不服な任務3
数年ぶりに入った総統執務室はルジェの胃を容赦なく痛めつけた。
まず部屋が暗い。北一面に窓をしつらえながら、朝日は完全に遮光されている。作りつけの間接照明も消されていて、同族の目でもぼんやりと輪郭がわかる程度だ。そして。
……また、増えている。
闇の中に無数の小さな目があった。床の上、本棚、飾り棚には溢れんばかり。客人用の長椅子や平机の上まで、びっしりと陶製の少女人形が腰かけている。
「遅かったね、ルジェ」
執務机の向こうから、甘い少年の声が届いた。
大きな革張りの肘掛け椅子に銀髪の美少年が納まっている。旧貴族を象徴する薄い緋色の瞳に妖艶な笑みを浮かべ、軽く首を傾げていた。透き通るような白い頬が胴着の襟に触れている。珍しく軍服の上着を脱いでいるせいか、まるで本物の子供のように見えた。
この男がルジェの養父にして吸血総統・ラトゥールだ。
彼の手は腕に抱いた人形の髪を優雅に梳き続けていた。その一見華奢そうな指が前総統をバラバラに引き裂いたのは、もう二十年も前になる。
「あー眠い。君がぐずぐずしてるから、夜が明けてしまったよ。――ねぇ、メアリー?」変声期前の良く通る声が、甘えたように語尾を上げた。
「……申し訳ありません、父上」
平淡に謝辞を述べて、ルジェは軍帽を外した。胸に添え、最敬礼の型をとる。二人きりならこんな油断しきった動作は絶対にしないが、今は面倒な客がいるのだ。
『新人君』の位置は見なくともわかった。背後の壁際から張り詰めた気配がする。
下手な真似をして目をつけられるのも面倒だと思い、ルジェは人前で使う顔を維持した。
「改めまして、お呼び出し有難う御座います。久方振りにご尊顔を拝し、不肖、恐悦至極に存じます」声にまったく心が篭っていないが、日頃からあまり心を込めて生きていないから、部外者には違いがわからないだろう。養父に嫌味が伝われば十分だ。
伏せた眼をちらりと上げると、養父は彼など忘れたように腕の中の人形と話していた。
「ローザ、お客さんにご挨拶は? ……もう、マルガリータったら、さっきは上手にできたのに。……ふふふ。そうだったね、キティは恥ずかしがり屋さんだもんねぇ」
夢見るように言葉を紡ぐ。一言ごとに腕の中の人形の名前が変わっていた。
その様子に壁際の気配が凍りついた。初対面なら妥当な反応だろう。
ルジェには養父が人形と話すのも、その人形の名前がころころと変わるのも、いつものことだった。相手がまともに話す気になるまで眼を伏せて待つことにする。最低限の礼は尽くした。これ以上付き合ってやる義理はない。
ラトゥールはルジェのことなど眼中にないような態度で、彼の意図に応えた。壁際の青年に満面の笑みを向け、呼びかける。
「えっと……そこの君、リダー君だっけ?」
「はっ、第七一憲官隊書記補佐見習い、ウィリアム・リダーです」少年らしさの残る声だ。
書記補佐の響きに目を向ければ、闇の中に文官特有の開襟制服が見て取れた。七一は慢性的な人手不足で、半分は文官登用だと聞いたことがあるが、本当だったらしい。
ラトゥールは優雅に微笑んで頷いた。しかし薄緋の瞳には悪意が煌めいている。
「この子たちがね、君が気に入らないって騒ぐんだ。ほら、さっきから泣き声が聞こえるだろう? 困ったものだよねぇ。僕としては仲良くして欲しいんだけど……女の子って群れると怖いじゃないか。――あはは、怒らないでよケリー。君の我侭のせいなんだから」
「し、しかし閣下。お言葉ですが、任務が……」
「僕は君のためを思って言ってるんだけどね。バーバラは怒らせると怖いよ? ……そういえば、前に君みたいに嫌われた部下が逆らって、一週間後に変死体で見つかったことがあったけ……。僕、その時の記憶のことはあんまり覚えてないんだけどね――」
「失礼します!」切羽詰まった声をあげて、新人は矢のような速さで退出した。
ルジェは不幸な新人へ黙祷する。初っ端からこんな化け物の相手をさせられるなんて、かわいそうに。後であの禄でもない教育担当にバカにされるだろう。『引っかかった』と。
新人への同情が終わらないうちに、養父が人形を放り投げた。ルジェの足下で高い音を立てて砕け散る。どうせまたバカみたいに高い物に違いないのに、この男は。
「帰っちゃったね、まったくもって可愛い子犬だ」
くすくすと笑う少年に先程までの夢見るような気配はない。あるのはただの老獪さだ。
人形に話しかけるのは、興味のない相手を追い出すときのラトゥールの常套手段だった。さも人形に意志があるようにして、うまく話題を誘導するのだ。今回も『邪魔だから出て行け』の一言を、よくもあそこまで引き伸ばせたものである。そうやって最初は誰もが騙され、己を恥じる。そうして思うのだ、我らが総統を疑うなど言語道断である、と。
だがルジェは知っている。この男の闇はもっと難解で、決して姿を見せない。
「ふふっ、あの仔犬、上になんて報告すると思う?」
「『総統閣下にはもう手の施しようがない』、だろ。あまり子供で遊ぶんじゃない。本目録入りしたらどうするんだ」
「僕があの目録に上らないのはね、あの子たちじゃ束になっても敵わないからだよ」
そりゃそうだろうさ、と答えかけて押し黙る。実力がそのまま階級を示す軍で、今の地位にありながら二十年も生き続けていること。この事実のほうが何倍も雄弁だ。
ラトゥールは総統でありながら、正式に七一の最高警戒目録に登録されている。
時として不都合を握りつぶしがちな軍の中で、七一が侮辱罪にも似た行為を許されているのは、彼らの判断基準が目に見える形で在るからだった。
その指標は実年齢と肉体年齢の差だ。成長の歪みを狂気の前兆と捉え、十歳差で要注意、二十を超えれば最高警戒としている。ルジェも今年から黄色い冊子の端に名前を連ねているはずだ。
同族の成長は成人後から緩やかになり、三十を超える頃から停滞し始める。六十を迎える頃に発狂する者が多いことからも、あながち間違った指標ではないのだろう。だが軍でその年まで生き残るには、運と実力の双方を兼ね備えている必要があった。武官なら四十を過ぎれば万々歳、そうでなくても約五十年の周期で魔物の大群が襲ってくるのだから。
ラトゥールは今年で五十五歳。その麗しい外見はどう見積もっても十代の初めだ。四十年以上もの間、彼は一切外見が変わっていないという。
ルジェは軍帽を被り直して、片手を腰へ当てた。相手を強く睨みつける。
「それで、用件はなんだ? 客を追い出すために呼びつけたわけじゃないだろう」
「相変わらず君は可愛くないね。もちろん、お願いがあるから呼んだのさ」
「お願い?」嫌な響きだ。
ラトゥールは肘掛に両肘をついたまま、しなやかに指先を絡めた。笑みが一つ深くなる。
「人間の女の子を一人、殺してきてよ」
ルジェはとっさに飲みかけた息を制した。「……殺すだと? 人間を?」
如何なる時も平静に――そう叩き込まれていても、声が掠れた。ルジェは職業軍人だが、魔物を屠ったことはあっても人間を殺したことはない。それどころか職務上、平時はそれなりに親しくしてすらいる。それを、理ある者を、殺せと。
養父が満足げに笑った。ルジェの内心を完全に見透かしている。
「正確にはテア国まで護送してもらうだけなんだけどね。対象はフェルネット・ブランカ。可愛い子だよ。僕が会ったときは眠ってたけど……。彼女を連れてテアへ押しかけて、押しつけて、ちょっとしたお土産を貰っておいで。終わったら特別に休暇をあげるよ」
「話が見えない。テアへ渡してしまったら、簡単には手を出せないだろう」
この場では『御意』以外必要ないとわかっていても、問わずにはいられなかった。相手が身内だからと甘えているわけではない。理屈が通らないと動きたくないのだ。
ルジェの態度に気を悪くした風でもなく、ラトゥールは答えた。
「暗殺するに決まってるじゃないか。テアのお城に忍び込んで、ね。……ああ、君が手を下す必要はないよ。その辺りはちゃんと手配しておいたから」薄い緋色の瞳が『そこまでは期待しないよ』と告げる。「ウチで始末しちゃうほうが簡単なんだけど、交換条件に肥沃地帯を出されちゃったからね。ほんの端っこだけど、応じない手はないでしょ?」
ラトゥールがにっこりと笑いかける。半分はルジェへ、半分はテアへ。だがその目はまったく笑っていない。
東に領土を得られれば、安定した食料供給が期待できる。たとえ少量でも、輸入に頼りきった現状よりは楽になるだろう。ヴァルツの主な収入源は人間への高利貸し業だが、不安定要素が大きく、危機管理のためにも一次産業は少しでも欲しい状況だ。
それになにより、いずれはその地がヴァルツ東進の足掛りになるはず。
「しかし、あの娘にそんな価値があるのか? 見たところは普通の子供だが……」
幼さの残る小さな顔が脳裏に浮かぶ。まだ十六歳だったか。年の割に可愛げがないものの、死ぬには早い。……所詮は人間と、割り切らねばならないのだろうが。
彼の思考を途絶えさせるように、椅子が軋む音が闇に響いた。ラトゥールが背凭れへ身を預け、思案げに柔らかな銀髪をもてあそぶ。
「やっぱり君には教えておくべきかな。あの子はね、魔術師を精導士にできるんだよ」
「なんだって?」思わず目を見開く。とっさに歩み寄ろうとして、足下に散らばる人形の破片に踏み留まった。「ばかな。新しい魔法薬でも開発したのか? あの子供が?」
「そんなところかな。詳しくは言えないけど」
「本当にそんなことができるとして、なぜ殺す必要がある。前線で魔法使いが使えないのは、大魔法の使い手が人間ばかりだからだ。同族が精導士になればっ」
「自分を基準に考えないでよね。『魔術師を精導士にする』っていうのは、受け手に魔法の素質が要るってことだよ? 僕らはほとんどが魔法を使えないでしょう。利幅が狭すぎるんだよ。だったら人間の手に渡る前に、いっそ殺してしまうほうが安全だ。――エン国の仕業に見せかけて、ね」にたりと、ラトゥールが笑みの種類を変えた。
「テアで殺すのに、わざわざエンに濡れ衣を被せるのか?」
「そう。最近あの国、鬱陶しいんだよね。どうもウチから技術を盗んでるみたいで、いきなり鉄道なんて引き始めるしさ。定期的に科学者を間引いてるから、突然あんな物が出てくるはずがないのに……。まぁ、内燃機関じゃなかっただけマシだけど」
東の事情に疎いルジェは、ラトゥールの話に目を瞬いた。フェルネットが言っていた『うるさくて長い乗り物』が列車のことだと、今更気づいたのだ。人間の文明は遅れていると高をくくっていたが、知らないうちにひどく距離を縮められていたらしい。
「この辺りで一度、叩いておこうと思ってね。元々彼女を攫ったのはエンだ。あの国はあの子を使ってテアに侵攻しようと企んでる。テアの豊かさはエンにも魅力的だからね。もちろん、エンの敵意にはテアも気づいてる。分厚い面の皮の下は猜疑心で一杯だよ」
とん、と少年の指が机を叩いた。
「そこへ一滴の油を落とす。それが君の任務だ」