第二章:波状山脈1
第二章:波状山脈
荒野の岩はどれも錆びた鉄の色をしている。強風に舞い上がる砂塵すら赤い。その赤い風を受けて、フェルネットの淡い金髪が一筋、きらきらと踊っていた。
彼女は切り立った崖の上で、遠く広がる荒野を見下ろしていた。迷彩効果のある赤い防寒着の下に、薄い防砂服を着込んでいる。頭も顔もすっぽりと布で覆われていた。保湿と、肺に砂粒が入るのを避け、また赤砂に含まれる鉱物の汚染を防ぐ役割がある。
少女は布の隙間から緑色の瞳をきらめかせて、眼下のヴァルツを眺めていた。同族の三分の一を納めている巨大な都市も、距離が開くにつれてすっかり小さくなっていた。
出発から三日目。今日で八合目まで登る予定だ。そこで二泊し、フェルネットの体調を見て峠を越える。人間の足でも十分余裕のある日程だと、ルジェは考えていた。しかし同族が拓いただけあって、旧道は急な山肌をほぼ直線にひかれている。人間では越えられないような絶壁もあり、その度に彼がフェルネットを抱えて越える予定だが、気づかぬうちに短時間で高度を上げすぎてしまう危険があった。おかげで本来なら数十分の道程を、炎天下のさなか休み休み、のんびりゆったりだらだらと登っている。下手な教練より辛い。
始めは少女を抱えて一気に駆け抜ける予定だったのだが、寒さと衰弱で死亡した例があったので止めた。空気抵抗も長時間続くと凶器になるらしい。人間の脆さは本当に恐い。
少女が見入る先では、逆光を受けてヴァルツの影がこちらへ伸びてきていた。その周りには所々白けた場所がある。しばしば『雪原』と喩えられる、塩田だ。うっすらと赤みを帯びた塩に、銅の緑や亜鉛の朱が筋となって幾重にも流線を描いている。
ヴァルツからまっすぐに西へ向かう鉄道の線路を目で追えば、冗談のようになだらかな地平線があった。その線で世界は真っ青に反転する。誰にも辿り着けない青に。
「いい眺めですわね……」
風に舞う髪を押さえて、フェルネットが感慨深く呟いた。
黒眼鏡の砂塵を拭っていたルジェは、彼女の髪が放つ光に目を細める。
「遠くもいいが、近くも見ろ。それ以上端によると吹き飛ばされるぞ」
裸の山肌を駆け下りる突風は少女ぐらい簡単に攫っていくだろう。ルジェは縄で繋いでおくべきかと考えて、それでは犬のようだと思い直した。人間にそんな扱いをしたら、いろんな意味で洒落にならない。
「あら、吹き飛ばされても貴方なら助けられるんじゃなくて?」
鼻で笑うように答えられ、舌を打ちそうになった。
彼女の直接の護衛はルジェ一人だ。ラトゥールが与えた護衛は遠ざけてある。彼ら一班五名の喰欲を懸念しているわけではないのだが、中央守備を自負する血気盛んな武官が、人間の小娘に顎で使われて黙っているとは思えない。何かあれば一足飛びで駆けつけられる範囲にはいてもらっているが……まったく、胃が痛くなりそうだ。
ルジェは溜息混じりに黒眼鏡をかけ直した。刺すような眩しさがやわらぐ。遠視矯正が入っているので近くも見やすくなった。少女の姿もはっきりと見える。
フェルネットは首だけで振り返り、甘えるように小首を傾げた。
「ねえ、一休みしません?」
「もうしてるんじゃないのか」内心で何度目だと呟く。無理をして倒れられても困るが。
自分の意向に反対はありえないと熟知している少女は、適当な岩に腰掛けて「水」と告げた。手を差し出そうともしない。この女はたった二日でルジェの扱いを召使い以下に決めたようだ。奴隷とか、きっとその辺りだ。
ルジェは不機嫌な顔で水筒を渡した。彼の手提げ鞄には、彼女の荷物が全て入っている。背負ったほうが両手が使えて楽だが、手提げ式だといざというとき即座に放り投げられる。魔物を前にしては一瞬の遅れが仇になるのだ。
「ところでこの服、変な臭いがしますの。気分が悪くなってきましたわ。荷物の中に替えの上着はありませんの? それを着て、代わりにこの内着を脱いだらいけないかしら」
「その防砂服には魔物が嫌う臭いをつけてある。脱げば効果も薄れるし、露出が増えて乾くぞ。標高が上がって涼しくなっても乾燥はしてるんだ。鼻血を出してぶっ倒れたくなかったら着ておくんだな」
「……貴方、よく『細やかさに欠ける』って言われません?」
「神経質だとは言われるが。まあ、今から厚着しておくのも悪くないだろう。荒野では日没後、一気に冷え込む。もう日も低い。今のうちに羽織っておけ」
汚染除けのことなどは人間に言っても通じないだろうと思いながら、ルジェは荷物を漁った。冬用の重い上着を差し出す。けれど少女はそっぽを向いた。
「フェルネは今、休憩してますの」
理不尽な仕打ちに閉口する。人間だから体力がないのは仕方ないとしても、機嫌を損ねる度に休憩されてはたまらない。今日中に次の補給小屋へ着かなければ困るのは彼女のほうだというのに、まるで彼を困らせて愉しんでいるかのようだ。
ルジェは小さく溜息をついた。「……わかった。なら、俺が運んでやる」
首根っこを引っつかんでやろうとしたとき、崖の縁からもう一つ別の手がフェルネットの足へ伸びているのに気づいた。真っ黒な鉤爪のついた真っ赤な手。筋組織と血管が絡み合った肌は、前線で見慣れたものだった。皮を剥いだ人のようなそれが、今まさに崖下から這い上がろうとしている。頭部がのぞき、魔物の真紅の瞳がこちらを捉えて鋭く光った。
「遭遇!!」
鉄鞄を魔物の顔面へ投げつける反対の手で、フェルネットの襟首へ指をかける。引き寄せるのと同時、彼女のいた場所を魔物の腕が薙いでいった。
少女を小脇に抱えて、崖から反対の急な斜面へと走りだす。擦れ違いに護衛たちが魔物へ斬り掛かっていった。即座に血の香りが広がるも、どちらのものかはわからない。振り返る余裕すらなく、ルジェは急な斜面を駆け上がった。一際大きな岩を飛び越えたとき。
「――ざけんなッ」
急停止する。鋭い舌打ちが響いた。
前方に三体。四つ這いで囲い込むようにこちらを伺っている
。
「上方にて会敵三! 至急応援を求める!」
振り向いた先で、五体の魔物を相手にしている護衛たちが目に入った。フェルネットを襲った一体に加え、四体の魔物が這い上がって来ている。
総数八。一分隊十名で五割の勝率が期待できる敵数が五体だ。予想以上の数だった。定期的に討伐隊が巡回してもなお、これだけの魔物が生息していたとは。
本来、魔物は群れない。縄張り意識が強く、二匹以上が顔を合わせれば即座に共食いが始まるからだ。にもかかわらず、現に連帯して襲って来ている。
ルジェはなぜ旧道が閉鎖されたのかを思い出す。極めて珍しいことに、魔物に共有の狩場と認識されたのだ。しかし旧道が閉ざされて一世紀。文字も言葉も持たない『理あらざる者』が、世代をまたいでまでかつての狩り場を覚えているはずがなかった。
……それでも、ありえなくはない。
前線ではしばしば別の固体から情報を得ていると思われる時があった。過去の戦況を反映しているとしか思えない動きをする時すらあった。科学者は否定するばかりだが、魔物には何らかの情報伝達能力があるのかもしれない。
ルジェは少女を抱え直し、剣を構えた。魔物の骨を特殊な製法で粉末にして塗布・研磨した剣は、歩官の主力武器だ。同族の力で扱えば銃器などよりもずっと殺傷力が上がる。
しかしどんな武器でも、魔物の骨を超える硬度としなやかさを持つ物質がない以上、無闇に切りつければ刃毀れするか、折れるだけだ。腕に覚えがあれば頸椎の隙間を狙うのが一番だが、ルジェでは肋骨の隙間から心臓を狙うのがせいぜいだった。ならば条件は同じなんだから銃を使わせろと思うが、銃器類は殺傷力が中途半端で魔物には通じない。そのくせ同族には効果が絶大なため、人間の手に渡るのを危惧して製造禁止になっている。
ルジェは剣が嫌いだった。武官の必携武器なので扱えはするのだが、肉を絶つ感触がどうにも合わないのだ。だからといって安易に魔法を使えば魔力不足で動けなくなる。嫌々剣の柄を握り締め、左腕で抱えた少女を傷つけないよう慎重に抜き払った。
三体の魔物はじりじりと四つ這いのまま詰め寄ってくる。隙を見せれば一瞬で餌食だ。フェルネットを守りながらどれだけ戦えるかわからないが、やるしかない。
「あのね、ルジェ――」腕の中の少女が、不意に声をあげた。
それが契機となって魔物が跳躍する。直線的に飛びかかってくる巨体を、身を翻して避けた。「ね、ちょっ……!」続けて右方から。突進する頭頂へ剣ごと右手をつき、ひらりと一転。「う、わっ」着地の勢いで最後の一体に背中から剣を突き刺す。熱い血飛沫が顔にかかった。心臓を貫かれ、ぎゃあと魔物が絶叫する。年寄りが赤ん坊の泣き真似をしたような声だ。剣を抜く暇もなく振り落とされかけて、ルジェは自ら飛び降りた。
「ルジェってば! 聞いてよ!」
「喋るな、舌を噛む」
「もう、かみっかみだってば!」
背後で咆哮が上がり、初めに避けた一体が襲い掛かってきた。横薙ぎに腕を払わたのを、即座に屈んで躱す。フェルネットの髪が薙ぎ払われてルジェにかかった。血で顔にべったりと張りつく。「フェルネの――」「うるさい」後ろ飛びに魔物と距離をとり、急勾配を駆け下りた。足元から赤い砂煙が立ち上がるので、嫌でも目立つ。
「血、を、のん、でっ……て! 言ってるの!」
揺れの合い間を縫って少女が叫んだ。だが彼には余裕がない。とっさに怒鳴り返す。
「バカを言え! 俺たちにも襲われたいのか!?」
「いいから吸ってよ!」
「断る!」考えるまでもなかった。そんなことをすれば生還先が監獄になる。
「っの、石頭!!」
少女の罵倒と急旋回は同時だった。遠心力で振り飛ばされそうなフェルネットを押さえたまま、片膝をついて右手を地に添え、ひゅるりと音のない呪文を放つ。
突風が巻き起こり、赤土が舞い上がった。分厚い煙幕が魔物の視界を奪う。
次の風が煙幕を流す前に、彼は大岩の隙間へ少女を投げ入れた。
「いったいなあ!」散々振り回された彼女は青い顔をしているが、元気だけはあった。
「何があろうと絶対に出るな。わかったな!」
言い置いて身を翻そうとした時、少女の小さな手がルジェの袖を掴んだ。
「吸血して」
「はぁ!?」とっさに振り返る。「まだ言ってるのか。ふざけるな、いいから黙って――」
背後で岩が転がる音がした。見つかった。そう思って振り向いたルジェは絶句する。
二体の魔物が彼を見ていた。彼を追いかけていたものとは別だ。その証拠に、牙の並ぶ口元は真っ赤に塗れ、筋組織が剥き出しになった腕や手には同族のものと思われる黒髪が絡みついていた。なにより奥の一体が咥えているのは、護衛の首だ。
全滅か。
呟いたはずの言葉は、音にならなかった。
魔物が長い舌で唇のない牙の羅列を舐めた。脈打つ血管と筋肉に覆われた顔の中央に、穴だけの鼻がある。それをわずかにひくつかせ、フェルネットの香りを辿っていく。一歩、また一歩と近づく度、瞼の代わりの瞬膜が真紅の瞳をぱしゃりと閉じた。
カラリと頭上から小石が落ちてきた。視界の端で見やれば、ルジェたちを追ってきた魔物が岩に座り込んでいる。もう一体の姿はないが、近くに足音があった。囲まれている。
にじり下がった彼の腕を、フェルネットがするりと絡めとった。
「ほら、早く噛んでよ。じゃないと君――死ぬよ?」
上目遣いで囁かれる。ぞっと鳥肌が立った。この女はこんな喋り方をしただろうか?
腕を引かれ、少女の顔が近づいた。甘い花のような香りがする。耐え難く蠱惑的な。
「……断る」
「強情なんだから。えい」
首の後ろに手が回った。逃げる暇もなく、飛びつく勢いで唇を押しつけられた。
口の中に一杯に、血の味が広がる。
「う、わ」
反射的に飲み込んでしまい、口を押さえてよろめく。
甘いはずだ。甘いはずだろう。そう感じるように出来ているのだから。
それがなんで、こんな。
「にがっ……! うえっ」
震えが走るほど不味い。自動的に胃が引っ繰り返りそうになり、必至で抑え込む。
体がこの液体を拒絶しているのがわかった。味以前の何かが、決定的に合わない。
「……ふふ、君がいけないんだよ? あんなに振り回したりするから」
少女がぺろりと舌を出した。舌先に赤い血が滲んでいる。
泰然とした笑みにまた悪寒が走った。間違いない。どこかでこの表情を見たことがある。
なんだこの女。本当に、なんなんだ?
ルジェは口元を抑えて傍らの大岩へ背中をつく。この隙を魔物は見逃さなかった。正面にいた一頭が素早い跳躍で襲い掛かってくる。
半ば反射で手を差し向けた時。
――唱えて。
頭の中で、澄んだ少女の声がした。
――わたしが、手伝います。
誰だ、と思う間もなく、空気がうねった。濃密な魔力で辺りが満たされ、蜃気楼のように視界が揺らめく。小さな光の粒が一面を満たし、透き通った影が幾つも宙を漂っていた。
引きずられるように魔法を放った。軽い衝撃派を生むだけの魔術構成が、圧倒的な魔力で強制的に姿を変えられる。広く、重く、強大に。
閃光が衝撃となって広がった。
大地を抉り、爆風が赤土をともなって舞う。
抉られた赤い円陣に骨だけを散らして、魔物の血肉が大地にこびりついていた。
◆
朦朧とした意識で護衛の亡骸から認識票を取り上げ、空に掲げた。
青い空に小さな金属板が煌めく。刺すような光に、知らぬ間に黒眼鏡をなくしたと知る。
……本部に連絡しなければ。
そう思ったのを最後に、ルジェはそのまま仰向けに倒れ、意識を失った。