残酷な裏切り10
東部第三支部の最下層にある牢獄は、ひどく空気のよどんだ場所だった。黒い壁の罅から地下水が染み込み、あちこちの床を湿らせている。湿気った空気が重い。東部全体がそうだが、この纏わり付くような空気だけはどうにも体に合わなかった。
ルジェは悪臭の漂う細い通路を進み、居並ぶ見張りを下げて分厚い混凝土の扉を開けた。壊れてもすぐ直せる混凝土は同族がよく使う建材だ。牢獄のように壊されやすい所は特に。
狭い箱のような個室の中、薄汚い寝台の上で、赤毛の男が柔軟体操をしていた。
「お、生きてたか。お互い悪運が強いねぇ」ロイは奇妙な体勢から戻って笑いかけた。相変わらず緊張感もなければ落ち着きもない男だ。唯一違う点は声が少し掠れていることか。「ったく、警邏の奴ら、ぶっ続けで喋らせやがって。あー喉カスッカスんなっちまった」
録音式の取り調べは喉を酷使する。ほんの少し受けただけのルジェでもうんざりしたくらいだから、二十時間近く拘束されているロイは尚の事だろう。
ルジェはざっと室内を見渡し、監視機器がないか確認した。とりあえず見当たらないが、信用はできない。言葉に気をつけてロイへ話しかける。「怪我はないのか?」
「肋骨が何本かやられたぐらいだな。堀まで吹っ飛んだのが逆に良かったみたいだ」
「よく溺れなかったな」しかもその怪我で柔軟をしていたとは……あほだ。
「全力で底を蹴って飛び出たんだ。あと三秒遅かったら死んでたな。石畳みだったから助かったけど、泥だったらと思うとぞっとする」自分を抱きしめて身震いするロイ。堀の青く澄んだ水は上から見る分には美しかったが、一度落ちるとそうは思えなくなるのだろう。
ルジェはそんなロイへ林檎を投げつけた。「差し入れだ」
「お、助かるわ――ととっ」更に二つの封書を投げ付けられ、ロイが慌てて指先に封を挟んだ。まじまじと見る。「なんじゃこりゃ」
「戦時下での戦闘員志願書と、テアの王太子の推薦書だ。同意すればそこから出られる」
「その代わり人間の戦争に参加するってか。お前、どんな手を使ったんだ?」
ロイは書面へざっと目を通しつつ、林檎をかじった。
「人間の喧嘩ごときに貴重な人員を割きたくないそうだ。……というのは建前で、パルフェ・タムール支部総司令と少し、取引した」
ロイの手から林檎が落ちた。「あの女傑とか!? お前ほんと怖いもんなしだな!」
「ばかを言え、胃痛で死ぬかと思ったんだからな」あの女との二度目のやり取りを思い出し、ルジェは胃を押さえた。「全部終わったら諜報部へ来いと言われた。この平凡な顔が潜入工作員向きなんだと」
「あー」ロイは納得してルジェの顔を見た。「ルイ‐レミィも元は諜報員なんだっけ?」
「母もそうだった。ここの奴らからすると、俺は大層な純血らしい」
血液配給によって個人が明確に管理される軍の中で、諜報員は公的に存在が末梢されている人材――すなわち、後ろ暗いことにも使える人材だ。ルイ‐レミィは世の中を騒がす暗殺者として有名だが、他にもヴァルツの内外を問わず様々な工作活動を行ってきたとか。
そのうえ両親共にパルフェ・タムールの直属の部下だった。と、さっき初めて聞かされた。親の所属など関係ないはずなのに、凄まじく気が滅入った情報だった。
また不調を訴えだした胃を思いやりながら、ルジェはロイへ淡々と告げた。
「テアの申し入れをヴァルツが受け入れた。今晩、戦場近くで会議を開くそうだ」
「そんなに早く? 来れるのか?」
「参加するのは一部の甲種だけだろう。どうせ総統は動けない……。調印までは支部の人員を貸し出す予定だが、それだけでは不安が残る。お前の力がいるんだ」
「でも人間相手なんだろ? ほんとに俺が行っていいのか?」
ルジェは重々しく頷いた。
「リダーにも捕縛命令が出ている。お前なら穏便に済ませられるかもしれない」
「あいつか……」ロイの眉間に皺が寄った。「あいつが、なぁ」
「リダーが本当にエンの工作員なら、生け捕りにできれば相当な情報源になる。ラトゥールの件も何か知っているかもしれない。……黒精霊の剥がし方も」
ルジェの脳裏に長外套の姿が蘇る。少女から黒精霊を引きはがした、とんでもない強さの男。あれは一体、何者なのだろうか。黒精霊を扱うには特殊な素質が必要だったはずだ。今は絶えたはずの、同族の貴族のごく一部だけが持っていた素質が。
ルジェは険しい表情でロイを見た。「お前が何を言ったか知らないが、俺はリダーに黒精霊が取り憑いている可能性があると証言した。捕らえても即座に殺されることはないだろう。奴はフェルネットと一緒にいる可能性が高い。お前が見つけて……」
「見つけて?」ロイが林檎を囓る。その顔が歪んだ。「なんじゃこの林檎腐って――?」
「黙って食え」と騒ぐ声を封殺する。
ロイは林檎の中を見て口を閉じた。さっと林檎をしまう。
ルジェが渡した林檎には小さな紙片が忍び込ませてあった。そこには極めて小さな文字で『フェルネットを奪い返し、テアへ引き渡せ』とある。
これはルジェとテアの王太子との個人的な密約だ。軍が本格的に動き出す前にフェルネットを確保し、東の『大森林』へ送る。そうすれば彼女は二度と人間の手に届かなくなるだろう。その前に黒精霊の封印を解いてもらうが。
「なるほどな」ロイはルジェの顔色を窺った。「そら、情も移るわなぁー」
「これで駄目なら諦める。お前も無理はするな」
特に戦場では、と言いかけてやめた。それを期待してこの男を放つのだ。
本当は自分が行きたかったが、ルジェはこれから同盟会議へ出席しなければならない。
「あっさりしてんのな。まあ、『五割の男』だもんな、お前」
「ああ」ルジェは苦笑して頷いた。「その程度の器だからな、俺は」




