第五章:▼標的3・英雄1
五章 ▼標的3・英雄
夜の帳が降りる頃、戦場はしばしの休息を迎えた。
広大な大河を挟んで両陣営が睨み合っている。西のエン軍は鬱蒼とした森に沈み込み、木々の間からゆるゆると煮炊きの煙を上がらせていた。対岸のテア陣営は荒野さながらの荒れ地と化し、地を穿つ爆発の後が生々しい。夜闇に紛れる半円状の黒い結界からは、煮炊きの煙はおろか火さえも覗けなかった。
昼過ぎにぶつかった両国軍はすぐさま盛大な魔法戦を始めた。大魔法を連発するエンへ、テアは地の利と長年培った術式技術を駆使して防戦した。大河から精霊を呼び集め、強固な結界を張って凌ぐ。一方、エンもまた大河の精霊を利用して大魔法の砲撃を繰り返した。やがてテアの結界に穴が開き、兵へ被害が出始めた頃、突如として大魔法の嵐が止んだ。
そこからは伝統的かつ暴力的な闘争だった。
精導士たちが河の水を塞き止めて路を作る。そこへ両軍の騎馬隊及び歩兵がなだれ込み、正面からぶつかった。魔法の才がある者は水面を馬で駆けて遊撃し、あるいは宙を飛んで後ろへ回り込む。精導士が敵の魔法を封じれば、向こうもまた封じ返してくる。
その間も河の中央では剣戟が繰り返され、水のない川下は真っ赤な血を垂れ流していた。あちこちで爆発が起こり、馬がいななく。竜巻が起こり、地が割れ、雷が落ちた。
白兵戦でもまたテアは不利だった。元が突然の侵略に慌てふためいてかき集めた近場の兵士と、魔術大国ゆえに武力をおろそかにしてきた騎士たちである。長年、圧倒的な精導士の数に物を言わせてきたツケが一度に押し寄せてきたようだった。
それに対して、エン軍は恐ろしく統率がとれていた。現場の端々を束ねる上官全てが迅速に指揮官に従い、突撃、退避、反撃、転進と、あらゆる指示を一斉に実行する。指揮系統が整っているのだろうが、その動きはどこか機械的で、気味が悪いほどだった。
これだけの動きができるなら即日侵攻を始めてもおかしくない。補給線さえ断たれなければ、数日でテアを落とせるだろう。ヴァルツの前線軍さながらの動きを思い出し、ルジェは内心で危機感を覚えたほどだった。
遠い丘の上から両陣営を眺めている彼の元へ、夜風が濃厚な血の匂いを運んできた。
「冷えてきましたね。どうぞ」傍らに控えたジャック・ユニ少尉が血液包を差し出した。
「いや俺は……」
「十分な血液摂取と予備の携帯は武官の鉄則でしょう? ここは戦場です。いついかなることがあるとも限りませんから」
押しつけられた血液包を受け取り、ルジェは苦々しい顔で懐へしまった。ただでさえ怪我人だからと血を多めに飲まされているのだ。これ以上飲んだら絶対吐く。
そのとき、視界の端に人間の一団が現れた。数人の護衛に囲まれているのはテアの王太子だろう。地味な外套を羽織っているが、歩く度に金擦れの音がする。甲冑でも着込んでいるのだろうか。人間では、というより彼の体格では、体力を削ぐだけだと思うのだが。
ルジェは黒眼鏡を付けようか一瞬迷ってからやめた。この暗さで眼鏡をかけたら、何かあったときに対処できない。代わりに軍帽を目深に被り、太子へ問いかけた。
「それだけの人数でよろしいのですか?」
「重鎮までいなくなれば目立ちます。一応、私の替え玉は置いてありますが、この状況で大将が逃げたと思われるのは避けたいのです。それに我が国の重鎮は皆、精導士ですから」太子は丘の下を振り返り、大河一帯を眺めた。夜になったとはいえ、戦況は不利のままだ。「全権は私にありますので、ご心配には及びません。貴方がたを信頼します」
緊張気味に微笑む太子はやつれていた。けれど瞳には硬い鉱石のような光がある。おそらくこれが、病床の王に代わって早くから執政を務めてきた青年の、本当の姿なのだろう。
ルジェは黙って頷き、彼らを会場へ導いた。丘を大河の反対へ下った先に小さな洞穴があり、その中に地下へ向かう業務用の昇降機がある。これで百米ほど地下へ降りれば会議の場へ直行できるのだ。円蓋型の地下施設は軍の古い穀倉で、長らく使われていなかったが電源も発電機能も健在だった。貯蔵を目的として作られただけあり、施設は広く、天井が高い。掘り下げた高さがそのまま内部の容積に貢献している。
昇降機の扉が開いた瞬間、太子の呼吸が乱れた。
広い内部にはほとんど何もなく、中央に大きな円卓が置かれているだけだった。それをぐるりと取り囲む白い軍服の甲種と、少し離れて左右一列に並んだ黒服の乙種。ほの暗い間接照明の光を受けて、彼らの淡い猫の瞳が一斉に光った。
太子は一瞬ためらってから、すっと息を吸い込んで一歩を踏み出した。そのまままっすぐ円卓へ向かう。途中で外套を脱ぎ、金の装飾がついた銀甲冑を顕わにした。
ルジェと少尉は乙種の列の末席、太子とその隣の甲種との中間へさりげなく並んだ。
顔を動かさないようにして円卓を見回せば、甲種はどれも軍では名だたる将官ばかりだった。ルジェから左の最奥にいる髭の男は元帥だ。その隣は参謀長官。中央事務総長、支部総長以下、支部総司令やその代理三十八名が並んでいた。右へ来るほど位も身に着けた徽章も少なくなっている。そして一番右端に王太子が立っていた。
円卓の中程には一人だけ乙種の女が混じっていた。艶やかな黒い巻き毛の彼女が東部第三支部総司令パルフェ・タムールだ。妙齢の美女はこちらへ妖艶に嗤いかけた。
ルジェの耳に女の低い美声が蘇る。――『最高の舞台を用意してやる』
せいぜい上手く立ち回れということだろう。そう判断し、目を伏せる。
ルジェの役回りはロイがフェルネットを確保できるよう、調印を遅らせることだった。軍が本格的に動き出せば彼女は瞬殺される。その前に、この中の誰がラトゥールから全権を委任されているかを見極め、状況に応じてさりげなく対処するのだ。
太子は席へ着こうとはせず、立ったまま形式通りの挨拶を述べ始めた。
「この度は急なことにもかかわらず、我が国の申し入れを受け入れていただき、ありがたく存じます。貴殿らにおかれましてはご機嫌麗しく――」
案の定、すぐに甲種の横やりが入る。「冗長な。これだから人間は面倒くさい」
「ご機嫌取りは要らん。戦況を述べられよ、王太子殿」最奥の元帥が促した。
太子がちらりとルジェを見た。頷き返すと、彼は魔法で霧のようなものを作ってそこへ映像を映し出した。ルジェの知らない術式だが、原理は映写機と同じだろう。
「正直に申しまして、状況は厳しいです。未だ前線は破られておりませんが、死傷者はおよそ二割。明日到着する援軍を加味しても、不利なことに代わりはありません」テアの陣営はに大魔法による大穴がいくつもあいていた。結界から外れた川岸は荒れ果て、炭化した樹木が根こそぎ倒れている。「大魔法への対策として序盤に全勢力を守備と結界に回しておりましたので、見た目ほどの被害ではありませんが……敵軍との能力差が大きいかと」
「そのようですな。若干の希望的観測も含まれておりますが」
眼鏡の甲種に軽く詰られ、太子がわずかに黙りこんだ。
「……大魔法は百五十発を境に止みました。おそらくこれが一日にフェルネットから奪える血量の限界だと思われます」太子は目を伏せた。「魔術師が回復するまで一日の猶予があります。その前に……朝までに、フェルネットを見つけ出せば――」
「して。無論、あてはあるのでしょうな?」禿げ上がった老年の甲種が口を挟んだ。
「そ、それは――」
太子がうろたえた一瞬を突くようにして、彼の左隣、末席に座る男が助け船を出した。
「考えるまでもないことでしょう、将軍。血液を全体へ速やかに運搬できる場所といえば、後方接続部――補給線の根本しかありえませんよ」
「それもそうですな」太った壮年の甲種が頷く。
「しかしそこは兵の配置の最奧。テアに突破は難しいのでは?」
「なに、斥候を回り込ませるぐらい、わけがない」
「情報によれば同族の協力者がいるそうだが」
「裏切り者か……。捨て置けんな」一斉に甲種の猫の瞳がぎらつく。
不穏な空気が漂い始める中、一番外見の年老いた甲種がのんびりと呟いた。
「馬のような喧しい乗り物では、同族に気づかれるやもしれませんのう」
一通り意見が出そろったのを見て、末席の男が太子へ微笑みかけた。
「どう思われますか、王太子。貴国お得意の魔法とやらで対処ができるというのなら、我々としても安心してお任せできるのですが」少し低い、柔和さを装った声だった。
太子は訥々と答える。「空を飛べる者はおりますが、集中砲火の危険がありますので……。それに魔力の動きは敵に感知されやすいので、魔法使いは斥候に向きません。本来なら兵士を使いたいところですが……」
厳めしい顔つきの甲種が鼻で笑った。「それで同族に勝てると? 片腹痛い」
「……重々承知しています」
「将軍、そんなにいたぶっては可哀想でしょう、相手は人間なのですから」末席の男が上品に苦笑した。どうも彼は調整役を務めるつもりのようだ。「まあ、我々を使えば話は早いのですがね。そのような重要任務を任せて頂いて本当に宜しいのか、と先に伺いたくて。我々も善意だけで生きているわけではありませんので……」
「もちろん、すべてが終わった暁には」
真面目に答えようとする太子を軽く手で制し、末席の男は強引に言葉を続けた。
「そう早く、事を終わらせないかもしれないですよ?」いたずらげな響きがあった。
太子は目を少し見開いて男を見つめ、徐々に険しい顔つきになっていった。
「……戦を煽られるおつもりですか?」
「さあどうでしょう。――ひとつ、気づいてもらいたいのですが」男は長い指を顎へ添え、面白げに目元を緩めた。「貴方に許された選択肢は少ない。我々を使うからには、今後とも何らかの干渉を受けることになるでしょう。『覚悟はお有りか?』と伺っているのです」
男の笑みが言う。『お前の行為は国賊に片足突っ込んでるんだよ』、と。
いつの間にか周りの甲種たちは押し黙り、息を潜めて二人の様子を窺っていた。その中でパルフェ・タムール支部総司令だけが妖艶な笑みを浮かべ続けている。
ルジェは確信した。間違いない、この末席の男がこの場を仕切っている。
男の外見は人間なら三十過ぎというぐらいだろうか。ルジェからは背中側からしか見えないが、銀髪で背が高く、肩幅が広い。横顔から察するに甲種特有の人形のような美貌を持った男だ。彼が総統から全権を委任された使者なのだろう。
「お言葉ですが、閣下」ルジェは微動だにしない乙種の列からするりと抜けた。卓へ近づき、太子との間を断つように片手を差し入れる。「エンに裏切り者がいる以上、こちら側の情報漏洩も懸念されます。素早い処置がご賢明かと――」
ルジェが男を見下ろした瞬間、炸裂音がした。眩い閃光が視界を白く染め上げる。
「なっ!?」
「閃光弾!!」目が眩む中、誰かが叫んだ。
そのとき何者かが風のように円卓の上を駆け抜けていく音がした。
「てきしゅ……!」声が途切れると同時にぶつりと嫌な音がして、熱い液体が飛び散った。
「ひっ!」ぐしゃり。「うあっ!」ぶちり。「まっ……!」ぶつ。
「この殺し方、ルイレミぃぐ――」喉がつぶれる音。
最後の叫びに視覚の戻りつつある目を見開いて、ルジェは息を飲んだ。
円卓は血で溢れていた。座席には前頭部のみ割られた者、顔面を握り潰された者、首を引き抜かれた者。血を噴き出す死体たち。噴水のように噴き上がる血は、まるで――
それらを凄まじい速さで生み出す黒い影が円卓の上を駆けてくる。見覚えのある血に染まった長外套。それは片手間に死体を量産して、円卓の端に立つ王太子へと迫った。
とっさに王太子を突き飛ばしたルジェが長外套の前へ飛び出した。包帯の巻かれた大きな手が血を滴らせて眼前へ伸びてくる。
それを横から伸びた手がしなやかに掴み、その場へ縫い止めた。
ふふっ、と低いが耳に覚えのある笑い声がする。
「元気そうで何よりだね」末席の男が優雅に微笑んだ。「君が生きているとわかったときは本当に嬉しかったよ、『荒野の雨』」
「ら……」喘ぐようにルジェが息を飲む。
外套の奧からくぐもった声がした。
「貴様――ルイ・ラトゥールか」
そのとき頭上で凄まじい爆発が起こり、地下施設の天井がバラバラと崩れ始めた。
滝のように流れ落ちる土砂と――大量の水。
そして無数の銃弾が降り注いだ。




