残酷な裏切り8
ルジェが目を覚まして最初に見たのは、黒い混凝土の天井だった。
東部第三支部の医務室だ。そう思った矢先、胸の傷が痛んで顔を顰めた。
同時に顔の横から伸びた手が血液包を口へぶち込み、問答無用で血を流し込んできた。
むせ返って飛び起きようとしたが、手足が動かない。拘束されているのだ。咳で傷が恐ろしく痛む。手当てはされているようだが、今にも傷が開いてしまいそうだった。
「あれだけ出血したのに錯乱しないなんて、さすがですね」
さして感心のない声がしたほうへ首を巡らせると、寝台脇に癖の強い茶髪の若者がいた。案内役のジャック・ユニ少尉だ。艶ぼくろのある口元に相変わらず愛想の良い笑みを浮かべている。が、手足を拘束された状態で見上げると不安になる顔でもあった。
少尉は彼の意識が確かだと見るや、さっさと拘束をはずした。
ルジェは傷に響かないよう慎重に上体を起こした。
「何がどうなって……? フェルネットは?」
「攫われましたね」少尉はさらりと答えた。「僕らが回収できたのは貴方と赤毛の七一の方と、そこで玉になっている黒精霊だけです」
絶句するルジェを気にせず、少尉は寝台脇の台から黒い玉を手に取って振ってみせた。透明な球の中で黒い液体がたぷんと揺れる。玉そのものも柔らかいようで、沙盆玉のようだ。この膜は水か? ならば魔法? だが術式が見当たらない。どうなっているんだ?
「フェ……彼女が攫われたと言ったな」渡された玉を検分しながらルジェは訊いた。
「ええ、エンに。リダー書記補佐が裏切ったんですよ。彼はエンの潜伏工作員だった可能性が高いですね。ブランカ女史はもうエンの手に落ちているでしょう」
「リダーが?」ルジェは驚いて少尉を見る。なぜそう言える、そう続ける前に彼は告げた。
「今朝、エンはテアへ侵攻を開始しました。既に国境線を破り、テア西部を進軍中です」
この意味がわかりますよね、という笑みを添えられた。
ルジェの手から玉が落ちた。今朝侵攻した? ならば今はいつの何時だ、どれだけ気絶していた? そう思って時計を確認すれば、〇九三五。日付は変わっていない。いや、人間の感覚では次の日の朝か。エンの動きが速すぎるのだ、いくら彼女を……精導士量産の手段を手に入れたからといって、即日戦争を始めるなど。ほとんど奇襲ではないか!
フェルネットは――……フェルネットはおそらく、死ぬよりも残酷なことになった。
ルジェは奥歯を噛み締めて動揺を隠した。「ロイ……執行大佐は」
「無事ですよ。相方さんと共犯の疑いがあるので、取り調べを受けてもらっています。なぜあんな場所にいたのかも、じっくりと訊かれているでしょう」
あんな場所とはテアの王城か。そう考えてルジェは一つの疑問に気づく。
彼は慎重に声を出した。「……一つ訊く。あの後、テアが俺たちを助けたのか?」
「彼らは貴方がたに気づいていないでしょうね。我々の回収の方が速かったですから」
「あの甲種の死体も?」
「ええ」
「えらく手際がいいな」
「そうでしょうか?」けろりととぼけられる。
「あのとき――塔の中を駆け上がってくる人間の足音を聞いた。それより早く到着したとして、俺達を回収するのはともかく、あの死体の山まで処理できたとは思えない」
「彼らにはちょっと足止めされてもらいましたからね」
「だから、手際が良すぎるんだ。まるで知っていて泳がせていたようにしか思えない。俺たちの意図、すべてを」ルジェは声の温度を下げた。「……この支部の総司令は諜報部の出だったな。前総統の懐刀だったはずだ」
「パルフェ・タムール支部総司令閣下にあらせられます」
パルフェ・タムール。前総統の愛人だったという噂がある女だ。ラトゥールの大粛正を生き延びた数少ない左派でもある。抜け目のなさで有名な女傑のはず。
厳しい視線を送るルジェへ少尉はにこりと笑いかけ、壁にかけられている彼の軍服の襟元から支部章を取った。ひっくり返せば、小さな機械がついている。
――やられた。
そう思う間もなく、少尉は懐から取り出した録音再生機の電源を入れた。雑音の中、はっきりとした声が流れ出す。『お前は本当に可愛いな――』
その後に垂れ流された顔を覆いたくなるような言葉の数々に、ルジェは胃の中にあるものではなく、自分自身の血を吐きそうになった。おぼろげな記憶が蘇る。そうだ、あのとき自分は極度の貧血で、自制が利かなくなっていて……彼女を。
「お熱いことですね」と少尉はにやにやしている。
言い訳したくなるのをぐっと堪え、ルジェは平静を保った。睨むのだけは忘れない。
「……なるほどな。ここの奴らは全員、工作員か」
「人間社会で活動するには必要な技術ですから、適切な配置だと思いますよ」
少尉は否定はしなかった。ただ薄ら笑いを浮かべている。
その顔が仮面にしか見えなり、ルジェは顔をしかめた。気味の悪い男だ。おそらく見た目通りの物は一つもないだろう。階級も年齢も、性格ですらも。
「総統の人格を模した黒精霊なら、使い道はたくさんありますからね。黙って持ってきてくださるならそれに越したことはなかったんですが……これではね」そう言って少尉は玉をつつき、上目遣いでルジェを見た。「魔法使いさんでも解けないんですか?」
「これは魔法じゃない」
少尉が片眉を上げる。「こんな頑丈な水があると?」
「精霊の善意だろうな。フェルネットが望んだならありえる」
これを開けるには精導士に話を通してもらうほかないだろう。それはヴァルツへ行けば何とかなるはずだ。そこまで考えて、ルジェは露台から降りようとした。
「だめですよ」ジャックが押さえ込んだ。「貴方は資質が高くないですから、最低でも一日は安静にしていないと。そうでなくても命令違反で捕まったらひどい目にあうのに」
「あれは黒精霊を取りに行っただけだ」ルジェはしらとぼけた。実際フェルネットは回収できなかった。彼女を救おうとした証拠はない。「俺は総統に会いに行く」
「残念ですが、それは無理でしょう」少尉は冷静に告げた。「開戦に伴い、戦地の全支部に緊急事態宣言が出されました。駐在官のみならず、滞在する軍人は総員、各支部総司令の指揮下に入らねばなりません。戦争が終わらない限り、ヴァルツへは戻れませんよ」
ルジェは黙り込んだ。相手の主張がもっともだったからだ。
まさかラトゥールの言っていた『休暇』とはこれのことだろうか。彼を東の果てに追いやって、戻らないようにして……どうするつもりだ? ルジェがヴァルツへ戻る頃、養父は一体どうなっている?
――七一に討伐されている。
崩我したラトゥールではルジェなど相手にならない。とうに使えぬ駒だと見切られていたのだ。長年努力してきた結果がこんな形で実っていたことに、彼は力なく自嘲した。
そしてすぐに、鋭い眼で少尉を射抜いた。「で。総司令殿のご判断は?」
「……『静観せよ』、と」回答の前に置かれた一瞬の空白を、ルジェは見逃さなかった。
「ご賢明なことだ。だが――」素早く少尉の耳の後ろへ手を伸ばす。予想通りそこにあった通信機をひったくった。拾音部を口へ当て、はっきりとした声で言う。「総司令殿に直訴する。――『この期に動かないのは重大な損失です』」
一瞬の空白。
やがて据え付けの拡声器から雑音が零れ、妙齢の女の声が流れ出した。
〈詳しく聞こうじゃないか、ラトゥールの〉低く張りのある美声だった。
ルジェは緊張で声が震えないよう、深く息を吸った。
「……同盟を」落ち着け。「もしもテアがヴァルツと同盟を組めば、どうなります?」
〈我々が戦争に介入する〉女は即答した。〈テアが勝てば、その後が面白いだろうな。負けてもいずれエンは叩かねばならん。その際に難癖をつける材料の一つにはなるだろう〉
言い終えてすぐ、拡声器の向こうで女が鼻で笑う音がした。彼の提案がどちらへ転ぼうとも不利にはならないことを察したらしい。細かい説明をしなくて済むので助かる。
〈貴様の主張は理解した〉女は含み笑いを隠さない。〈率直に言おう。どれが望みだ?〉
『全部とは言わせんぞ』そう言われた気がした。
ルジェに選択の余地はなかった。フェルネットはもはや手の届かない場所にいる。自分の一存で救える範囲ではない。ならばせめて、とルジェは思った。
「……戦争の早期終結」
戦争の間ずっと、彼女はエンのために血を抜かれ、その血で人々が殺し合いをするのを見続けなければならない。自分が死んでなお戦争が起こるのが嫌だと言ったあの娘が、そんな状況で心が痛まないはずがなかった。その苦痛を少しでも早く終わらせてやりたい。
それにもしテアが勝つことがあれば、それは救いにならないだろうか。たとえ――
だが彼女のことはここでは口にできない。だから彼はもう一つの本心を添えた。
「もしラトゥールが崩我していたら、ヴァルツ全体に危険が及ぶ。俺はその前に帰る」
一刻も早くラトゥールを確認し、必要ならばこの黒精霊を戻さなければならない。
女が低い忍び笑いを零した。
〈私には『その黒精霊を渡しておいてやろうか』とも言えるわけだが〉
「あんたは信用できない」思わず地の声が出た。
〈素直に逢いたいと言えばいいのだ、餓鬼が〉くすくすくすと女が嗤う。〈テアがどうなろうと構わないが、アレの今後には興味がある。――良いだろう、最高の舞台を用意してやる。……このツケは高いぞ、ラトゥールの〉
ルジェが顔を上げるのと同時に、女は冷たい声で命令を下した。
〈一小隊。そいつらをテアへ前貸しし、フェルネット・ブランカの殺害任務を命じる。貴様は今すぐテアへ赴き、同盟会議を開くよう提案してこい〉
自分で選んだ結果に、ルジェは治ったはずの胃の痛みが蘇った。
戦争を最も早く終結させる方法――それはフェルネットが無効化すること。死ぬことだ。
さてと、と女は楽しげに言った。〈交渉役の本領発揮だな、公子殿〉




