▼標的3・英雄4
「どうしましょうね、中尉。完全に閉じ込められてますけど」
腰まで水に浸かりつつ、ジャック・ユニ少尉が人間の兵士を斬り付けて問いかけた。
「お前の上司がやったも同じなんだろ、何か手は打ってないのか?」
同じくルジェも寄ってきた人間を一刀する。どの兵士も顔色一つ変えずに死んでいった。内心気味が悪い。泣き叫べとは思わないが、まるで人形を壊すような手応えなのだ。
「残念ながら、僕たち地方在住官は泳ぎの訓練を受けてるんですよね」銃弾を避けて少尉が笑う。あまりの余裕に絶句するルジェへ、彼は同情的な目を向けた。「中尉は有望株だから是非とも助けたいんですけど……溺れる同族を助けるのって、危なくって」
ルジェは早い剣捌きで銃弾の弾道を逸らしつつ、背後ので壁に向かっている王太子を振り返った。弾かれた銃弾が王子の頭上の壁へ突き刺さる。それも気にせず、太子は地下施設全体を覆う結界を破ろうと必死で何事かを呟き続けていた。
「あとどれぐらいかかりますか、王太子!」
「それが、突然精霊がいなくなってしまって」困り顔で振り向いた太子の顔の横を銃弾かすめた。「な、なにか、巨大な力が付近の精霊を集めてしまっているのではないかと……」
彼が言ったのと同時、怒濤のごとく押し寄せていた水と銃声が止んだ。腰まで溜まった水がひいていく。だがすぐに違うと気づいた。足下の水が体を押し上げ、水面に人々を立たせているのだ。「!?」「なんだっ」「うわっ」そのまま水面はビシリと凍り付き、下から徐々にせり上がっていく。「これは……魔法?」「いえ、違うようです」氷の板は天蓋の穴から地上を目指し、地面と同じ高さまでくると止まった。
地上には、草に埋もれるようにして地面にへたり込んでいるフェルネットがいた。彼女は呆然と彼らを見上げている。小さな顔はすっかり泣きはらして赤かった。
「ルジェ、コハクも!」彼女の声は喜んでいる。だが目元からは、ぽろりと涙が零れ落ちた。嬉し泣きとは様子の違う、無意識的な涙だった。「良かった……っ」
その涙にルジェは胸を、いや胃そのものを槍で突かれたような気分になった。
「フェルネ……」太子もまた彼女を見てごくりと喉を鳴らした。
「? どうしたの、コハク?」
「いえ……貴女の顔を見たら、安心してしまって」とっさに取り繕う太子。しかしその顔は沈痛そのものだった。彼はフェルネットの傍らにしゃがみ込む。「貴女の泣き顔なんて初めて見ました。……そうですよね、貴女だって人間なのですから、涙くらい流しますよね。私は愚かでした。……笑顔の貴女しか知らなかった」白い頬へそっと触れ、涙を拭う。
フェルネットは一瞬怯えるように身をすくめ、恐る恐る太子を見上げる。新緑の瞳は涙に濡れて揺らいでいた。その奥にはかすかな警戒心がちらついている。「……コハク?」
そんな彼女を切なげに眺め、太子は微笑みにじわりと悲しみを滲ませた。
「貴女はもう、昔とは違うのですね……」
「何が違うの? コハ――」
「フェルネット」ルジェの低い声が二人を遮った。緑の視線を絡め取って引き寄せる。「丁度いいところへ来てくれた」薄笑いを浮かべ、手を差し出す。「こっちへ来い」
フェルネットが彼の様子を窺った、その一瞬に、鋭い銃声が響いた。
「その人から離れてください、フェルネットさん!」
ずぶ濡れになったリダーが人間たちを引き連れていた。エンの兵士は皆手に手に軽機関銃を構え、隊列を組んで彼らを取り囲んでいる。訓練の行き届いた動きだった。
リダーは黒髪からぽたぽたと水滴を垂らしながら肩で息をしていた。
「わがままはそのぐらいにしてください。何度も言いますが、貴方は命を狙われているんです。今度こそおとなしく確保されてもらいますよ!」
「だ、だってほっといたら皆――」
「貴女はこの武器が何かご存じないんでしょうが」リダーは威嚇するように声を抑えた。「吸血鬼でもこれで撃たれれば命はありません。どのみち彼らは全員死ぬんです、無駄な抵抗はやめて戻ってきてください」
おろおろとルジェとリダーを見比べるフェルネットを、王太子が抱き寄せた。
ルジェは無表情に彼女へ手を差し出したまま、隣で一足早く両手を挙げている少尉へ小声で話しかけた。「……お前らとアレはグルじゃないのか?」
「管轄が違うんですよ。僕はあくまで支部総司令の配下ですから」
「参ったな。ロイの話じゃ、虫も殺せないようなガキのはずだが……」
口を動かさない話し方にもかかわらず、リダーは耳敏くそれを聞きつけた。
「僕が怖じ気づこうと関係ありませんよ、もう命令してしまいましたからね。この兵士たちは黒精霊の欠片を植え付けられています。吸血鬼も怖くないし、死すら厭いません」
ルジェと少尉がそろって眉をひそめた。エン軍の規律のとれた指揮が兵士一人一人に植え付けられた黒精霊のせいならば、確かに納得がいく。自我のない兵士を操り人形のように扱う術があるのだろう。一人の意志で軍全体を手足のように動かせれば、確かに強い。そしてそれはもはや軍隊ではなく、一つの有機結束物だ。
「……この分だと、エンの上層部が軒並み乗っ取られているという噂も本当みたいですね」
初めて余裕を失って、少尉が苦々しく呟いた。
「仕方ない」ぼそりと吐き捨て、ルジェは一瞬でフェルネットの元へ寄った。太子から彼女を奪い取り、悲鳴を上げる細い喉を掴む。「攻撃すれば娘を殺す」
「くるし……っ……るじぇ」ぽたりと熱い涙が手に落ちた。
「彼女を放してください」人質を取られてもリダーは取り乱さなかった。ただ青い眼できつく彼を睨む。「殺す気じゃないのは伺っていますよ、ルジェ‐ラトゥール中尉」
「それはどうだろうな。もう用済みかもしれない」
平然と答えてみせると、腕の中でフェルネットが震えた。彼女は何かを言おうとしたが、喉が掠れて音が出なかった。ただぽとぽとと涙が零れていく。
リダーは仇敵でも見るような目つきでルジェを見て、震える吐息をはいた。
「……撃ち方用意」
青かったリダーの片目が赤く光った。
号令に応じて即座に兵士の隊列が組み変わり、包囲を狭めた。上中下と三段構えで軽機関銃を構えている。同族の跳躍力で飛び退いてもどれかには当たる計算だ。
「危害を加えれば一斉射撃です。噛みつくのもダメですよ、貴方は魔法使いですからね」
言われずとも人前で噛みつくような真似はしない。殺害命令が出ているとはいえ、直接摂取は完璧に違法だ。人前で法を犯して窮地を脱しても意味がない。
ルジェはフェルネットを押さえたまま、辺りへ視線を走らせる。同族はもう残っていない。このまま彼女を確保していても、一人ずつ吊し上げられて射殺されるだけだ。
打開せねば。だが魔法は術式を組む間に撃たれるだろう。フェルネットや太子が精霊に命じるのも無理だ。二人の動きは遅すぎる。何か。何か敵の気を逸らすものはないか。
ルジェは懐の玉に気づいた。ほとんど音にならない声で腕の中の少女へ囁く。
「フェルネット、ラトゥ……黒精霊を解放しろ」
濡れた新緑の瞳が見上げた。「黒ちゃ、を?」
頷いて懐の玉を取り出し、投げつけようとした瞬間、兵士がそれを撃ち落とした。
「っ!」
玉は地面から氷の上へと転がっていった。追うこともできず、ルジェは舌を打つ。
「抵抗は無駄ですよ。彼らは僕と感覚を共有しています。反射神経も同程度まで上がっている。……あまり長くはもちません。暴走する前に、早く彼女を解放してください!」
リダーの声は震えていた。術そのものが猛毒でもあるように、ガタガタと歯を鳴らしている。赤い目に浮かぶのは純然たる恐怖だった。まるで何か巨大な力に圧殺されるような。
無表情で取り囲む兵士のうち、何人かの表情が引き攣り始めた。握把を握り直す者が現れ、引き金に構えた指が震え始める者もいる。瞬きをしない眼が乾ききっていた。
「早く!」リダーが赤い片目を押さえた。「もう僕にも命令を取り消せないんですよ!」
引き金に力が込められようとしたとき、一迅の夜風が遠く甲高い声を運んだ。
……はははは……はは…………ひゃははははははは――!!
狂った鳥ような笑い声だ。同時に銃声が連発し、取り囲む兵士の眉間を正確に狙撃した。風を巻き起こして駆けてきた黒服の一団が兵士たちの間をすり抜け、血飛沫を上げた。
「ひゃははははは、はは、ハハハハハハハ!!」
特別けたたましい笑い声と銃声が夜闇に赤い影を引く。それは剣で兵士を次々と分断しては、片手で盛大に銃弾を乱射した。「ヒャーハハハハハハ!!」
「このバカ笑いは……」ルジェはフェルネットの眼を覆いつつ、嫌な予感に顔を顰めた。
リダーが血相を変えて叫ぶ。「ロイ先輩――!?」
同族数名を引き連れたロイが、敵から奪ったと思われる機関銃で人間を虐殺していた。右へ左へ弾を打ち込みながら剣を振るう。奴が盛大な笑い声をあげると、応じるように周りの同族も悦楽的に殺しを加速した。統率もクソもない、圧倒的な残虐さだった。
「誰だ、あのバカに飛び道具を渡したのは」自分が出撃させたのも忘れ、ルジェは呻いた。
「あれは一体……? なんだろ、すごく楽しそうで……」少尉は眼を泳がせて後ろへ下がった。自身を強く抱きすくめる。「――背中がゾクゾクする」
「引きずられるなよ、面倒だ」ルジェはあえて冷静な声をかけ、少尉を制した。「あいつは腹の底から戦闘を楽しむからな、つられるバカを量産しやすい」
ロイとその周りで殺戮を続ける同族は、ただひたすらに死と破壊を求めていた。ロイの笑い声と興奮が、同族の根源的な殺戮欲求の制限を外すのだ。奴が参加した戦場は必ず狂戦士化した同族が暴走して、指揮系統をめちゃくちゃにする。西の前線では魔物を深追いして全滅する奴らが多発し、『死神』だと呼ばれていた。抑制させるはずの上官すら狂乱させてしまうため、やむなく前線を追い出されたのだとか。
だが上手く使えば、ロイは同族全体の攻撃力を何倍にも底上げする。……上手く使えば。
兵士の輪をぞくぞくと切り崩していくロイを、リダーは呆然と見ていた。
「そんな、先輩が……」その瞳は両目とも青い。
ばたばたと人間たちが倒れていく。その血に混じって黒い何かが流れ出ていった。辺りに濃厚な血の臭いが立ち上り始める。
「ダメだ、手が震えるっ!」ジャック・ユニ少尉が苛々と巻き毛をかきむしった。「どうすればいいんでしょう、中尉!」
「知らん」ルジェは冷たく言い切る。「あいにく俺は一度もつられたことがない。今のうちに――」逃げるぞと辺りを見回したとき、少し離れた場所から氷の割れる音が響いた。
見れば、ラトゥールの銀髪が氷にめり込んでいた。その頭を叩き付けた魔物の姿をした男の顔がこちらを向き、赤い眼がルジェを、その腕の中のフェルネットを見据えた。
まずいと思う間もなく、ランスヴァルドが目前に迫っていた。とっさにフェルネットを放り投げ、足が届く範囲にいた太子を少尉へ蹴り飛ばす。
敵の小刀が月の光に煌めいて弧を描いた。それを寸前で放った魔法の電撃が走り、ジュッと掌を灼く。嫌な匂いが漂った。投げ捨てられた小刀が地に突き刺さる。
焼けただれた掌が顔を正面から狙った。避けられない――
ルジェがのぞけった、そのわずかな隙間をほんの数滴の水が飛び込み、ランスヴァルドの瞼のない眼球の上ではじけた。
「ッ――!」
敵がひるんだ瞬間、駆けきたラトゥールがその背へ鋭い突きを繰り出した。「終わりだよ」ルジェごと貫くかと思うような一撃は、ランスヴァルドに届かなかった。
「ランスヴァルド様……」
血を吐く音がして、小柄な青年がランスヴァルドの背後で膝を折った。
左胸を貫かれたリダーが剣と一緒に倒れる。
「ウィルッ!」ランスヴァルドが振り返り、リダーを抱えてラトゥールから飛び退いた。「だからお前は関わるなと、あれほど!」
返事はなかった。
「……なぜもう少し待てなかった」彼は静かにリダーを氷の上へ横たえる。「すべての規律が壊されれば、お前が居場所に苦しむこともなくなったというのに」
「そんな世界が本当にありえると? 人の区別が複雑になって、差別が激化するだけだってわからないのかな」傷だらけのラトゥールがルジェから剣を取り上げた。一刀素振りし、感覚を確かめる。彼の額は血が滴り、左目を赤く染めていた。白い軍服もあちこちがすり切れ、泥と血で汚れている。不自然にえぐれた脇腹には赤い染みがあった。「僕らは擬態して生きていくしかないのさ。それができない君みたいなモノは、淘汰される」
「それは現状に支配された思考だ」ランスヴァルドは真剣に告げた。「我らは隣人を愛し、受け入れることができる。世界が変われば、魔物すら。我が母のように」
「君の母御は寛大なお方だったようだね」皮肉には抑揚がなかった。「普通は違うよ。魔物と交わるなんて普通の神経じゃ堪えられない。普通はさっさと狂ってしまうし、その行為で生まれたものを我が子だなんて認識できないんだ。狂乱したあげく自らの仔を手にかけようとして、返り討ちに遭うのがオチなんだよ。『普通』は、ね」
ラトゥールは自虐的に笑い、薄緋の眼をぎらつかせる。
「君は狂気を信頼しすぎなんだよ。とっくに自分が狂ってることにも気づかないで」
「私は狂気に耐性がある」低く押し殺した声だった。
「いいや、あるのは親和性だ」僕もそうだからねと言って、ラトゥールは高らかに笑った。「区別がつかないんだよ。何が正しくて何がおかしいのか、何が許されて何が罰されるのか、何が賞賛され何が唾棄されるのか、自分じゃ判断できないんだ。元から理性なんてものはないのかもしれない。それでも誰かに合わせて生きて行かなきゃならなかったから、僕はヒトの形を保っていられたんだ。間近で僕を非難する眼が、僕を形作っている」
彼は目の端でルジェを振り返り、一瞬、深く笑んだ。
「『理ある者』になれないからってその理まで壊してしまったら、僕らは何になるんだろうね。君は世界を救うって言うけれど……」くっと、笑みが粘ついた悪意を持つ。「本当は、ただ破壊したいだけなんじゃないの? 魔物としての、本能の限りに」
「否!」
ランスヴァルドが吼え、氷を蹴った。
ラトゥールもそれに応え、氷塊を飛ばして駆けていく。
鋭い剣戟が走るも、ランスヴァルドは自身の剥き出しになった骨でそれを受け、撥ね返した。魔物の骨は剣より硬い。骨を避け、内臓や眼窩を狙うしかなかった。金属がぶつかるような音が繰り返され、血飛沫が飛び交う。ラトゥールの剣は確実に敵の筋肉や血管を削いだが、致命傷には至っていない。その証拠にランスヴァルドの体力には衰えが見られなかった。一方のラトゥールは明らかに息をあげ、徐々に動きが鈍っていく。
目の前で繰り広げられる戦闘に、ルジェは手を出すこともできず歯を噛みしめた。二人の動きが速すぎて、魔法の援護ですらラトゥールの足手まといになるのがわかったからだ。せめて王太子とフェルネットを回収しようとしたとき、ルジェは多数の物音に気づいた。大河を越え、こちらへ向かってくる人間の足音。
エンの全軍が侵攻を再開していた。
ラトゥールもその音に気づいたのだろう。一瞬の隙が生まれる。
その腕を筋組織と血管が絡んだ手が掴んだ。骨が折れ潰される音が響く。
「くっ――!」
もがくラトゥールを引き寄せ、ランスヴァルドのもう一方の手が整った顔へと伸びる。
「貴様には総統として、もう少し働いてもらわねばならぬ」指先からどろりと黒い液体が滴ろうとした。「さすがのラトゥールとて、二匹は喰らえまい」
「……悪いけどッ」ラトゥールが必死に仰け反ろうとする。「それはこっちの台詞だ!!」
ラトゥールのつま先が氷に落ちていた何かを蹴り上げた。
黒い粘着物がランスヴァルドの顔に張り付く。
「お前はっ!」ラトゥールを手放し、ランスヴァルドがそれを引きはがそうとした。
「ははっ、さすがの君でも二人は胃もたれしちゃうかな?」
「待てッ」粘着物は彼の筋組織と血管の間をするすると入り込んでいく。「やめろ!」
同時に変化が起こった。ランスヴァルドの背骨が歪に曲がり始め、筋肉が休息に衰えていく。骨格が痩せ、剥き出しの牙が黄ばんでいった。
「やめろ、やめろ、お前は――やっと君に還れたね、ランスヴァルド」
魔物そのものの口から、ひどく柔和な声が零れた。




