▼標的3・英雄6
月光が青白く輝く氷の上で、ラトゥールはそれと向き合っていた。
「もう気は済んだかい? ラトゥール」
「なんのことかな」
そらとぼけるラトゥールへ、老いた魔物の姿をした男が穏やかに諌める。
「わかってるんでしょう。復讐なんてなんの意味もないって――私が消えるッ――」
男の声に雑音のような叫びが混ざった。
それを何事もなかったように無視して、ラトゥールは薄く笑った。
「そうだね、別に何になるわけでもないしね。でも、僕は完璧主義だからさ」
「君は昔から――やめろ!――変わらないね」
「昔のことはいいでしょう。まったく、模倣物らしくさっさと上書きされればいいのに」
「彼を残したのは君だよ」男は剥き出た頬の筋肉を少しだけ動かした。「もう混ざっちゃって――塗りつぶされるっ――何がなんだかわからないけどね」
「最初はランスなんだっけ」
「そう、その次が彼。最後が君だ――私が消え――」
「嫌な組み合わせだなぁ」銀髪の生え際を掻きながら、ラトゥールが溜息を吐いた。薄緋の瞳が上目遣いに相手を見る。「……また僕に君を殺させるのかい?」
男は目元の瞬膜をゆっくりと閉じ、首を振った。
「いいや。それだと君の復讐が終わってしまう――私が――悪いけど、君を満足はさせられないんだ。最初の計画通り、あの子にしてもらうよ。君はあの子だけは殺せないからね」
「それは僕の体で、でしょう」
「今はもう君でもあるんだ。君を喰らってあの子に殺されたなら……もっときれいな復讐劇になったんだろうけど。でも模倣物はあくまで模倣物で、本当の彼ではないんだよ。むしろ彼を殺した直接の原因なんだ」筋組織の巻いた赤い指で、男は自らを示した。「ねえラトゥール、君の分は『おれ』が背負うよ。だからもう、諦めるんだ」
「相変わらずお人好しだね。鬱陶しいったらないや」ラトゥールは皮肉げに、だが悲しげに笑った。「ほんと、ひどい男だ」
魔物の赤い眼が淡々と歩み寄るルジェを捉えた。
「ルイ」頬の筋肉がゆっくりと動く。「君といられて嬉しかっ――」
その瞬間、赤い眼に激しい意志が戻った。魔物の男は叫ぶ。
「――やめろ、まだ私にはやるべきことがある!!」
ルジェは腕の中の少女を力が入りすぎないように抱きしめながら、すっと男を見た。
「ランスヴァルド」
名を呼ばれ、魔物の男が一歩こちらへ踏み出した。だが次の一歩が出ない。見えない力に抗うように、全身が激しく震えていた。
ルジェはラトゥールへ一瞬目配せし、彼が頷き返したのを見て言葉を続けた。
「あんたはあまりに多くを踏みにじった。未来の全てを守ろうとして、今の全部を潰そうとしたんだ。それが英雄の器だというのなら、その通りなんだろう。……俺は全ては救えないけれど……踏みにじられる者の一人として、あんたに抗う」
「やめろ」見開かれた瞼のない眼が、恐怖に瞳孔を細くする。
「俺はあんたが間違っているとは思わない。でも、あんたが潰そうとしたのは俺たち全員の可能性だ。今から続く本当の未来だ」
「私は世界を」喘ぐような声だった。「救いたいのだッ」
「俺が言うべきじゃないのかもしれないが」ルジェはそっと少女の首へ唇を寄せた。「自分なりに世界を救おうとしたあんたの志は……その妄執も含めて、確かに英雄だった」
白い喉へ控えめな牙が触れ、ぷつりと赤い血が零れた。
「やめろッ!!」ランスヴァルドが駆け寄る。手を伸ばし――
それが届くより早く、ルジェの前に大きな魔法図式が展開した。
簡潔な記述式に漲る魔力が輝きを増し、ランスヴァルドの眼を灼く。
光が一点へ収縮し、爆発的に流れだした。
光の奔流にランスヴァルドが飲み込まれる。
衝撃波の生み出す爆音の中、ひどく優しい声が届いた。
「――ありがとう、ルイ・ルジェ‐ラトゥール」
光が消え去った後には、深くえぐれた氷の中に、少しだけ黄ばんだ骨が散乱していた。
ルジェはその、人と同じ形をした頭蓋骨に触れて目を伏せる。
「……長らくのお勤め、お疲れ様でありました」
そして傷だらけのラトゥールを振り返った。
「ラトゥール」自然と笑みがこぼれる。「お前が無事で――良かった」
そうして、人間たちの戦争は火花のように終結した。




