波状山脈4
疲れた気分で周りを見れば、フェルネットがにこにこと笑っていた。なぜ上機嫌なのか。
〔ルジェさんは眠らなくていいんですか? やっぱり昼間に寝るのかな〕
「三日くらいは寝なくても平気だ。ヴァルツでは日中就寝が基本だが、あまり昼夜の区別はない。一説によると、一日に三度もうたた寝をすれば十分らしい」
〔うわあ、頭がくるくるしそうですねー〕
前線でもっと酷い状況を経験しているルジェにはまったく気にならなかった。同じ不眠不休でも、五体満足で安全な場所に潜んでいられるだけマシだ。
「精霊は眠らないのか?」
〔今はルジェさんが話し相手になってくれるから、平気です〕笑顔でずれた答えを返された。〔逆に体があったら、怖くて声も出なかったかもですけど〕
「ああ、それは思う。こちらとしても気が楽だ」ルジェは静かに頷いた。
猫が逃げる鼠を追うようなもので、怯えている人間は同族の関心を引きやすい。彼が下手な気を起こさないでいられるのも、ラトゥールが堂々としているのが大きかった。
「……あいつの手前、ああ言ったが」ちらりとラトゥールが寝入っているのを確認する。「極度の貧血でも起こさない限り、こちらから手を出すことはないと思ってくれていい。俺は小喰だから、たとえこのまま遭難しても手持ちの血液で二週間はもつ」
〔あの……そのことなんですけど〕フェルネットがおずおずと手を上げた。〔吸血鬼の人だからってことなら、わたし、もう恐くないです〕
言い終わるか否か、ルジェとフェルネットの目が合った。
途端に少女がびくりと身を竦ませる。
〔あっ、こ、これは違って! まだ目がキュッてなったりピカッてなると吃驚するだけで、あ、でもルジェさんの目は綺麗だと思います! 春の夜の雷みたいな、柔らかい紫で!〕
身振り手振りで必死に弁護されたが、後付けにしか見えなかった。大体、雷に違いなどあるのだろうか。放電系の魔法ならよく使うが、考えたこともない。
「恐れは本能だ。無理に克服しようとすると神経が参るぞ」
〔いいえ。わたし、自分の体が看病されるのを眺めてるうちに、気づいたんです。吸血鬼の人も、人間の皆と変わらないって〕人形のような手で指折り数えて、フェルネットは歌うように続ける。〔ヴァルツに送られる時に付き添ってくれた人、すごく丁寧に扱ってくれました。病院で息が止まった時のお医者さんや看護婦さん、一生懸命呼びかけてくれました。『戻って来い』って言われた時、わたし、半分精霊の皆みたいな気分になってたんですけど、自分の……フェルネット・ブランカの形はこうだって思い出せたんです〕
「待て。死に掛けたなんて報告は受けてないぞ」
〔死んでないです。ちょっと自分の形を忘れそうになっただけです〕事も無げに返される。
ルジェはとっさに物が言えなかった。形を忘れただけで死ぬ? もしや彼女は今、とんでもなく儚い存在なのではないか。意識を失えば消えてしまうような……。
眠ることもできないのは、その証拠なのでは。
フェルネットは俯いて、拳を片手で包むようにして胸へ押し当てた。
〔さっきの護衛さんたちだって、魔物がルジェさんのほうへ行かないように身を挺してくれてたの、見てました。皆、わたしが攫われたときに助けてくれようとした村のおじさんたちと同じ表情で、必死に……〕少女の頬から一滴の光が零れ落ちた。地に触れる寸前で消えていく。〔一緒なんです。だからもう、恐くなんかない〕
きっと顔を上げたフェルネットから、ルジェは素早く視線を逸らした。ここで目を合わせれば、彼女は意思に反して怯えてしまうだろう。それは酷な仕打ちに思えた。
〔それに、こんな綺麗な人を恐がってばっかりなのも、もったいないですし、ね〕
フェルネットはもごもごと呟きながら、一人で何度も頷きはじめる。その熱視線は男を見るというより、美術品を鑑賞しているときに近い。
……またこれか。ルジェはうんざりした。眉間に皺をよせ、細くて深い溜息をつく。自分の顔には複雑な思いがあるので、できれば触れたくなかったのだが……。
「俺たちは人間が惹かれるようにできている。疑似餌みたいなものだから、気にするな」
人間は彼らを恐れる一方で、その外見に強く魅惑される。自ら首筋を捧げさせるようにとの、生物的な戦略なのだろう。ルジェの没個性的な顔立ちですら、人間には『アクがなくて好ましい』と好評らしい。……というか、無駄に好かれる。とても無駄に。
人間に好かれてもヴァルツでは碌なことがない。直接摂取はできないし、恋愛感情に応えてやれば虐待になる。しかも彼らの好意はあくまで恐怖と一体なのだ。酷くなるとわざわざ自分から会いに来てヒステリーを起こしたりと、わけのわからないことを始めだす。
フェルネットには身体がないので、好かれても嫌われても実害がない。本当に助かる。
〔罠なのも納得な美人さんですよね。いいなぁー〕
しかし目と鼻の先で惚れ惚れと賞賛されては、ルジェとて身の置き場に困る。くすぐったさと気持ち悪さは根が同じだと思いつつ、ルジェは顔をしかめた。
「美麗だ華麗だ艶麗だと、そういうのは年頃を過ぎたぐらいの女に言ってやれ」
〔うーん、ルジェさんだと『格好いい』とは違うんですよねー。格好いい人はもっとこう、ムッキムキのゴッツゴツじゃないですか。腕とか胸とか、岩みたいにガチガチで!〕
「お前の『格好いい』の基準はどうなってるんだ……?」
思わぬ少女の趣味に絶句する。そもそも同族は力に比べて細身だが、それは多少鍛えたぐらいでは筋肉がつかないからだ。教練程度で肉がつくような輩は生まれ持った能力の底が知れている。だからルジェは筋肉質なだけが男の価値ではないと考えるのだが。
フェルネットは力瘤を作る真似をしながら、けろりと答えた。〔村のおじさんが『格好いい男っつーのは俺らみたいな奴のことだ!』って言ってましたよ?〕
「信じるなよ……」あまりのことにあきれてしまい、ルジェはいつもより無防備に言葉を続けた。「それにしても、農民っていうのはそんなに鍛えてるものなのか?」
〔はい。毎日畑仕事のあとに、皆で集まって遅くまで『えいやーそいやー』って、鋤とか鍬とか剣とか槍とかふるってましたけど。……? なにか変なこと、言いました?〕
「それはただの農民じゃなくて、開墾兵とかいうやつなんじゃないか?」
何気なく口に出してから、ルジェは内心首を傾げた。未開拓地に村を作って領土を広げる開墾兵は、国境線の守備も兼ねるという。しかし、テア国の東は精霊の住む『大森林』が広がるばかりで、攻め入る国などないはずだ。大森林には魔物もいないし、野生動物もおとなしいと聞く。森自体が鉄壁となってテアの東端を守っているくらいだろう。そんなところへ兵士を常備する意味があるか?
ヴァルツには国境線がないのでルジェには子細がわからないが、人間の国に民へ武器の訓練を行き届かせられるほどの力があるとは思えなかった。
〔かいこんへい、ですか?〕フェルネットはおっとりと頬へ手を添えて、細い首を傾げた。〔ほにゃららごえい騎士団って聞いたことがあるんですけど。東の森を守ってるって〕
「護衛騎士団……もしかしてそれは、お前のことを守ってたんじゃないか?」
ルジェが呟いた瞬間、ぴたりとフェルネットが空中で静止した。
〔でっ、でもでも! おじさんは『皆で森を守ってる』って、言ってましたよ? 奥さんたちも、女の子も、ちっちゃい子も! わたしもその一人だって、信じてて……〕彼女は人形のような白い手を忙しなく動かした後、両頬を包み込んだ。
「その村自体がお前を隠匿……隠し守るためにあったんだろうな。他国や魔術師に知られないよう、地図にも載せないでおいたんだろう」
フェルネットが大森林に守られていたのは想像に難くない。あの地は人の気を狂わせる、不可侵の聖域だ。騎士団は森だけでは賄えない人としての生活を支援し、秘匿してきたと考えるのが妥当だろう。精霊の娘を守護し、育み――その後、どうする?
主要な領地を差し出す程度には、テアは少女に期待している。いずれは王家の血脈に取り込む算段だろうが、それにしては十六歳まで待つのはいささか暢気な気がした。人間は結婚という過去の因習を重んじるはずだ。先に名前だけでも変えておけばよかったものを。
なんらかの事情があって、できなかったのかもしれないな……。
情報不足と断じる一方で、十六年も隠されてきたものを暴き、厳重な警備を突破した者がいるというのも気になった。犯人は魔術師だろうか。精導士だろうか。それとも。
〔……あの〕唐突に、真に迫った声がした。〔これからわたし、村に帰るんですよね?〕
フェルネットは硬い表情で両の手を握りしめていた。真珠色の光で見分けがつかないが、体があれば蒼白な顔色をしているだろう。
言葉に詰まる自分を感じながら、ルジェは平静を維持した。静かに腹の底へ力を込める。
見透かされるな。それは最も残酷な行為だ。
「俺の任務はテアの国王へお前を引き渡すことだ。帰りたいなら自分で願い出ろ」
フェルネットは彼の内心には気づかず、ただ俯いて、弱々しく呟いた。
〔わたし、今まで『早く帰って皆に謝らなきゃ』ってばかり思っていたんです。わたしのせいで、おじさんたちにたくさんケガをさせちゃったから……〕指の爪ほどの顔がゆっくりと上がる。甘藍石ような瞳が煌めいた。〔けど、わたしが戻ったら、またあの人たちが攫いにくるだけなんじゃないかな。今度はもっとたくさんの人が傷つくんじゃないかな〕
ある意味で真理を口にしながら、フェルネットの語尾はどんどん小さくなっていった。
〔やっぱり、わたしは森から出ちゃいけなかったんだ……〕
真珠色の光が一段、翳った気がした。
「――フェ」反射的に呼びかけようとして、ルジェの頭の中で警鐘が鳴った。
それ以上は肩入れするな。
これは――お前が殺す人間だろう?
一瞬の沈黙を狙ったかのように、慎重に戸を叩く音が響いた。
ルジェは表情を引き締めて頭上を見る。応援だ。素早く口へ指を当ててフェルネットに黙っているよう指示を出すと、壁を所定の拍子で叩いて合図を返した。
滑り込んできた護衛たちへ機械的に敬礼し、前の一点を見つめる。この狭い空間ではどうあがいてもフェルネットの光が目に入る。神経を張り詰めて目線を維持した。
平静を保て。同族のほとんどは魔法なんてペテンだと思っている。精霊が見えているなどと知られたら、即座に七一へ告げ口されるだろう。
班長と思われる男が歩みよってきた。ルジェと同じく中尉だが、勤続年数はずっと下のはずだ。男は正確な敬礼を返し、中央慣れした口調で告げた。
「ルジェ‐ラトゥール中尉ですね、お勤めご苦労さまです。状況は把握しております。大変な目にあわれましたね。我々が参りましたからには、どうぞご安心を」
「助かります。到着早々ですが、この人間が低酸素症の症状を訴えているので、少し高度を下げたいのですが。協力願えますか?」
「そうですか……」男は一瞬口ごもり、横たわるフェルネットの身体へ視線を走らせた。「ですが、この様子なら大丈夫でしょう。貴官は任務を優先してください」
「しかし」
「お言葉ですが、中尉。すでに彼女のために五名が殉職している状況です。まだ魔物が潜んでいる可能性もなくはありませんし、先を急ぐのが賢明かと。――それに、これは人間です。極論ですが、息さえあれば十分なのでは?」
〔ひどい〕フェルネットが鋭く息をのんだ。〔だめです。そんなの黒ちゃんが――〕言いかけて自分の立場に気づいたのだろう。彼女は泣きそうな顔でルジェに食い下がった。〔お願いです、ルジェさん、止めてください! ねえ、ルジェさん!〕
ルジェはそれを全力で無視した。
男は、先の護衛は『彼女のために』殉職したと言ったが、厳密には行程の詳細を組み、決定を下したルジェに非がある。資料ではこの付近の危険度が低かったものの、それは同族が数時間で移動した場合で、人間を連れて何日もたらたらと歩いていれば、自ずから接触率は上がったはずだ。それでも守りきれると予測した上だったが、現実は違った。
ラトゥールは目を閉じたまま動かない。ルジェにはそれが寝たふりだとわかっていたが、ここで口を挟んでこないこと自体が意見を主張していた。曰く、『この男は正しい』。
数瞬の後、ルジェは静かに目を伏せた。
「……失礼しました。慣れない事態ゆえ、視野狭窄に陥っていたようです」
フェルネットが目を瞠る。〔ルジェ――……〕ゆるゆると甘藍石の瞳が失望に染まった。
護衛の男は無駄に爽やかな笑みで会釈した。
「ご理解、痛み入ります。では明日の日中には第二波山から鉄道へ乗れるよう、計画を変更しましょう。――それと。先程までどなたかと、話をされて?」
「まさか」
「そうですか。風の音でも聞き間違えたのでしょうね」
部下の元へ戻る男の背を見つめながら、ルジェは軍人が式典でみせる無表情を守った。
その視界の隅に、うなだれるフェルネットの小さな姿がある。
〔……ルジェのばか……〕
力ない声に鈍く胃が痛んだ。同時に、ルジェは自分の任務が何だったのかを知る。
この任務の本質は、裏切りだ。
全力で守れば守るほど、優しい言葉をかけるほど、残酷な結果が待っている。
その矛盾が彼の胃をいっそう重くした。