▼標的3・英雄5
無数の足音は着実に近づいていた。川原の石を踏む硬い音から、草木を掻き分け、踏みしめる音へと変わっている。機械的に繰り返される集合音には一切の乱れがなかった。
騒音を引き裂くようにフェルネットの高い声が響き渡った。
「どうしてなの、コハク!」
ルジェが声へ振り返れば、小高い木の下でフェルネットが王太子へ詰め寄っていた。
「何で帰れないの? わたし、森に帰ればいいんでしょう? もう森から出ない、絶対に出ないから! ――ねえお願い、わたし、死にたくない! 死にたくないよ!!」
彼女はぼろぼろと泣き続けたまま、太子の胸を叩いた。
興奮する彼女を抱き寄せて、太子は感情を抑えた声で囁いた。
「フェルネ……。大森林は心を映す鏡です。心に影を抱えた者に、森は容赦なく牙を剥く。貴女は変わってしまった……我々と同様に……穢れてしまったのです」
冷たい言葉はどこまでも優しく語られた。
フェルネットは眼を見開いたまま、息すら忘れたかのように太子を見上げていた。その新緑の瞳からゆっくりと一筋の涙が零れ落ちた。月光に輝きながらぽたりと落ちる。
彼女はこれから吸血鬼や魔術師、エンやこの世の全てを恨まずにはいられないだろう。そんな心で森へ帰れば、負の感情が反射し、幻覚や幻聴となって彼女自身を蝕んでしまう。
彼女はもう普通の人間だ。そして普通の人間は、大森林で生きていくことなどできない。
ルジェは今なお殺戮を続けるロイを振り返った。心の底から楽しげに剣を振るう赤毛の男は、エンの軍団にも迷わず突進していくだろう。そして果てるまで殺しつくすのだ。
規律正しい足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
ルジェは軍帽を目深に引き下げて口元を引き結んだ。
「ならば太子。先の約束は『不可』ということでよろしいですね? 当方も彼女の用は済みましたので」フェルネットを見ないようにして、二人へ歩み寄る。
太子は痛切に少女を見下ろしてから、目を閉じた。「……はい。お願いします」
フェルネットは涙で濡れほてった瞳で、ほうけたようにルジェを見た。
「ルジェも……わたしを殺す気なの?」
「言っただろう、俺は軍人だ。命令には従わなければならない」
事務的に言い切ったとき、強い風が巻き起こって彼の軍帽を飛ばした。
どこかから寄せ集まった水が空中に浮かび、渦を巻いて少女をとりまき始める。
「命令なんか関係ない。わたしはあなたの気持ちを聞いてるの!」
澄んだ声が鋭い力を持った。
風とも言えぬ圧力に抗いながら、ルジェは冷淡に答える。
「ならこう言えばいいのか? 小娘の生死に興味はない、と」
フェルネットの小さな顔が歪んだ。瞳にじわりと涙がにじむ。
「……わたし、勘違いしてました。ルジェは本当は優しい人なんじゃないかっ……て」
「期待に添えなくて残念だ」
「――思ってもないこと、言わないで!」
重い風が体当たりするように吹きつけて、ルジェは足へ力をこめた。辺りは吹き荒れる風と水滴で嵐のようになっている。雨雲もないのに紫電が宙を走り、地鳴りが響く。木々は反り返って軋みを上げ、草は千切れて撒き荒れていた。
「では、言わせてもらうが」叩きつけるような水滴に抗いながら、ルジェは無表情を守った。「客観的に見て、お前は死ぬしかない。今回の件でお前の力は人間たちに知れ渡った。たとえこのままテアに保護されようとも、お前を巡って幾度も争いが起こるだろう。そんな現状を理解しようともせず、まだ誰か善良なバカが助けにてくれると思っているのなら……」すっと息を吸う。「それは、甘え以外の何物でもない」
フェルネットは俯いたまま、涙を堪えて立ち尽くしていた。
一見無防備にも見える彼女へ、ルジェはせせら笑うように告げた。
「自分に非がないなんて言うなよ、フェルネット。お前は何をした? 何も考えずにのこのことついて来ただけだろう。無為は無実の証にはならない。怠慢だ」
彼女の目元から零れかけた涙を、小さな手が拭いとった。
「……なんで涙が止まらないのかわかりました。わたし、わたし、ルジェがお城で血を吸おうとしたときから、ううん、その前からずっと――ずっと、怒ってたんだ!」
新緑の瞳がルジェを射抜く。
「あの時まで悪い人と良い人って違うんだと思ってた。ルジェもコハクも良い人だって思ってた! ……でも、違うんだ。本当はそんなんじゃないんだ……」
震える息を吸い、少女は目を閉じた。もう涙は零れなかった。
彼女が眼を開けたとき、そこにかつての無防備な瞳はなかった。強かな意思が春に芽吹く若葉のようにきらめいている。噛み締めるように閉じられた口元が王太子と似ていた。
「わたし、間違ってました。わたしが生き残るには、もう……もう、戦うしかないんだ!」
彼女が叫んだ瞬間、空気に軽い衝撃波が走り、ルジェの頬が痺れた。頬を手の甲でなでつけ、会心の笑みを浮かべそうになるのをこらえる。
そうだ、それでいい。この娘はいつも正しい選択をする。
「もう優しい言葉なんか信じない。誰かに利用されるのも、誰かのために殺されるのも、絶対に嫌! わたしは、わたしを守る!!」
彼女が叫ぶにつれて空気が冷えていき、頬にあたる水滴に氷が混ざり始めた。足元の草に霜が降り、凍って砕け始める。吹きつける風はなおも鋭く冷たくなり、耳元で轟音を上げていた。濡れた髪が風に攫われたまま、徐々に凍っていく。雷撃が走るたびに何度も視界が白く染まった。
精霊の本質は水だ。それはこの世界のほとんど万物に含まれる。だからフェルネットを敵に回すことは、世界そのものを敵にするのも同じだった。
彼女の周りを白い光が飛び交い始めた。圧縮された水蒸気が電離し、凄まじい熱を帯びているのがわかる。それはとても単純で、原始的な大魔法だった。
光がルジェへ向かって放たれた。光の尾を引くそれが当れば、一瞬で焼け焦げるだろう。
だが彼は避けなかった。予想通り光は寸前で曲がり、頬をかすって地に落ちる。痺れるような衝撃が走るも、威力は単純な破壊力にのみ置き換えられて、辺りへ雷撃が走ることはなかった。ただ地面に大穴が開いただけだ。
「どうして避けないの?」フェルネットは動揺を隠さなかった。
ルジェは頬の血を拭い、舌先でぺろりと舐めた。
「フェルネット・ブランカの敵対意志および敵対行動を確認。速やかに対象の被保護権を剥奪し、防衛措置を行う」
本当は、ルジェは殺害命令など受けていなかった。指令を受けたのはロイ他三十名の戦闘員のみだ。同盟の調印が成されなかった今、彼に彼女を殺すことはできないはずだった。
しかし、正当防衛とみなされれば別だ。
だからわざと彼女を激昂させ、自分から攻撃をさせるように仕向けた。
フェルネット・ブランカが死ねば、全ては終わるのだから。
少女が次の大魔法を放つより早く、ルジェは彼女の懐に飛び込んだ。
「ル――」
「悪いな、フェルネ」重い音がして、彼の手が彼女の腹に埋まる。
くず折れる彼女をそっと抱え上げ、その髪を撫でた。「……いい子だ」癖のある柔らかな金髪が、血に濡れた彼の手に絡んだ。彼女の腹部にはじわじわと赤い染みが広がっていく。甘い血の香りがゆったりと立ち上り、辺りへ拡散していった。「ごめんな」
白い額へ口付けしたとき、フェルネットの小さな心音が止まった。
「――二〇三四、対象の死亡を確認」
低く呟き、ルジェは少女を抱いて少し離れた氷上にいるラトゥールの元へ向かった。




