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▼標的3・英雄3

 止めどなく流れ込む水は広い穀倉の床の上を広がり、徐々に水位を増し始めていた。


 ルジェは床に腰を付けたまま呆然と彼らを見上げていた。

 水面には死体の血飛沫が注がれ、すぐに飲み込まれて薄まっていく。そこへさらに豪雨のような銃弾が注がれて、飛沫が撥ね飛び、辺りはかすかに霞んでいた。


 水への恐怖で錯乱した同族が昇降機に集う。開いた扉に飛び込もうとした瞬間、内側から放たれた何十発もの銃弾に穴だらけにされた。昇降機には三台の重機関銃と、大経口の軽機関銃を構えた人間たちが乗っていたのだ。ヴァルツの開発機関から技術を盗んだと思われる機関銃は、非力な人間へ同族以上の殺傷力を与えた。連撃する銃声と悲鳴が反響し、円蓋の中は混迷を極めていく。


 そんな喧噪を忘れたかのように、末席に座っていた銀髪の美男――吸血総統ルイ・ラトゥールは悠然と微笑んで、自分の胸元へ優雅に手を添えた。


「まずは素敵な『贈り物』をありがとう。君のおかげでこんなに大きくなれたよ」口調はかつてと変わらない。だがその声音は低く変化していた。「まさか人間を容れ物に使うとはね……僕か側近が近づいたら発動するよう、しかけていたね?」


 上目遣いで見上げる薄緋の瞳が鋭く光った。

 向き合う血塗れの長外套から、戸惑いを含んだくぐもった声が漏れ出る。


「なぜ、喰われぬ」

「不思議なことを言うね。君は黒精霊が何か知っていて使っているんでしょう?」


 皮肉げな微笑みに、長外套は低い声で即答した。


「『記憶』。あれは本来魔物に宿り、その死後に他の個体へ情報を移行させるもの。『理ある者』はその情報量に耐えられぬはずだ」

「そう。だから取り憑かれる前に、子飼いの黒精霊に自分の情報を移して放り出したのさ。君の子はおいしくいただいたよ。おかげで大分肉体が成長してしまったけれどね」

「解せぬ。なぜ貴様に黒精霊が扱える? 甲種といえど、あれは――」

「おや、知らなかったのかい?」ふふっと、ラトゥールが得意の小馬鹿にした笑い方をした。「僕はラトゥール。旧大公家の末裔だ。だからね……」


 瞬時にラトゥールが長外套との距離を詰める。薄闇の中を白く指の長い手が翻った。相手の外套を奪い取り、その覆面と幾重にも巻かれた包帯を引き千切る。


君と同じ(・・・・)なんだよ、ランスヴァルド・ルモルトン公!」


 強烈な蹴りが最後に入った。

 膝の高さまで溜まった水へそれ(・・)が倒れ込み、派手に飛沫が上がった。引き裂かれた包帯がひらひらと落ちる。


 破れた円蓋から月光が注いで水面に乱反射している。上下の光から照らし出されながら、のそりと起き上がったその姿に、ルジェは自身の眼を疑った。


 血管と筋組織の絡み合った肌、目蓋のない目、穴だけの鼻。頭髪はおろか睫毛すらない。人から肌を剥き取ったかのようなその姿は、どう見ても。


「魔物……!」


 まばたきも忘れて叫ぶルジェへ、ラトゥールが応えた。


「醜いよね。大公家だけに伝わる秘法の産物だよ。革命の機運を察知した彼らは、弱体化した一族の血を蘇らせるために魔物と交わったのさ」ラトゥールの声は侮蔑に満ちていた。「大公家では昔から繰り返されてきたことだよ。こうして生まれた第一世代だけが、黒精霊をその身に宿しても狂わず、飼い慣らすことができる」


 生憎、革命には間に合わなかったみたいだけど。とラトゥールは鼻で嗤った。

 ルジェは彼の美しい横顔を凝視する。今この男はなんと言った? 黒精霊を扱えるのは魔物との混血児だけだと。この化け物のような男と彼が同じ存在だと、そう言ったのか?

 ラトゥールは泰然とした笑みを浮かべたまま、円卓をぐるりと見渡した。そこにいた者の八割が死んでいるが、所々に無傷の者もいた。


「なるほど、今生きてるのが裏切り者ってわけだ」


 ひっと喉を詰まらせ、数名の甲種が逃げだした。穴だらけになった円卓に残ったのは死体と、平然と足を組んで座っているパルフェ・タムールだけだった。


 美女は頬杖をついて、にたりと嗤う。「私も命が惜しくてな」

「嘘ばっかり。やっぱり君も二十年前に殺しておくべきだったかな」


 溜息混じりにラトゥールが小首を傾げると、耳の横を弾丸がすり抜けていった。


「ラトゥール」ルジェは浸かっていた水から立ち上がった。「本当に、お前なのか……?」

「それ以外の誰に見えるっていうんだい? ちょっと君より背が伸びたからって、親の顔もわからないなんて。まったく、かわいくないんだから」


 冷ややかに一瞥する目付きが以前と同じだった。ルジェは複雑な心境になりながら、そのまま歩み寄ろうとし、目の前を飛び交う弾丸に足を止められた。ラトゥールがあまりに簡単に避けるので忘れていたが、この大経口の弾が頭蓋をぶち抜いたら即死だ。


 ラトゥールは彼へ背を向けてランスヴァルドへ近づいた。その顔をまじまじと見上げる。


「本当に醜いな……。自分が一歩間違っていたらと思うと、虫酸が走るよ」


 唾棄するような口調に、ランスヴァルドが瞼のない赤い眼でラトゥールを見下ろした。


「貴様と私、そして同族と人間の間に如何ほどの差がある」

「面の皮一枚ってところかな。君を同族とは呼びたくないけど」

「くだらぬ。そも、我々に種族としての名がないのはなぜか? 人間は逸話の『吸血鬼』と呼び、我々自身は『同族』と呼ぶ。この矛盾を貴様は考えたことがあるのか?」

「簡単なことだよ。僕らが『派生』したのが、おそらく結構な最近だからだ。だから僕らは独自の言語も宗教もない。礼儀作法から建築様式まで、全部人間の真似をしてきたのさ」

「そう。我々はかつて人間が魔物に対抗するために、魔物との混血によって作られた。人間を守り、盾となるべく生み出された兵器だ。それは今なお変っていない」


 ランスヴァルドが筋組織の絡んだ両手を広げる。


「荒野の対魔物前線を見よ。あれは我々だけでなく、人間をも守る血の砦だ」


 対魔物前線――それはおそらく、同族の誰もが気づかない振りをしてきたことだった。


 かつて魔物を封じてきたのは、荒野を上下から挟み込むようにして連なる巨大な波状山脈だった。皮膚や脂肪を持たない魔物は万年雪が積もる高山を嫌い、荒野に留まっていた。ただ一点、上下の山脈が錐状に触れ合う、最も山脈の低い箇所――旧道を除いて。


 荒野にヴァルツが遷移してからは、同族は自らを守るために上下の山脈の間へ扇状に軍を配備した。それが西の対魔物前線だ。

 ランスヴァルドは魔物そのままの姿で、ひどく理性的に告げた。


「ヴァルツが縮小の一途を辿るのは、魔物に捕食されるためでも、同族同士で殺し合うためでもない。前線というヒトの壁が魔物と人間を分かち、新たな同族を生み出さなくなったためだ。もはや兵制も維持できぬほど、ヴァルツは弱り切っている」


 重々しい声を躱すように、ラトゥールはひょいと身をすくめて銃弾を避けた。


「だから今、混乱を引き起こすっていうのかい? 五十年に一度の、魔物の繁殖期の前に」


 軽く投げられた言葉に、ルジェは耳を疑った。激しい焦燥が胸を過ぎる。そうだ、魔物の襲撃は多少の前後はあれど、約五十年周期。革命前の最後の襲撃が五十六年前だから、いつ襲ってきてもおかしくないのだ。けれどこの二十年は毎日が厳戒態勢で、その環境の中で育ってきたルジェは警報に慣れすぎ、逆に実感が薄かった。なまじ知識があるがゆえに、前線と同様に対処すればいいのだと思っていたのだ。


 だがランスヴァルドの企みが成功すれば、状況は一変する。ヴァルツの総統が外部の者に殺された前例はない。甲種たちはすぐさま次期総統の座を狙って闘争を始めるだろう。その混迷のさなかに、魔物が群れを成して襲ってきたら。それがヴァルツを呑み込み、波状山脈を越えて戦争真っ直中の人間たちを襲ったら。その目的が繁殖行為だったなら。


 おぞましさに鳥肌が立った。阿鼻叫喚などでは済まない。地獄が始まる。

 ランスヴァルドは赤い猫の瞳に理性を乗せて、ラトゥールへ頷いた。


「人間も愚かではない。魔術と統率があれば魔物に抗うこともできよう。それでは私の求める世界は完成しない」低い声が強く言い放つ。「我々は原初の混沌に還らねばならぬ」


「お断りだね」氷の刃のような拒絶が喧噪を引き裂いた。


 ラトゥールは美しい顔に壮絶な笑みを浮かべて言葉を叩き付ける。


「獣に堕するぐらいなら、いっそ滅んでしまえばいい!」


 子供のわめきにも似た声には、深い呪詛が刻まれていた。

 銃撃の音が響く中、一瞬の沈黙が生まれた。


 ランスヴァルドは牙の並んだ口から溜息のようなものを吐く。「貴様にならば通じるかと思ったが……矮小だな。こんな男がヴァルツの長とは。やはり我々は変わらねばならぬ」

「僕もそう思うし、嫌でもそうなるだろうよ。――君を殺したらね!」


 ラトゥールが水を蹴って飛び出した。腰の剣を抜き、鋭い斬撃を放った。

 ランスヴァルドは巨体を俊敏に動かしてそれを躱す。


「あの男を殺したことを、随分と根に持っているようだな」

「殺したのは僕だ」鋭い剣戟を繰り返しながら、ラトゥールが軽やかな足取りで猛追した。「君にはむしろ同情しているくらいなんだよ、ランスヴァルド。健気にも前総統に尽くしてきたのに、その功はすべてルイ‐レミィのものだ。……仕方ないよねぇ、その姿じゃ、絶対に英雄になんかなれないもんねぇ」


 嫌みたらしく言い放ち、ラトゥールがハハハと残酷に嗤う。それでも剣戟は止まらない。

 横薙ぎに払われた一閃をランスヴァルドが素手で受け止めた。


「私は彼に感謝している。血液配給によって個人が完全に監視されたヴァルツで、私の存在を隠すのに、彼ほどの適任はいなかった」声はあくまで理知的だった。

「混血児は血液摂取を必要としないからね。配給を横流しさせるにはうってつけの人材だ」


 ラトゥールは掌ごと切り裂こうと力を込め続けた。それを掴んだ手が許さない。へし折ろうとする力とそれを受け流す技術が拮抗し、刀身が弓なりにたわんでいた。


「彼は私の顔だった。他人と触れ合えぬ私を庇い、緩衝役を果たしてくれた。功績を全て奪われようとも、私はそれで構わなかった」ランスヴァルドの声に初めて感情が乗った。「だが、彼は私を裏切った」

「いいや、裏切られたのは彼のほうだよ。前総統は名前が知られすぎたルイ‐レミィを始末して、君を新しい誰かの影に置き直すつもりだったんだ」たとえば、僕とかね。そう呟く横顔にふっと影がよぎった。「そうなる前に彼は君を逃がそうとしたんだ。でもそれは失敗した。君は彼に裏切られたと誤解して――彼に黒精霊を植え付けた。君の常套手段だね、狂わせてから殺すのは」


 ルジェは無言で軍服の上から懐の黒精霊を握りしめた。ラトゥールが長年持っていたという黒精霊。もしやこれは、ランスヴァルドがルイ‐レミィに取り憑かせたものなのではないか。狂ってしまった彼を殺めたときにラトゥールが得たのでは。


 ランスヴァルドは剣から手を離し斬り払う切っ先から逃れて後方宙返りをした。ラトゥールから距離を取り、魔物の丸い目で彼を見据える。


「……嘘だ」呟きに動揺が透けていた。


「さあ、どうだろうね。僕は嘘つきだから、嘘かもしれない」


 薄く自嘲し、ラトゥールは猫の目を機嫌良く細める。


「ついでにもう一つ嘘をつこうか。昔、僕にはささやかな夢があってね」そう言って、ラトゥールは饒舌に語り出した。「それは小うるさくて平凡な友人が、平凡に人を愛し、平凡に子を成して、ごくごく平凡に死んでいくのを、高見の上から見物してやることだった。凡人の生き様を嘲笑い、心の底から妬ましがっていたかったのに」


 不意にラトゥールは視線を落とし、低い声で呟いた。


「君が、僕の英雄を終わらせたんだ」


 そしてくくくっと不安定に笑い出す。「――なんてね、それも最初の十年で飽きちゃった。今の僕が許さないのはね、君のおかげで二十年も余計に生きる羽目になったことだよ」


 上目遣いで薄緋の瞳が上がる。てらりと濡れたように光った。


「残るは二人だ。こんなくだらない復讐劇、さっさと終わりにしよう」


 言うが早いか、ラトゥールが飛び出した。銃弾を華麗に躱し、ランスヴァルドへ迫る。

 ランスヴァルドの手元が閃いて、小刀がラトゥールの剣を受けた。ジャッと剣同士が擦れ、火花が散る。


 そのとき丁度、ルジェへ壁際から声がかかった。「中尉、早くこちらへ!」


 ジャック・ユニ少尉が王太子を保護していた。二人とも無事のようだ。


「甲種の戦いに巻き込まれたら命はありませんよ!」


 かすめる銃弾を避けながら、ルジェは壁際へ駆ける。一度だけラトゥールを振り返った。銀髪の男は高らかに笑いながらランスヴァルドと斬り結んでいる。


 『残るは二人』だと言った。ラトゥールはランスヴァルドを殺し、復讐を完了させるつもりだ。そして軍も総統の地位も全部投げ出して、一人だけ自由になるつもりなのだ。この世の全てから解放されて。


 だめだ。これから魔物が動き始めようという瞬間に、どうしてあの男を失えよう。今の軍にはラトゥールが必要だ。彼以外の誰も、二十年もの平和を築くことはできなかった。


「……どうすればいい」焼け付くような焦燥感を胸に、ルジェは黒精霊を握りしめた。

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