第一章
第一章
窓から微かに差し込む日差しに、僕は目を細めた。
「眠っていたのか……」
僕は半身起こすと、ぐっと両手を伸ばして背伸びをした。ふうっと息を吐き、ベッドから立ち上がる。
半端に閉まっていたカーテンを開いて、僕は昨日のことを思い出した。相沢さんに告白して、それから、振られて……。
外の天気は晴れ。昨日と同じだ。昨日の僕は覚悟を決めていた。僕もこの天気のように晴れやかな未来をつかむんだと、そう意気込んでいた。
「……うん」
いつまでも悩んでも仕方ないよな、と自分に言い聞かせる。これから新生活の準備をしないといけない。僕はもう、子供じゃないんだ。
「とはいえ。そんなに簡単に割り切れたら苦労しないよなあ……」
人間だもの。と、どこかの詩人のようなことを言いたくなる。
「ちょっとお兄ちゃん起きてる!? 大丈夫」
妹の夏音だ。勢いよくドアを開けて、僕の部屋へと駆け込んできた。
夏音は腰に手をあて、二つに結んだ長い髪を振りかざしながら言った。
「卒業式の日に何のんびりしてるの!? 全く、だらしないってレベルじゃないわよ。卒業生は私達より遅い登校だけど……そんな調子で大丈夫? これだからいつまでたっても私がいないと駄目なんだから……」
「は?」
「何? まぬけなのは顔だけにしてよね。卒業式! 今日は卒業式! オーケー?」
夏音が薄い胸板を張って、目を細めて小ばかにするように言ってくる。こいつは朝から僕をからかっているのだろうか。
「あのなあ。卒業式は昨日終わっただろ?」
「何言っているの? まだ寝ぼけてる? ほら!」
夏音は制服の胸ポケットからスマホを取り出し、僕に画面を見せてきた。夏音のスマホの画面を見るとそこには。
「これ! 三月一日! 間違いないでしょ!?」
「うん……」
確かに夏音のスマホの画面には、三月一日という表示がされていた。
「わざわざスマホのカレンダーの表示をおかしくしてまで僕をだまそうとは、なかなか手が込んでいるな」
「はあ~!?」
僕があきれたように言うと、夏音は顔を真っ赤にしてにらみつけてきた。
「なんで私がそんな面倒くさいことしないといけないわけ!? お兄ちゃんのスマホなり、テレビなりで日付け確認したら? とにかく、私は起こしたからね!? 遅刻してせつなセンパイ達に笑われても、私知らないんだから!」
バタンっと激しくドアが閉められる音を聞いて、僕は怪訝に思いつつも、自分のスマホを見た。
日付けは……確かに三月一日だ。夏音が僕のスマホにも何かしたのだろうか。僕は部屋の真ん中にあるテーブルの上に置かれているリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。
テレビからはきれいなニュースキャスターがすらすらと原稿を読み上げていた。でも、その内容は頭には入らなかった。
なぜなら、三月一日という日付けが、画面に堂々と、表示されていたからだ。
「なん……で……?」
確かに、確かに僕は昨日、卒業したはずだ。卒業して……相沢さんに振られた。これは間違えのない事実。
……のはずだった。僕は目線を一度逸らし、もう一度テレビの画面を見つめた。だけどやっぱり、三月一日の文字が表示されている。何回見ても、三月二日になることはなかった。
「あれは夢……?」
夢にしては記憶が残っているし、妙にリアリティがある。一体なんだったのか……。僕は唖然としたまま固まっていた。一体何がどうなっているのか、自分の頭を整理することができていないのだ。
「あ~もう! お兄ちゃん! 私、出るからね! ちゃんと時間になったら行くのよ!?」
おそらく玄関先からだろう、妹が叫ぶのがわかった。僕はその声を聞いて、はっとした。
そうだ。今はとりあえず行動しよう。にわかには信じられないが、現に今、僕は三月一日という文字を目にしているのだ。それは紛れもない現実なのだ。
そういえば、人間は予知夢というものを見ると聞いたことがある。原因はわからないが、僕はリアルな夢を見て、それがあまりにもリアルだったから、はっきりと記憶に残って、現実との区別がつかずに混乱したのだろう。
あのリアルで奇妙な夢は予知夢ってやつなのかもしれない。オカルトだと笑われるかもしれないが、そもそも現実と錯覚するほどの夢を見ているのだから、それくらいのものがあってもおかしくないだろう。
もしもあの夢が予知夢なら……僕は振られてしまう。そう意識した途端、目まいがした。僕は額に手をあてて頭を左右に振った。
「何考えているんだか」
顔を洗って頭を冷やそう。変な夢を見てまだ頭がぼけているんだ。そうだ。僕は卒業式の日に相沢さんに告白すると決めたんだ。もしも夢が予知夢なら、結末だけ外れてくれればいい。
――そう、結末だけ。
僕は身支度を済ませると、予定の時間になってから家を出た。自宅から数分歩いたところにある大通りの交差点で相沢さんと、もう一人……月野夜未さんと待ち合わせをしている。
三人でいつもこの場所で待ち合わせて、一緒に学校へと登校していた。それも、今日で最後だ。
交差点にある歩道橋のすぐ側で、相沢さんと月野さんの姿を確認することができた。相沢さんは相変わらずのかわいさだ。黒くて長い髪が、いつもより艶やかな気がした。
隣にいる月野さんは、相沢さんと対象的に、白とも銀とも言えるような、透き通った髪の色をしている。人形のような顔つきをしているところから、外国人とのハーフではないかという噂があったくらいだ。
二人ともとても美人で、僕みたいな平凡な人間と仲良くしてくれるのが不思議なくらいだ。
「あ。巡君、お早う!」
「巡。遅い。待った」
「うん。ごめんごめん」
僕は苦笑いしながら二人に近づいた。このやりとり……僕が夢で見たのと同じだ。やはりあれは予知夢? いや、たまたまかもしれない。
と、月野さんが、じとっとした目で僕の方を見ているのに気づいた。
「な、何?」
「巡」
「お、おう」
僕が考えごとをしているのを感づかれたのだろうか。月野さんから変な威圧を受けているようで、自分が変な汗をかいているのを感じた。
「ご飯粒ついてる」
月野さんが僕の頬を指差す。
「ご飯粒?」
左の頬にベタっとした感触を得た。
「あ、ほんとだ」
「全く。巡はだらしない」
そのセリフはさっき誰かにも言われたな……。
「ふふふふ。巡君はピクニックにでも行くのかな?」
相沢さんが手の甲を口元にあてて微笑む。こうやって笑うだけでも僕の胸に響く。
「ピクニックって?」
「うちのお母さんがいつも言うの。私が口にご飯粒をつけていると、弁当でも持ってピクニックにでも行くの? って」
「何それ? おもしろいね」
「せつなの母親は実に愉快」
なぜか月野さんが僕を見て鼻で笑う。
そしてこのやりとりは、夢と同じだ。
「さて、巡君も来たし、行こうか?」
「そうする」
「うん、そうだね」
三人並んで歩道橋を上る。相沢さんが真ん中だ。左に月野さん、右に僕。
「もう卒業なんて早いね~」
「早い。信じられない」
「僕もだよ。なんかあっという間だった」
「本当だね。私達三人、卒業したら離れ離れなんだね……」
そう。三人とも異なる進路を辿る。これはもうほとんど決まっていることだ。何が起きても、同じ道に進むということはない。
「夜未は別れたくない。ずっと一緒にいたい」
階段を上りきったところで、月野さんが力なく言った。僕は、何も言葉をかけることができない。僕も、同じ気持ちだ。
何気ない毎日がどれだけ楽しかったか。
「夜未ちゃん……」
相沢さんが優しい瞳を見せて月野さんの頭をそっとなでる。月野さんは黙ってそれを受け入れる。
「大丈夫。きっと大丈夫」
小さい子供をあやすように、相沢さんが言う。まるで母親のようだ。
僕も月野さんに何か声をかけようとしたが、気の利いた言葉が思いつかなかった。
もしも落ち込んでいるのが相沢さんだったら……僕は何か言えたのかな。
「うん……」
月野さんが顔をあげて相沢さんに笑顔を見せた。
「よし。それで夜未ちゃんだね。行こう?」
相沢さんが手を出して、月野さんがその手にちょこんと触れた。二人は手を握って歩き始めた。僕もワンテンポ遅れてその後に続いた。
それからは、たわいもない話をして、学校へと到着した。
その後はクラスメートと会って、卒業式を済ませて、担任からの話があって……泣く人、笑う人、みんなのいろんな顔を見て、最後の放課後になった。それまではまるでジェットコースターに乗っているかのようで、あっという間だった。
ここまでは夢と大差がなかった。
これから僕は自分の予知夢を覆す必要がある。相沢さんに告白して、成功して、幸せをつかむんだ。
夢では駄目だった。でも今は現実だ。大丈夫なはず。
教室を後にした僕は、男子トイレへと入った。鏡の前で髪型を念入りにチェックする。決してかっこいいとは言いがたい外見だけれども、どうしても気になってしまう。
パンパンっと僕は自分の両頬をはたいた。みんなにとっては卒業証書を受け取ることが本番だっただろうけど、僕にとっては今からが本番。一種の儀式が始まるのだ。
この後は確か……トイレの前で月野さんに会うんだ。それで月野さんに、今相沢さんが屋上にいるということを聞いて、急いで屋上に向かったんだっけ。
全く、告白しようとしているのに、相沢さんを呼び出すのを忘れていたなんて、夢の中の僕はなんてまぬけだったのだろう。我ながら笑ってしまう。
もしも夢が本当なら、相沢さんは屋上にいるはずだ。まあ、最悪スマホで連絡すればいいか。あ、夢の中の僕もこれくらいのノリだったのかな。そう思うと本当に自分がおかしくて、笑みがこぼれた。
「よし!」
男子トイレを出る。僕は廊下をきょろきょろと見回したが、月野さんの姿はどこにも見えなかった。
「あ、あれ……?」
夢ではここで話しかけられた。これは間違いない。はっきりと覚えている。まさか予知が外れたのか。今日一日、多少の差はあれど、ここまで極端に夢と異なるということはなかった。僕は口の中で唾液が増えるのを感じた。
僕は頭をかきむしった。どうしよう……?
予知夢から外れたことは本当は喜ぶべきことなんだ。だけどなんだろう、この気持ちは。胸の中がざわつく気がした。
予知夢通りなら、相沢さんはなぜか屋上にいるはずだ。でも、予知夢が大きく外れてしまった今、屋上にいないかもしれない。
スマホで連絡するか? でもすぐに気づかない可能性もある。校内に残っていればなおさらだ。
「一応行ってみるか……」
もやもやとした気持ちは晴れていないが、とりあえず屋上に向かうことにした。
屋上へと続く階段を一段、また一段と上っていく。大丈夫だと、僕は自分に言い聞かせた。
僕はドアの前で立ち止まった。ふうっと大きく息をする。
「行くぞ!」
覚悟を決めてドアをぐっと押した。
びゅうっと風が吹いた。
「どうしてここに?」
そこにいたのは相沢さん……ではなく、月野さんだった。月野さんの髪に光が当たり、一層輝いて見えた。月野さんは髪を気にする素振りを見せず、両手を腰の後ろで組んでいた。スカートがはらりはらりと揺れ、思わず太ももに目がいく。相沢さんに決して劣ることのない、白く透き通った肌。月野さんは、空を見上げていた。
「今日はいい天気」
「そう……だね」
夢の中では、屋上にいたのは相沢さんだった。でもここにいるのは月野さん。予知が……外れた。大事なところで外れた!
どうしよう。どうすればいい……今から相沢さんに電話をする? でも気づかれなかったら? いや、そもそも会ってくれるのか?
ああ、なんで夢を信じたのだろう! トイレの前で月野さんと会わなかった時点で夢から明らかに外れていたというのに!
「ふ……」
月野さんが微かに笑う。声に反応して、僕は意識を月野さんへと向けた。月野さんは首を左右に曲げ、目を細めてじっと僕の方を見た。
「せつなのことを考えている」
「な、いや……いや? そんなこと……」
「ある」
やけに重みのある言葉に、僕は月野さんに釘付けになった。
「あそこ」
月野さんが校門の方を指差した。僕はそれに導かれるようにフェンスに駆け寄って校門の方を見た。
「あれは……!」
相沢さんだ。相沢さんが、校門に一人立っている。誰かを待っているのだろうか。
とにかく、これはチャンスだ。今なら、急いで行けば間に合うかもしれない。
「月野さん。あの、僕、ちょっと行くね!」
「そう……」
「うん、またね! きっとまた、会う機会あると思うから!」
「そう……だね」
「じゃ!」
僕は屋上の出口のドアへと走った。速く行かないと間に合わなくなるかもしれない。
「あ……でも。なんで、月野さんは、屋上にいたの?」
僕はドアノブに手をかけながら、半身振り向いて聞いた。
「ないしょ」
人差し指を唇にあてて、妖艶に微笑む様は、今までに感じたことのない色気を僕に感じさせた。でもその目は、なぜか僕を見ていないような気がした。
風は止み、静かな空間がそこには存在していた。
「ほら、行って」
「あ、ああ……」
月野さんの様子が気になるものの、今は相沢さんだ。僕はドアを閉めて、全力で階段を駆け下りた。下駄箱で靴に履き替え、勢いそのままに正面玄関を駆け抜けた。校門には相沢さんがまだ一人で立っていた。良かった、間に合った。
僕は走りながら、握りこぶしにぎゅっと力をこめた。
「はぁ……はぁ……相沢さん!」
「巡君?」
僕は膝に手をつき、息を整えた。
「え……どうしたの?」
相沢さんは逡巡する様子を見せたが、すぐに僕に笑いかけてきた。
「そんなに息を切らして……何か私に用事? 忘れ物でもしたかなぁ?」
「ち、違うんだ……!」
落ちつけ。失敗は許されない。許されないんだ。呼吸は少しずつ楽になってきたのに、心臓はさっきから鳴りっ放しだ。
「実は言いたいことがあって!」
「言いたいこと?」
相沢さんが眉をひそめる。う、何かまずいことを言っただろうか。でも行くしかない。伝えるんだ。僕の気持ちをきっちり伝えれば、わかってくれるはずだ!
僕は体を起こして相沢さんと向き合う。
「うん。僕達、図書委員になって、それから、結構遊ぶようになったよね?」
「そうだね……」
「もう卒業なんだよ、僕達」
「うん……」
相沢さんがくるりと背を向けて空を見上げた。その姿が、不思議と月野さんと重なって見えた。
「このまま別れたくないんだ!」
「うん」
「だから僕は……」
風が、校門の脇にある桜の木を揺らす。ざわざわとした音が、流れていった。
「相沢さんとずっと一緒にいたい。好きです、つき合ってください!」
「……」
言った。はっきりと言った! 後は返事をもらうだけだ。僕はごくりと生唾を飲み込んだ。
「巡君」
相沢さんがくるりと僕の方へと振り返る。髪とスカートが風にのるように……。
ふわりと、舞った。
「嬉しい」
「え、なら」
もしかして、これはもしかして……!
「でも」
相沢さんは申し訳なさそうに言って。
「ごめんなさい」
どこかで見たことのある表情を見せて。
「気持ちに応えることはできないの」
体を微かに震わせた。
瞬間、相沢さんのスマホが鳴った。
僕をうかがう様子を見せる相沢さんに、反射的にうなずいて見せた。
「うん……うん……そう……うん……」
僕は電話をする相沢さんを、啞然とした気持ちのまま見つめていた。
さっき僕はなんと言われた?
えっと。確か。えっと。
そう。
そうだ。
ごめんなさい、だ。
僕はまた、振られたのだ。
「そうか……」
僕は誰にいうわけでもなく、ぽつりとつぶやいた。
相沢さんはまだ通話を続けている。
もう、この場にいても仕方がない。
「それ……じゃ」
僕はすぐにその場から走って逃げた。もう、いいんだ。もう。
その後僕は月野さんや他のクラスメートとも会うことなく、帰宅して家で自室に引きこもった。妹が何か言っていたが、気にしなかった。こんなところで予知夢と一致なんかする必要ないのに。そう思うと腹が立った。
僕は制服のまま、ベッドにばたりとうつ伏せに寝転んだ。ため息をつき、仰向けに態勢を変える。
「ああ……やっぱり駄目だったな」
天井をぼうっと見ていた僕の、視界が段々とにじんでいく。僕の世界が歪んでいく。
僕は高校で何か部活に打ち込んだわけでもなかった。難関大学に合格したわけでもなかった。恋愛だって……できなかった。
僕には、何も残らなかった。
予知夢のようなものさえ見たのに、何も生かせなかった。もう、今度こそ、本当に終わりだ。
「相沢さん……」
相沢さんは本当に優しい人だった。暖かい人だった。僕の中で大きな存在だった。
――でも、遠かった。
「はぁ……」
考えれば考えるほど、何もかもが沈んでいく。疲れた。妙に疲れた。
今度こそ終わったんだと思うと、悲しさが内から目元に流れ出るようだった。
自然と自分の意識が遠のいていくのを感じた……。
窓から微かに差し込む日差しに、僕は目を細めた。
「眠っていたのか……」
僕は半身起こすと、ぐっと両手を伸ばして背伸びをした。ふうっと息を吐き、ベッドから立ち上がる。
半端に閉まっていたカーテンを開いて、僕は昨日のことを思い出した。昨日は夢を見たことで混乱したところから始まった。
結局僕はその夢を生かすことができず、相沢さんに告白して、振られた。
外の天気は晴れ。昨日と同じだ。だけど、僕の気持ちは全く晴れない。
「……うん」
いつまでも悩んでも仕方ないのはわかってる。でも……。
「そんなに簡単に割り切れたら苦労しないよなあ……」
人間だもの。と、どこかの詩人のようなことを言いたくなる。
「ちょっとお兄ちゃん起きてる!? 大丈夫」
夏音だ。勢いよくドアを開けて、僕の部屋へと駆け込んできた。
夏音は腰に手をあて、二つに結んだ長い髪を振りかざしながら言った。
「卒業式の日に何のんびりしてるの!? 全く、だらしないってレベルじゃないわよ。卒業生は私達より遅い登校だけど……そんな調子で大丈夫? これだからいつまでたっても私がいないと駄目なんだから……」
「は? 夏音、今何て?」
「だから卒業式だって!」
「卒業式……だって? まさか! 夏音、スマホ貸して!」
「え? いいけど?」
夏音からスマホを受け取り、スマホの日付けを確認する。
――日付けは、三月一日を表示していた。