残酷な裏切り7
するりと大きな手が伸びて、少女の頬に触れた。優しく肌を撫でた指先が零れようとする涙をぬぐいとり、すっと離れる。
美しい指先につられて少女が半ば無意識に目で追うと、彼は涙を舐めて微笑んだ。
「……ルジェ?」
弱々しい月の光が彼の瞳孔を柔らかくほどいていた。その目は普段の厳しく鋭いものとは違い、甘く夢見るようだった。形の良い唇が美しい弧を描いて、穏やかに微笑んでいる。彼の整った顔立ちが初めて見せた表情に、少女は息も忘れて魅入った。
彼の姿を見慣れているつもりだった少女は、己の体が示す感覚に驚いていた。胸が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。薄紫の瞳に吸い寄せられる心地になる。それでいて鳥肌が立つほど怖いのだ。瞳孔の大きくなった猫の瞳は、その奥の真っ黒な虚無を覗かせていた。
彼は優美な手つきで少女の髪を梳いた。地肌に触れる感触が恐ろしく優しい。甘い微笑を浮かべたまま、彼は囁いた。
「お前は可愛いなフェルネ」慈愛に満ちた目がひたと少女を見ていた。「こんなに震えて。本当は俺が怖いのに、必死に慕ってくれている。頼りにしてくれてるんだな、嬉しいよ」
「や、やめてください……ルジェ、変ですっ」
耳に髪をかけようとする手を少女は慌てて押し返した。その手を軽く握られ、今度は親指の腹で爪先を一つ一つゆっくりとなぞられる。
「変か。そうだな、その通りだ」にっこりと彼は笑った。「お前はいつも正しい。そうやってなんの衒いもなく真実を言うから、俺はいつも吊し上げられている気分だった」良く響く声を少し下げ、ささやく。「ひどい女だ」
「……ごめんなさ」少女が目を伏せかける。
その小さな顎を彼の手が掴かみ、顔を上げさせた。
「褒めてるんだよ。お前が正してくれたから、俺はまだ自分を許せる。お前のおかげだ」
「でも、わたし何もできなくて。今だってルジェ、怪我して……」
「どうすればいいか、か?」言い募る彼女の口を指先で封じ、彼は笑みを一層深く優しくした。その口元から覗く控えめな八重歯は、鋭く尖っている。「何をすべきか、お前はわかっているはずだ。……おいで、フェルネ」
彼の片手が少女の細い腰を抱く。力の入らない彼女をそっと抱き寄せ、彼は甘く囁いた。
「いい子だ」
鋭い牙が少女の首筋に当たる。
バカン! と陶器の割れる音がして、彼の体がぐらりと傾いた。
同時に降ってきた大量の水に少女は目を瞬かせる。
彼の背後には、小柄な青年が割れた花瓶を持って立っていた。リダーだ。
「不潔です! ああもう、これだから吸血鬼は!」彼はひどく憤った様子で瓶を投げ捨て、気を失った彼を少女から引きはがした。呆然とする彼女をきっと睨みつけ、厳しく叱咤する。「貴女も貴女ですよ、飢餓状態の吸血鬼に近づくなんて、死にたいんですかッ!」
「だって……」少女は力なく答え、すぐに何かに気づいて息を飲んだ。首筋を守るように手で抑え、大粒の涙を零し始める。「ルジェ、優しかったんだ、も……」
ぼろぼろと泣く少女。彼女の涙は頭から被った水と一緒に絨毯へと落ちた。そのまま絨毯の上を転がって、血溜まりに凝った黒精霊の元へと集まると、それを丸く包み込んだ。
リダーはそれに気づかず、腕を組んだまま思案げに部屋の扉を一瞥した。
塔を駆け上がる人間の足音が近付いている。
溜息をついて少女の傍らへ跪くと、彼は手巾で涙を優しく拭いた。
「仕方ないですね。本当は僕は、こんなことまでするはずじゃなかったんだけどな……」
リダーは渋々と手巾を開いて斜め半分に折った。そして少女の口へ当て、きゅっと縛る。
「貴女にはエン国まで来てもらいます。ランスヴァルド様がそう、お望みですから」




