▼標的3・英雄2
エン軍の補給線は大河へ続く支流に沿って続いていた。
ロイは鬱蒼とした森を風に紛れて駆け抜け、人間はおろか軍馬や軍用犬にすら気づかれないよう野営の後部を探索した。兵士や魔術師の近くにはいないだろうと、更に西へ川を遡る。しかしフェルネットらしき要人を匿っていそうな天幕は見当たらない。
そろそろ持ち場を離れるのも厳しくなってきた頃、支流脇の小高い崖の上に妙な文様のついた馬車が止まっていることに気づいた。ルジェから結界の大まかな形式を教えられていたロイは、すぐにピンときて崖を登り始めた。音もなくひらひらと小さな足場を飛び登り、見張りの兵士と魔術師を昏倒させると、一息で荷台へ滑り込む。
広い荷台に椅子はなく、木製の箱のようだった。少女を監禁するための牢獄なのだ。
片隅には淡い金髪の少女が泣き崩れていた。その傍らには彼女を守る騎士のように立ちはだかっている黒髪の青年がいる。
その生真面目な顔つきを見て、ロイはいつものように茶化したくなった。
「あーあ、女の子泣かせちゃって。いーけないんだー」
「せっ、ロイ執行大佐!」リダーは青い目に緊張を漲らせて呟く。「どうして貴方が」
それを聞いて、少女の縺れた金髪が動いた。泣きはらした小さな顔が上げられる。
「ろいさ、るじぇは……?」
か弱いが澄んだ綺麗な声をした娘だ。初めて話すのに緊張もしていない。やはりルジェの言う通り、精霊として会っていたらしい。
ロイは相手を怯えさせないよう、できるだけ親しげに答えた。
「あいつならピンピンしてるよ。今までにないぐらい疲れ果ててたけどな」
「ほん、とに?」少女は新緑色の大きな目を見開いた。「よかっ……」
安心したのか、少女はそのままぼろぼろと泣き出す。
そんな彼女を守るように、リダーは革手袋をした手でロイと少女の間を断った。
「なぜ貴方がここに……こちらへは派遣されないはずなのに」
「普通に考えてここらに当たりをつけるだろ」しれっと答え、ロイは右手が剣の柄へ触れるようにして腕を組んだ。「前歴が金融課って時点で疑っておくべきだったな、リダー。まさか例のちょろまかし事件が裏切り者どもの資金源だったなんて、思いもつかなかったぞ。そりゃ、全部バレる前に爆殺したくもなるわな」
「彼は自ら志に殉じたんです」リダーは厳しく睨んだ。「先輩でも、愚弄は許しませんよ」
「そのへんは相変わらずなんだな、なんか安心したよ」ロイが苦笑する。「お前みたいな不器用な奴を使うとは、あちらさんもよっぽど人員不足なんだな」
「僕は本当なら総統閣下の再審判を申し出るだけの役でした。……あんなことにさえならなければ」リダーは眉間に皺を寄せ、苦しげに言った。
「持ち前の正義感だけは使えたってか」ふうん、と小さく頷いて、ロイは相手を量るように見据えた。「それが、どんな正義でも」
「ランスヴァルド様は正しい行いをなさろうとしています!」
反射的に気色ばんだリダーを見て、ロイはわざと嫌らしく詰ることにした。
「へぇ、お前の言う『正しい』ってなんだ? 戦争を起こすことか? いたいけな女の子を拉致監禁して血を採ることか? それとも、そうやってボロボロに泣かすことか?」
ぐっと、一瞬リダーが喉を詰まらせた。「……すべて、必要なことなんです」
「必要、ねぇ」
「貴方たちだって彼女を殺して戦争を起こすつもりだったじゃないですか。それがより良い形で実現しただけです!」自分へ言い聞かせるようにまくし立てると、リダーは背後の少女へ警告した。「油断しないでください、フェルネットさん。吸血鬼及びテア軍は貴女を見つけ次第殺害するように命じられています。この男は、貴女を殺しに来たんですよ!」
「そんな……!」
痛ましげな新緑の瞳が耐え難くて、ロイは目の前のリダーを睨みつけた。
「勘違いすんなよ、俺はルジェの頼みでこの子をテアへ連れてくだけだ」
「ああ、彼は魔術師でしたね。彼女の血が目当てなんでしょう」
容赦のない言い方に、少女がいっそう激しく泣き出した。ぽたぽたと涙が落ちていく。
ロイは思わず顔を顰めた。「ひっでぇ奴だな、おもいっきり泣かせやがった」
「ちっ、違いますよっ、彼女はもうずっと泣いててっ」
「る……るじぇはっ」二人の話を割って、少女が零れる涙を拭いながらロイを見上げた。「やっぱり、わたしの血が欲しいん、です、かっ?」
「いや俺に訊かれても……」
ロイの呟きは少女に届かなかった。彼女はしゃくり上げながら続ける。
「ルジェ……優しかったんです。でも、本当は、わたしの血が欲しいだけで……」そこで彼女はぎゅっと目を閉じ、力いっぱい叫んだ。「――かっ、体目当てだったんですっ!」
「……はい?」ロイとリダーの目がそろって点になる。
「ルジェは違うってっ、絶対違うってっ、わたし、信じてたのにっ!」
顔を覆って泣く少女へ、リダーは哀れみの視線を送り、軽蔑しきった声を出した。
「元からああいう男だったんですよ。飢餓状態の吸血鬼は本性が出ますから」
「リダーくんだって優しいけど、戦争をさせようとしてます!」
「それはっ」
唇を噛むリダーを見ず、少女は俯いたまま弱々しく呟いた。「……もう、わたし、全部わからなくなってしまって……涙が止まらないんです」そしてしくしくと泣き続ける。
暗く淀んだ室内の空気に、ロイは眉をひそめて赤毛を掻いた。
「いまいち状況が読めんのだけど……えっと多分、あいつが酔ったときのアレと同じだと思うんだよな。アレはさぁ、俺も鳥肌立つけどさぁ……」そこでロイは一旦考え込んで、言葉を探す。「長年ツレをやってるけど、あいつはベロベロに酔っ払っても嘘だけは言わんよ。だいたいさ、女の子はすぐ体目当てとか言うけど、そもそも魅力があるから血だのなんだのが欲しくなるわけで――」
「先輩、下世話です」
「潔癖な男は嫌われっぞ」リダーを牽制し、ロイは少女へ視線を戻した。「フェルネちゃんが思ってるような意味じゃないかもしんないよ? 俺と来てさ、本人に訊いてみようぜ」
「ルジェに、訊く……」か弱い声が少しだけ力を持った。
「残念ながら、それは無理です」リダーが力強く言い切った。厳しい顔つきのまま、青い目でロイを睨み付ける。「同盟会議の出席者はテアの王子もろとも全滅します。ランスヴァルド様が向かわれているのですから」
「はっ、そう簡単に俺たちがやられると?」ロイの目が一瞬で危険な色を帯びた。
リダーは真剣な顔つきのまま、淡々と告げる。
「地下施設は大河の畔です。魔法使いが水を引き込めばどうなるかおわかりですよね? 荒野育ちの吸血鬼には泳げない方が多いそうですから、そう長くはかからないでしょう」
「おま、えっぐいことを……」堀に落ちたときのことを思い出し、ロイは絶句した。
それを呆然と聞いていた少女が震えだした。髪を振り乱し、大きく首を振る。
「だめ――そんなの、だめです!」
彼女が叫ぶのと同時、馬車の窓から大量の水が流れ込んだ。魔術師を昏倒させたため、結界が破られていたのだ。
「げぇっ!」
ロイが即座に扉を開けると、そこからも水が流れ込んだ。水はロイとリダーを避けて少女を包み、するりと巻き取って崖下の川へと連れていく。
「待ってください!」リダーが馬車から飛び出し、ためらいなく崖を飛び降りようとした。
それをロイが掴んで引き留める。革手袋に包まれた片手をねじり上げた。
「お前、わかってんだろうな。あの子を追って行けば、もう取り返しがつかないぞ!」
「放してください! 僕はとっくに裏切り者です!」リダーは尚も身をよじった。
「まだ確定じゃないんだ。黒精霊に意識を乗っ取られていたってことにすれば……」
「これは僕の意志です! 今会場に行ったら、彼女は殺されてしまうんですよ!」
リダーが叫び、無理矢理掴まれた手をねじった。手袋が破れ、手が解放される。
その手首にある大きな傷を見て、ロイが目を瞠った。
若々しい手に不釣り合いな、引き攣れた丸い傷跡。まるで杭でも打たれたかのような。
「お前、この傷は?」詰問しながら、ロイは以前採血機関で服の胸元が裂けたときにも同じような引き攣れた肌が覗いたことを思い出す。あれも同じくらい古い傷だった。
リダーは手首を隠すように掴んでいた。ロイがにじり寄ると、じりじりと崖の方へと下がっていく。「……子供の頃、人間にやられたんです」
「それで人間が憎いから戦争を起こしてやろうってか? アホかお前」
「僕は人間なんか大嫌いだ」苦しげな呻き声だった。
「その台詞、前にも聞いたけど」ロイは怪訝に呟く。「どうも実感が伝わってこないんだよな。今だってフェルネちゃんを助けようとしてるし。なのに戦争には賛成だとか、わけわからん。お前の言う人間って具体的にはどこのどいつなんだ? お前は誰を恨んでる?」
「それは……ランスヴァルド様が、みんな……」
言葉を濁してリダーが俯く。青い目に暗い影が宿った。
「そのツラだよ。お前が『人間』って言うときは憎しみなんて欠片もありゃしない。辛気くさい、葬式みたいな顔してる。そういうのはな、『後ろめたい』って言うんだ。何があったか知らんが、戦争なんか起こしたって余計に罪悪感が募るだけだぞ!」
答えはなかった。リダーはきつく口を引き結び、目を逸らしている。
ロイは溜息を吐くと、手を伸ばしてリダーの両肩を掴んだ。
「なあ、お前の『死んだらどうするんだ』って口癖は、全部『生きていたい・生きていて欲しい』って言ってるんだろ? そんな奴が戦争なんか望むはずがない。お前の意志じゃないことはわかってるんだ。ここらでおとなしく手を引け」
リダーは死に怯えている。自分だけでなく、周りのどんな相手へも同様に死を恐れる。
ロイにはその恐怖が理解できないが、彼に戦争を荷担させてはいけないことだけはわかっていた。己のもっとも支えとする物事に逆らったとき、彼は心の中心を見失って、きっと終わってしまうのだ。ロイの長年の勘がそう告げていた。
「復讐なら他にやり様がいくらでもあるはずだ、今ならまだやり直せる。来い、リダー」
顔を覗き込むようにして強く言うと、リダーの青い瞳がわずかに揺れた。
「僕は……」胸元を握りしめてリダーは低く呟く。「あの時、人間も近くの支部の同族も、誰も助けてはくれませんでした。……僕が混血だったから。ランスヴァルド様だけが助けてくださったんです。だから僕は、その恩に報いなければ……!」
言い終わるか否か、ロイの手を振り切ってリダーが崖を飛び降りた。水柱が立つ。
「くそ!」泳げないロイは追うこともできず、歯を食いしばって崖の上から川を眺めた。
そのとき遠くから爆音がして、目を上げた。
暗い森の向こう、大河を超えた彼岸に、大量の土煙が上がっている。そこへ宙を巨大な大蛇が這うようにするすると伸びていくのは、大河の水だ。
そしてエン軍全体が目覚めるようにざわめき始めた。
ロイは鋭く舌を打ち、もう一度だけ足下の川を見て身を翻した。「……仕方ない、か」




