびに嬉しくって……本当は飛び上がりたいくらいで……っ」

 秘めた思いを打ち明けながらつばさは感情を高ぶらせていった。

「でもダメなんです。あたしにはそんな資格なんてない!」

 資格――その言葉がざらりとした感触を残して通り過ぎる。

「だから、きっぱりと断らなきゃいけなかったのに……これじゃあひばりに顔向け出来ないっ!」

「ひばりちゃん……?つばさの妹の?」

 つばさには妹がいた。白河ひばり。双子の妹で、つばさと同時に新聞部に加入してきた。だが、どうして今彼女の名前が出てくるのだろう?

「先輩は知ってますか?ひばりのこと」

「もちろんだよ」

 知らないはずがない。一年近くも新聞部で一緒に活動した仲間を忘れられるはずがない。

「本当に知っているんですか?例えば……ひばりが先輩のことを好きだったってことは知っていましたか?」

「……え?」

 急な話に頭が追いついていかない。ひばりちゃんが?俺のことを?

「あたし、あの子に最低なことをしました。あの時のあたしはどうかしてた」

「聞かせてくれないか?」

「ひばりが交通事故で死んだ日、その前日のことです」

 一瞬体がこわばった。つばさがひばりちゃんの死について語るのはこれがほとんど初めてだった。今からおよそ一年前のことになる。学校からの帰り道に、ひばりちゃんは不幸にも信号無視で突っ込んできたトラックにはねられ命を落とした。それが俺の知る全てだ。

「あたしは、偶然あの子が部屋である手紙を書いているのを見つけました。それは先輩に宛てたラブレターでした」

「そうか。あのひばりちゃんが……」

「翌日登校した時に渡すつもりだったようです。放課後に先輩を屋上に呼び出す手紙でした。けれどひばりはその手紙を先輩に渡すことは出来なかった。なぜだと思いますか?」

「勇気が出なかった、とかそういうことじゃないんだろうな……」

「あたしがけん制したからですよ。ひばりが先輩に告白しようとしているのを知ったあたしは、手紙のことなんて全然知らないふりをしてひばりに恋愛相談を持ち掛けました。『実はあたし、先輩のことが好きなんだ』って」

「……それで、ひばりちゃんは何て言ったんだ?」

「『応援するね、お姉ちゃんのこと』って……。本当は辛いはずなのに、あの子は笑ったんです」

 俺は、姉に向かって健気(けなげ)に微笑むひばりちゃんを思い浮かべた。双子だけあって見た目はつばさと瓜二つだったひばりちゃんだが、性格はつばさとは逆に物静かで内向的だった。彼女の性格なら、姉の気持ちを知った時点で自分の気持ちを押し殺す決断をすることは想像に難くない。つばさがそんな卑怯な策を(ろう)したというのは少なからず衝撃だった。だが、俺はつばさのその後の言葉に更に衝撃を受けた。

「あの時あたしがあんなことを言わなければ……ひばりの告白が成功していたら、その日は先輩と帰り道を共にするはずでした。そうしたらあの子は事故にだって遭わなくて済んだ……あたしのせいであの子は死んだんです!」

 あまりにも悲惨な話だ。血を分けた妹の理不尽な死だけでも悲劇だというのに、その死の責任まで背負い込んできた彼女はいったい今日までどれほど苦しんできただろう。それがつばさが犯した罪に対する罰だとすればあまりに重すぎる。つばさの行動とひばりちゃんの死に因果関係はない。

「もしひばりちゃんが俺のところに告白しに来たとしても、俺は間違いなく断っていた。結局は同じことが起きていた」

「仮にそうだったとしても、あたしの罪が軽くなる訳じゃない。それどころか、あたしは怖くてたまらないんです。だって、もしあの子が事故に遭わず今でも生きていたとしたら、あたしは自分が犯した罪の重さにさえ気づけなかったっ!」

 堰を切ったように溢れた言葉を、つばさは悲痛な声で(つむ)いだ。

 俺は、もしひばりちゃんが今でも生きていたらどうなっていたのかを思い浮かべた。つばさの言う通り恐ろしい光景だった。俺はひばりちゃんの気持ちも、つばさが犯した罪も何も知らないままつばさの隣で笑っていたのだ。

 だが、それでも俺は伝えなければならない。

「つばさのやったことは確かに褒められない。だけど、それはつばさの俺に対する気持ちの強さの表れでもある。正直俺は、つばさがそこまで想っていてくれたんだと知ることが出来て嬉しいよ」

 つばさは何も言わなかった。


 つばさの頬を一筋の涙が伝って、そしてそれが最後だった。

「先輩。あたし、(ことわざ)ってあんまり好きじゃないんです。なんだか『世の中とはこういうものだー』ってレッテル貼ってるみたいで。でも……この諺だけはその通りだって思えるものが一つだけあるんです」

「それは?」

「死人に口なし」

 ああ、なるほど。確かにこれ以上無いくらい重みのある諺だ。

「ひばりは優しいから、あたしを(ゆる)してくれるかも知れない。そうだとしたらどんなに良いかって思います。でもそれはあたしの都合の良い妄想に過ぎない。ひばりはどんなに辛くても、叫びたくても……決してあたしを赦せなかったとしても、もう何も言うことは出来ないんです。本気でひばりのことを想うのなら、あたしは決して身勝手な妄想を前提に選択をするわけにはいきません。あたしが前提にして良いのはあたしが罪を犯したという事実、そしてその罪を赦すことが出来るのはひばりだけだってこと。たったそれだけです」

 つばさの論理はあまりにシンプルで、それだけに揺るぎないものだった。つばさは罪を赦されるまで俺と付き合うことは出来ない。だが、つばさの罪を赦すことが出来る唯一の人間であるひばりちゃんはもうこの世にいない。天国にいるひばりちゃんがどう思っていようと、俺たちの前にあるのは永遠に赦されることのない罪だけだ。それでもつばさとの恋仲を望むなら、もう俺の論理がつばさの論理を超える(ほか)ない。だが、俺が口を開く前につばさはそれを遮った。

「あたしは自分の罪深さを知りながら、それでもなお部活の後輩っていう立場を言い訳にして先輩とずっと仲良くしてた。あたしは罪に罪を重ね続けた!……だから、もう終わりにしようと思うんです」

 それはまさしく終わりを告げる言葉だった。そんなことを聞かされたらもう何も言うことは出来ない。俺と一緒にいる限り、つばさの罪の意識は止めどなく膨らんでいく。隣にいる限りつばさが苦しみ続けるのなら、そんな人間が彼女の隣にいる資格なんてない。

「悪かった……そこまでつばさが苦しんでいるとは知らなかったんだ」

 どっと無力感が訪れた。自分にはつばさを不幸にすることしか出来ないのだと知るのは、ただ振られるよりもよっぽど辛かった。

「さよなら、先輩」

 つばさがすっと席を立つ。

「ありがとうございました。いままで楽しかったです」

 そう言い残し、つばさは出口の方へと歩いていく。俺は、彼女の背中が視界の中で滲んで溶けていくのをただ眺めることしか出来なかった。


 どれくらい経っただろう。窓の外を見ると、雪は雨に変わっていた。店を出ようとして、俺は席に伝票が残されていないことに気づいた。

「今日は俺の奢りじゃなかったのかよ……」

 俺は虚しく独り言ちる。つばさは、文字通り俺との過去を『清算』したのだ。


 昼近いというのに外は相変わらずの寒さだった。俺は大きく溜め息を吐く。その溜め息は白く煙ることさえなく灰色の町に消えた。

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