波状山脈2
「――から、仕方なかったんだよ。口なら閉じてれば匂いも拡散しないし、ね?」
〔でも口移しじゃなくても良かったでしょ? わ、わたしまだ、誰とも……〕
まどろみの中で、ぞんざいな口調のフェルネットと、柔らかな少女の声が聞こえた。
「キスくらい喜んでおけばいいじゃない。散々『綺麗だ美形だ』って騒いでたんだからさ」
〔それとこれとは全然違うの!〕
「怒らないでよ、減るもんじゃなし……あ、血は減ったか。ふふっ、彼、すんごい不味そうだったねぇー。吐き出されたらどうしようって思ったよ」
〔う。血を狙われるのも恐いけど、あれはあれで傷つくね……〕
ルジェの意識が徐々に覚醒する。けれど体に力が入らない。目を閉じたままじっと体を横たえていると、何か小さなものが顔の辺りを飛び回る気配がした。
〔ね、この人、このまま放っておいて大丈夫?〕
「大丈夫だよ。君の体みたいに柔じゃないんだから。それよりこっちを気遣ってよ。散々揺さぶられて、あったま痛いったら」
〔あっ、そんなふうに叩かないでよ! 壊れちゃったらどうするのー〕
「君の頭は機械なの? まあ、壊れかけなのは否定しないけど」
〔もー意地悪ばっかり〕気配が急に近付いた。〔……それにしても、吸血鬼の人ってみんな本当に綺麗だね。このまま目を開けないでいてくれたら、ずっと近くで眺められ――〕
ぱっとルジェが目を開く。眩しい。至近距離で顔に光をかざされて、視界が真っ白に染まっている。目を瞬かせているうちに、光の正体に気づいた。黄色みを帯びた光の中に、うっすらと透き通った少女の姿がある。
目の前に、手ほどの大きさのフェルネットがいた。柔らかそうな織物を羽織り、全身から真珠色の淡い光を放っている。羽もないのにふわふわと宙を漂う小さな少女を見て、ルジェはついに自分も『終わった』と思った。
人形のようなフェルネットは、彼の視線が彼女を捉えているのに気づいて、硬直した。
〔こ、こんにちは〕
「……こんにちは」
意外と言うことは普通だった。幻覚にも常識が通用するのだろうか。
中途半端にイカれたらしい頭にルジェが感心していると、上からひょいと覗き込まれた。
淡い金髪が顔にかかる。こちらは普通のフェルネットだ。何が普通かは知らないが、人並みの大きさで飛ばないから普通だ。これも幻覚だったら、もうロイに泣きつくしかない。
大フェルネットはにやにやといやらしい笑みを浮かべて、上から手を差し伸べてきた。
「おはよう、ねぼすけ君。気分はどう?」
「……最悪だ――うっ」
手を取って起き上がろうとした瞬間、吐き気をもよおした。隣に吐こうとして、そこに護衛の死体が転がっているのに気づく。寸で反対を向いた。その勢いで盛大に吐く。
「おやおや、情けない。ありがたい供血者の前で吐くだなんて」
「これは……、一体、どういうことだ?」這いつくばったまま喘ぐ。口が苦い。胃袋もガチガチで、まるで酷い二日酔いか、間違えて古い血を喰らったときのようだった。
「見ればわかるでしょう。こちらが本物のフェルネット・ブランカ嬢なんだよ」
片手でルジェの背をさすりながら、大フェルネットが小フェルネットを指さした。指先が正確に空中を示しているので、ルジェ一人に見えているわけではないらしい。
「本物……?」
怪訝に眉を寄せる彼へ、大フェルネットが投げ捨てたはずの荷物と剣を顎で示す。
「詳しい話は歩いてしようか。この辺りの魔物は粗方やっつけちゃったみたいだけど、血臭がひどいから最寄りの補給小屋はやめておいたほうがいい。もう一つ遠くまで行こう」
「なぜ、そんなことを知っている」
「後でって言ったでしょ。もうすぐ日没だ、この体で夜の登山は嫌だからね。あとそう、護衛の補充なら呼んでおいたから。『魔物は全滅、護送対象を含む二名生存』ってね」
大フェルネットはルジェの懐から取ったと思われる緊急用の小型照明をカチカチと点滅させて皮肉げに笑うと、長い金髪をふわりと翻して山道を歩き出した。その足取りには先ほどまでの淑やかさがない。
ルジェは胃液か別の何かを少しの水ですすぐと、口元を拭って立ち上がった。立ち眩みで目の前が真っ暗になるのを耐える。荷物を引っ掴み、仲間の遺体に小さく敬礼すると少女の後を追った。
彼の様子を小さいほうのフェルネットは振りかえり振りかえり、心配げに見ていたが、目が合うと途端に顔を強張らせて大フェルネットの髪の中に隠れた。ルジェの猫の瞳が恐いのだろう。ごく一般的な人間の反応だが……今の彼女はそもそも人間なのだろうか。髪に隠れたときも、幽霊のように毛ひとつ動かさずに通り抜けていた。
「彼女は、精霊なのか?」
「お孫さんだって知ってるでしょ? 肉体から精神が分離できたって不思議じゃないよ」
「不思議じゃないって、お前……」
反射的に抗議の声をあげたが、その先はむかつく胃を慮って黙った。無駄な議論はやめよう。そもそも精霊がどうやって人と交わるのかも解明されていないのだ。一時的に仮の体を持つらしいが、確かめた者はいない。
大フェルネットは彼の様子を面白げに横目で見やると、髪の中の少女へ話しかけた。
「フェルネ。せっかく話せるようになったんだから、ちゃんと自己紹介したら?」
あきれ声で促され、金髪から恐る恐る小さな顔が出た。ルジェの目では光に紛れてよくわからないのだが、清楚な雰囲気が彼女本来の容姿と合っているように思う。
〔は、はじめまして。フェルネですっ〕ぺこりと頭を下げられる。
「……はじめまして」
真面目に二度目の挨拶を交わす二人に、大フェルネット――偽者が盛大に噴き出した。
ルジェはそれを横目で睨みつける。「こっちが本体なら、お前はなんだ?」
「さあね。なんだと思う?」くるりと少女の体がふり返った。なぜか楽しそうだ。
ルジェは相手を見据えたまま、慎重に呟いた。
「黒精霊……だな。誰の意識を模倣している?」
黒精霊とは、荒野固有の精霊だ。魔法を支援する通常の精霊とはまったくの別種で、『理ある者』に憑依してその自我を学習する能力を持つ。
この性質を利用して、かつて同族の貴族はある禁術を行使していた。
適当な人物Aの意識を模倣させた黒精霊を、標的である人物Bへ憑依させるのだ。するとBはまるでAのように振る舞い、間接的に操ることができた。けれど憑依されたBは無論、一歩間違えば模倣元のAや術者も自我が崩壊する。かつては同族の貴族が得意としていた魔法系統だが、貴族制の打倒とともに扱える者がいなくなり、廃れたはずだ。
「君なら誰かわかると思うんだけどな。ね、気づかない?」
偽者は自信たっぷりに両手を広げた。勝手に救援を呼ばれたくらいだから、軍の関係者なのは確実だろう。では具体的に誰か。どこかで見た気はするのだが、少女の姿が邪魔をして思い出せない。ルジェの知り合いでも故人を含めれば膨大な数になるのだ。
怪訝に眉を寄せていると、相手は大げさに呆れ返った。
「うわ、本当に見覚えないの?」古典劇の役者のようにひらひらと手を動かす。「この口調、表情、態度に身振り手振りを! 二十年も傍にいたのに! ――まぁ、最近じゃ滅多に会いもしなかったけど」最後にすとんと声を落として、興味なさげにそっぽを向いた。
その動作がルジェの記憶をくすぐった。少年のような口調も、道化じみた古臭い仕草も、思考をかき乱す話題の飛び方も、全てに覚えがある。それも、つい最近、どこかで。
まさか……と、ルジェは恐る恐る口を開いた。自分の勘違いを願って。
「ラトゥール……か?」
「あくまで模倣物だけどね」
その酷薄な笑みが、ぞっとするほど養父に似ていた。顔の造形は少女のままなのに、細めた目元の見下し方、皮肉げな口角の歪み具合、わずかに首をかしげる動きまでが、忠実にラトゥールなのだ。旧貴族らしい猫撫で声までそっくりだった。
ルジェは一瞬、気が遠くなりかけた。
「バカじゃないのか!? 何やってんだ! いや、何を企んで――うぇっ」
「企むもなにもないよ、いきなり彼の体から放り出されたんだ」肩を竦めて歩き出す。「危うく消滅しかけてたのを彼女に助けられたわけ。こっちも不測の事態だったんだよ」
〔わたしも事故で体から飛び出しちゃって、困ってたんです。戻れないし、体のほうはどんどん弱っちゃうし……。そこに丁度、黒ちゃんが〕
「黒ちゃん」とルジェが呟くと、精神体のフェルネットが光の中でにっこりと頷いた。
〔はい、黒い子だから。『誰かに取り憑いてないと消えちゃう』って言うから、じゃあ、わたしの体を使ってって。わたしは白い子の仲間なんで、このままでも平気なんです〕
そこまで答えてルジェと目が合ってしまい、光の少女は慌てて髪の中に引っ込んだ。
「なら、ラトゥールの差し金じゃないのか……?」
少女が逃げ出さないように手を打ったのではと思ったのだが、違うのだろうか。
「彼はこのことを知らないと思うよ。彼女に宿ってからも接触はなかったもの。取調べは何回も受けたけどね。ふふ、あれ、上手くやってたでしょ? フェルネの長くて纏まりのない話を即興で要約してたんだけどさ、話があっちこっちに飛ぶから大変で大変で」
〔だって話しておいたことの他にも、たくさん聞かれたからっ〕髪から声だけが届く。
ルジェはやっと合点がいった。「それで何度も視線が彷徨ってたのか」
「え、それは自覚なかったな。君も気をつけたほうがいいよ。これからはうっかり彼女に反応すると、独り言が激しくて周りの見えてない、可哀想な人になるから」
言われて改めて気づく。どうやらルジェにも精霊が見えるようになっているらしい、と。
「そうだ! お前、あの時俺に何を盛った!?」
「……失礼な言い方をするねぇー、この子は。べつになんにも入れてないよ。フェルネの血をちょっぴり分けてあげただけ。ま、その様子じゃ下手な毒より効いたみたいだけど」
「嘘つけ。血があんなに苦いわけがないだろうが」
「知らないよ。この体じゃ血の味も全然違うし……。キスしたのは嫌がらせだけどさー」
〔やっぱり悪ふざけだったんだ!〕光の塊が髪から飛び出して、小さな手で少女の体をぽかぽかと殴った。手が通り抜けてしまうので、害はない。〔初めてなのにひどいよ!〕
「まあ、その責任はルジェが取るとして」虫を払うように本体をのけて、ラトゥールの模倣物は続ける。「彼女の血を飲むと、一時的に精導士になれるらしいんだよね」
「血……? ラトゥールが言っていたのは、このことか」
総統室での会話を思い出す。能力の媒介物が血なら、テアやエンが少女を血眼で欲しがるのも頷ける。それに、殺してしまえば後には残らない。
「けど精霊が見えるのは一瞬のはずで、こうしてずっと話せるのは変なんだけどねぇ」
〔ルジェさんにわたしの姿が見えるのは、さっきので縁ができちゃったからかもしれません。え、えと、ルジェさんは、他の子たちも見えてますか?〕
びくびくしながらフェルネットに見つめられ、ルジェは視線を横へ流した。辺りは夕日の朱に染まり、赤一色になっている。少女の他に輝くものは太陽しか見当たらない。
「今はお前の他には見えないようだ。声が聞こえるのも、お前だけだな」
『声』という言葉に反応して、フェルネットの表情がぱっと華やいだ。
〔そうなんです!〕胸の前で手を合わせて、素直に笑いかけてくる。〔普通の人は声が聞こえないはずなのに! 話せる人が増えて、わたし、嬉しくて!〕
おもいっきり二人の目が合って、一拍、奇妙な沈黙が流れた。
フェルネットの声と姿がすごすごと縮こまる。〔……じ、じゃあきっと、今まで飲んだ人は、体のないわたしを知らないから、気づかなかった、んです、ね……〕
ルジェは仕方なく目を瞑った。歩きながらなので不本意だが、自分なら転びはしないだろう。聞きたいことが山ほどあるのだ、一々怯えられてはやっていられない。
「そうなると、やはりあの時の声はお前か。あの大魔法はお前の力だったのか?」
〔ううん、わたしは皆に助けを呼びかけただけです。ここにも少し白い子がいるから!〕
目を閉じた途端に元気になった少女の声に、ルジェは内心笑った。
「今のお前は魔法を使えない、と?」
〔はい。元々皆の力を借りてただけで、自分の力を使ったことがないですし、使い方も知らないです。今だって白い子みたいに見えますけど、わたし一人じゃなんにもできないですから〕柔らかな苦笑が続いた。
……精導士にしては、珍しい考え方をする。
ルジェは仕事柄、これまでに幾人かの精導士と面識があった。彼らが自らの能力に述べた言葉は二種類に分類できる。一つは『精霊が扱える自分は秀でている』、もう一つは『己の血統ならば当然の能力で、自慢するのも愚かしい』、だ。どちらも意味は同じ。自負だ。彼らにとって精霊は才能の一部だった。
フェルネットは自分と精霊との間に一線を引いているように見える。その一方で、人間と精霊を区別しないという奇妙な現象もあるようだが。
一体どんな環境で育てばこんな子供に育つのか。少し、興味が湧いた。
彼が小さく微笑んだとき、とさりと軽い音がした。目を開けると少女の体が倒れている。
〔黒ちゃん?〕「どうした?」二つの呼びかけが重なった。
「……なんでもない。転んだだけだよ」立ち上がろうとする足に力が入っていなかった。
「嘘をつくな。水だ、飲め」
脱水を疑って水を与えると、少しずつ口へ含む。特に渇いてはいないようだ。おかしい。
淡い光が少女の周りをおろおろと飛び回る。〔大丈夫? 本当に大丈夫?〕
「うん、もう平気だよ。……急ごう。日没の前に着かないと」
不意に強い風が吹き降ろした。山向こうから届く風は、既に夜の気配を帯びている。その風に煽られて、立ち上がりかけた少女の体が前のめりになった。
ルジェが素早く腕を引き上げる。
「無理をするな、ラトゥール」
名を呼ばれ、鮮やかな緑の瞳が彼を見上げた。夕日に照らされて少女の顔は朱い。しかしよく見れば、頬や唇から血の気が引いているのがわかる。
少女の瞳に映った自分の顔が、一段と渋くなった。
「必要なら俺が運ぶ。症状を言え」掴んだ腕から素早く脈をとる。ひどく速い。
少女の姿をしたラトゥールは観念したらしく、その場にずるりと座り込んだ。
「頭が痛い。耳鳴りがして、寒気がする」
〔風邪、じゃないね。悪いものは入ってないから〕少女が奇妙な診断を下した。
「吐き気は? 麻痺はないな? 頭を打ってはいないから、おそらく高山病だろう。魔物のせいで予定より標高を上げたからな」
標高三千米を超えた場合、人間が一日に耐えられる上昇高度は三百米までだ。予定を変更したせいで、今朝出発した地点から目標の補給小屋までは四百米近い標高差がある。
〔こういう時は古柯の葉を噛むといいんだけど……ないかな〕呟いて、真珠色の光が空高く舞い上がった。〔ちょっと見てきます。先に行っててください〕
頷き返しながら、ルジェはそんなことをしても無駄だとわかっていた。植物が散見され始めるのは第三山脈以東だ。第一波山には覇王樹も生えない。
大丈夫だと言い張るラトゥールを、ルジェは更に水を飲ませて黙らせた。
「高度を下げるぞ。応援が着き次第、いや、朝一でヴァルツへ――」
「戻らなくていい」弱々しい声で言い切られる。「目的地はすぐそこだ。もう動くには寒すぎる。君が運べば速いだろうけど、そのぶん冷えて体力も奪われるって、わかってる? それとも君はまだ人間ってモノを理解してないのかな?」
「配慮が足りていないのは認める。だが」
「途中で魔物に会ったらどうするの、また逃げるの? フェルネに追い払ってもらうつもりかな? それでまた気絶するの? 君はもっと冷静な判断ができる子だと思ってたけど、買い被りだったかな」つらつらと質問という名の批判を重ね、ラトゥールは鼻で笑う。「大体、他人より自分の心配をしなよ。目と鼻の先で帰ってみてごらん、彼なら『遠足にでも行ったのかい?』って言うよ。……失敗で済むような任務じゃないんでしょ」
真面目に声を落とされて、ルジェは相手を見つめ直した。
「……知っているのか?」
「いいや。けど彼の考えそうなことならわかるよ、長い憑き合いだからね」口元を歪めて自嘲し、ラトゥールは水筒を投げ返した。「症状は軽い。行こう」
立ち上がろうとする少女の細い体を、ルジェは攫うように抱きかかえた。
ラトゥールが声を荒げる。「ちょっと!」
「お前のためじゃない。こっちは『失敗じゃ済まない』んでね」
「……まったく、君はほんとに……」
その先は言わず、ラトゥールは腕の中でおとなしくなった。
ルジェは急な斜面を振り返り、下の補給小屋までを目で測る。あそこなら高度をかなり下げられるはずだ。けれどその近くに幾つもの血溜りを見つけて、彼は奥歯を噛み締めた。