第一章:不服な任務1
第一章:不服な任務
その少女を見た瞬間、ルジェは言いようのない違和感を覚えた。
「お前がフェルネット・ブランカか?」
「それ以外の何に見えますの? 吸血鬼のおにぃーさん」
からかう声に甘ったるい忍び笑いが続く。
混凝土製の小部屋には、通常の間接照明に加えて、蛍光灯が一つだけ配置されている。
その光が落ちる机の向こうに、淡い金髪の少女が座っていた。机へ両肘をつき、白い袖から出た指先を絡めている。誰が与えたか、襞飾りのついた胴着が幼げな姿によく似合っていた。その清純そうな顔に、計算された上目遣いと蠱惑的な笑みさえなければ。
「ふふ、そんなに睨まないでくださいな。せっかくの綺麗なお顔がだいなしですわ」
少女の言う通りルジェは顔を顰めていた。だが悪意があったわけではなく、眩しさに目を細めていただけだ。光を嫌う彼らはしばしばこの手の誤解をされる。その顔は人間から見ればいたく美形に見えるようだが、同族ではこのぐらいが普通だった。
人間を相手に言い訳する気にもならず、ルジェは無言で軍帽を引き下げた。庇の影と自分の黒髪で視界が一段と暗くなる。相手からは彼の目元が確認できないほどに。
「……名を尋ねたのはただの確認だ。以後、余計な発言は慎むように」
「はぁーい。厳しくて無愛想な、吸血鬼のおにぃーさん」
声だけで甘えて、少女はつまらなそうに欠伸をした。目を擦る手つきが猫のようだ。
小窓から覗く夜明け前の空は仄赤く白けている。人間には辛い時間だろう。
ルジェは開いた扉に扉留めを咬ませると、少女と目を合わせないようにして正面へ腰掛けた。軍服の詰襟へ指をかけて軽く引き、呼吸を一つ楽にする。意図せず溜息がこぼれた。
数ヶ月前に支部からこの地へ運び込まれた人間――長らく意識不明だった少女が目覚めてみたら、精導士だった。それも始祖の精霊から数えて三代目という特上品だ。
この稀有な人材に喜んだ上層部は、本人の同意も待たずに軍属させる決定を下した。
あまり知られてはいないが、彼らの軍には人間だけで編成された小部隊がある。全員が精導士か高位の魔術師で、表向きの扱いは傭兵。実戦では使い物にならないものの、『精導士を所有している』というだけで、人間にはちょっとした牽制になっている。
その魔法使いたちの管理を任されているのが、ルジェの所属する部隊だ。本来は戦場で傭兵の指揮を執る上位組織なのだが、そちらの面で機能したことは一度もない。平生は人間の衣食住の手配をしたり、同族との摩擦を解消したり、やれ水道管が詰まっただの、電球が切れただので呼び出されたりしている。新入りの入軍審査もその一つだ。
「これより軍属手続きを始める。フェルネット・ブランカ、署名を」
「わかりましたわ」
少女はゆるく癖のついた髪をふわりとはらって、万年筆を受け取った。たおやかな手つきで流麗な文字を書く。良家の出とは聞いていないが、人間にしては学があるようだ。
ルジェは冷めた目つきで娘を観察し、必要な情報を書類へ書き込んだ。
『フェルネット・ブランカ。年齢十六、女、人間。肌:白 瞳:緑 髪色:金』……いや白か。海なる場所で産出されるという真珠の色合いに似ているが、そんな色の項目はない。迷った末、金色に印を打つ。昼間なら同族の目には白としか映らないだろうが、そんな細かいことは求められていないのだ。
「ねえ。こちらなんですけれど、担当さんの名前がなくてよろしいんですの?」
紙面の一部を指さしながら顔を覗き込まれる。彼は俯いたまま答えた。
「本官は仮担当にあたる。正式な担当官が決まり次第、そこへ署名するだろう」
「なら、貴方のことは『仮担当のお兄さん』って呼ぼうかしら。ずうっと『吸血鬼さん』って呼んでたら、皆が振り向いてしまいますものねぇ」
遠回しに名乗れと言われ、ルジェは顔を上げた。黒髪越しに鮮やかな緑の瞳と目が合う。
人間は彼ら同族の瞳を恐れるため、極力見ないようにしていたのだが――ぞっと悪寒が走ったのは、ルジェのほうだった。
なんだ、この女?
とっさに動きを止めた彼へ、少女の笑みがついと寄る。
「ねえお兄さん、お名前は?」
「……ルジェ、と」
「ルジェ。ふうん、いつもそう名乗ってるんだ」
ふふふと笑う、その含み笑いに見覚えがある気がした。明らかな初対面にもかかわらず。
「あら? フェルネの顔に何かついてまして?」
「いや」気のせいだと自分に言い聞かせ、ルジェは書類へ向き直った。
『顔の傷・痣等:なし 体形:小柄、痩せ型』――むしろ細い骨に薄い肉がくるんと巻きついていると言ったほうが正しい。子供じみた体形で、まったく『喰欲』をそそらない女だ――『身長及び体重は測定後、係の者が記入の事』
「出身はテア国でいいな?」
「ええ、東の森に住んでましたわ」
少女の答えに、機械的に文字を刻む手が止まった。指先で万年筆をくるりと回す。
「東の森? まさか、テアの極東に広がる『大森林』のことか? あそこは精霊の住まう土地。安易に踏み込めば正体をなくすはずだ。……と、聞いているが」
「その通りですの。里の人は入れないので、母が亡くなってからはずっと一人でしたわ」
「しかし、いくら精導士でも……いや、なんでもない」
反論を飲み込んでルジェは書類へ向き直った。これも血の成せる業なのだろう。
彼は懐から地図を取り出し、『大森林』もテアの一部だと確かめた。人間が勝手に引いた線など同族には関係ないのだが、埋めるべき欄がある以上、適当なことは書けない。
「では、テア国在住にもかかわらず、エン国の支部へ意識不明で運ばれた経緯は?」
その質問を口にした途端、フェルネットの小さな唇がツンと尖った。
「またその話ですの? 悪い人に攫われて、うるさくて長い乗物から河に落ちたって、何度も説明しましたでしょ? 病院でも聞かれたのに、なんにも伝わってないんですのね」
嫌味ったらしく語尾を強められても、ルジェは顔色を変えなかった。縦割り組織なのだから多少の重複は当然だと、そ知らぬ顔で要点を綴る。この場で必要なのは話の内容ではなく、彼女が質問に答えたという事実だ。事実はただ在ればいい。
ルジェは彼女から詳細を聞き、要約した。彼が黙々と手を動かす間、少女はじっと宙の一点を見つめていた。虫でもいるのかと視線の先を垣間見たが、何もない。おおよそ大気に遊ぶ小精霊の戯れ言にでも耳を傾けているのだろう。
「……この辺りの精霊は、総じて東のものよりも貧弱らしいな」
彼がなにげなく呟いた一言が、少女を妙にうろたえさせた。
「え? ……え、ええ。言われてみれば――そう、ですわね」
明瞭だった返答を妙に濁して、彼女は落ち着かなげに髪を撫でつけた。
ルジェは一瞬疑問に思ったものの、追求する必要もないと仕事へ戻った。
それから訊いては書くを繰り返し、最後の欄を埋め終わった頃には夜が明け始めていた。
「質問は以上だ。本日中に医務室で身体測定と採血を受けるように」
書類の束をそろえながら、ルジェは幾度となく繰り返してきた台詞を口にする。
「今後の生活は我々が支援する。法に触れぬ限りの自由と権利も保障しよう。しかし軍属である以上、有事の際には相応の働きを要請されること、くれぐれも忘れないように」
言いざまに席を立とうとして、緑の瞳が物言いたげに見上げていることに気づいた。
「……質問でも?」
「ええ。さっきからそこの子が訊けって煩くって」
細い指がルジェの右肩を示した。とっさに一瞥する。何もない。
「貴方たちは吸血鬼なのに、フェルネの血が欲しくないんですの? ここに来てから誰にも興味を持たれないのですけど……そんなに不味そうかしら」
いっそ不服げな言い様だった。まるでその台詞が、同族の間ではあからさまな『誘い文句』だと知っているかのように。
反射的に溜息をつきそうになるのを堪えて、ルジェは一枚の書類を少女へ差し出した。以前に誰かが説明したであろうその内容を淡々と噛み砕く。
「現在は採血機関によって『喰糧』の配給制度が確立されている。大半が前線へ送られるために都市部では潤沢とは言えないが、もはや我々が人間を襲う必要はない。それに苦痛の大きい直接摂取は、人間保護法で禁止されている」
「人間保護法?」
「『奪うな・襲うな・苦しませるな』。文字通り人間の心身を守るための規則だ。罰則が重いので、あえて反しようとする者はいない」
「絶対に? 全員が規則に従おうとする、善良なヒトばかりなのかしら?」
フェルネットが大げさに首を傾げた。目元が試すような色味を帯びている。
ルジェは煩わしさを顔に出す代わりに、靴底で床を三度叩いて軍帽の庇を上げた。黒髪の隙間から時に冷たいと言われる目元がのぞく。
薄い紫の眼が光にさらされ、瞳孔を縦に細く引き絞った。
「貴女はここがどこだと?」
一瞬、答えを待つような間があった。
「……吸血鬼のお城、かしら」
あながち外れてはいないと思いながら、ルジェは几帳面に訂正する。
「ここは極西総統領ヴァルツ。我らが同胞の集う唯一の都市だ。古くは吸血大公領とも呼ばれたが、貴族制が廃止されてからは軍の所有となっている。この建物も城ではなく、総統府という軍事施設だ。――先の質問は、ヴァルツが『どこに』在るかと聞いた」
「そんなの、西の荒野に決まってますわ」
「そうだ。そしてこの荒野で軍の援助なしに生きられるのは、魔物だけだ」
大陸の西、万年雪に閉ざされた大山脈群の先には、荒涼とした赤い大地が広がっている。昼は灼熱、夜は極寒。雨は降らず、緑は芽吹かない。地を掘れば湧くのは漆黒の毒油だけ。
それだけならまだいい。荒野から更に西、前人未到の地の果てからは、魔物が来るのだ。
この世で最も強靭にして醜悪な肉食動物――魔物。比類なき剛力と、強靭な骨を持つこの生き物は、動く物全てに襲いかかる。主食である人間はもちろんのこと、同族や、時には鋼鉄の機動車両にすら齧りつくこともあった。凶悪な本能のままにあるそれらを、人々は恐れを込めて『理なき者』と呼ぶ。
そんな荒野で生き残るために最適化された都市がヴァルツだ。高い円筒の外郭を真上から見れば、厳つい総統府の建物を中心に、十二の大通りが放射状に広がっているのがわかるだろう。巨大な時計に似た姿は、堅牢な守りと俊敏な迎撃に特化した結果だった。
「ヴァルツは小さな社会だ。食糧や水、血液を中心とした生活必需品は東からの輸入――即ち軍の配給に頼っている上に、鉱産物や香料などの主力産業も軍に属している。近年急成長した科学産業も軍の独壇場だ。必然、軍人ばかりが増える」
何度も魔物の大群に襲われる内に、彼らの社会は変化していった。生き延びるために最低限の規則を残して、身分や婚姻などの制度が抜け落ちていったのだ。
その穴を埋めるように軍は肥大化した。元は大公に仕える騎士の一団だったというその組織は、五十年前の革命を皮切りに、行政から司法、治安を吸収して、統制を一本化した。そうして得た強大な権限で『法』を定め、今日では日常のあらゆる場を支配している。
「領民の八割が軍事関係者の中で、軍が定めた『法』を犯せばどうなるか、想像ぐらいはつくだろう。ヴァルツの検挙率は公表では十割だが、実質もそれと大差ないぞ」
「つ、ま、り。ここの吸血鬼さんたちはこわーい軍さまの言うことを聞くイイコばっかりだから、フェルネを襲ったりはしない。と、言いたいのかしら?」
何も知らない子供の声色で首を傾げつつ、少女がなめきった目を向けてきた。
その口を縫いつけてやろうかと思いながら、ルジェは意識して無表情を保つ。
「簡単に言えばそうなる。まともな神経の同族なら人間を襲う前に配給血液を選ぶだろう。危険を冒してでも噛み付きたいと思わせるような魅力が貴方にあれば、話は別だが」
「あら、こんなに清らかな乙女に魅力がないとでも?」
どこが清らかだ。舌打ちしそうになるのを抑えて、ルジェは音もなく席を立った。
「他に質問がないなら失礼する。――ああ、その前に一つ忠告しておこう」見下ろす形で少女の鮮やかな緑の視線を掴み取る。「ここでは『吸血鬼』などと軽々しく口にしないことだ。我々は人間の血液を嗜むが、御伽噺の化け物とは根本的に違う。その呼び名を蔑称と受けとる者も多い……。精導士とはいえ、人間が我々を逆上させればどうなるか――」
「あら、その時は偉い法律さまが助けてくれるんじゃありませんの?」
少女は彼の眼をまっすぐに見つめて、含みのある笑みを崩さなかった。彼らの猫のような瞳は人間を本能的に恐怖させるというのに、豪胆な娘だ。思えば、初めから少女には怯えがない。妙になめられていると感じるのはそのせいだろうか。
「この地では誰もが自制を求められる」ルジェは慎重に言葉を選んだ。「裏を返せば、それだけ抑圧されているのだから、ふとした切欠で爆発するかもしれない。覚えておけ、人間保護法では『一瞬の死』は『苦痛』よりも扱いが軽い。……身の振る舞いには重々気をつけることだ。若い身空で人生を棒に振る必要はない」
「まあ。優しいことも言えたんですのね」
「事後処理に駆け回るのはウチだからな。本担当が決まるまでは大人しくしてもらいたい」
間髪いれず、少女がにやっと、悪巧みを思いついた少年のような笑みを浮かべた。
「じゃあ、今フェルネに何かあったら、ルジェが助けなきゃいけないってことかしら?」
いい加減この笑みに慣れてきた彼はさらりと受け流す。
「残念ながら今日はもう終業だ。何があろうと始業までは放置させてもらう」
「それって職務怠慢なんじゃないですの?」
「なんとでも」と呟いて肩をすくめてみせる。それが仕事というものだからしょうがない。明日になれば始業と共に本担当が決まるだろう。そうなれば、ルジェは晴れてお役御免だ。
その時、開け放しの扉を誰かがコンコンと叩いた。控えめな呼びかけが続く。
「中尉殿。少々お時間を頂きたくあります」
彼と同い年ほどに見える青年が戸口を覗き込んでいた。同じ部署の後輩だ。前線から戻ってきたばかりで、未だに前線言葉が抜けていない。二十歳前だというから、まだまだ戦いたい盛りなのかもしれないが、中央では若干耳に障る。
「――では、本日はこれにて」言い置いて、ルジェは少女と別れた。
廊下へ出ると、後輩が素早く扉を閉めて耳打ちした。
「お父上がお呼びであります」
ルジェの眉間に皺が寄り、舌打ちが響く。即座に後輩へ書類の束を押しつけた。
「……把握した。俺は上へ向かう。お前はこの書類を隊長へ渡しておいてくれ」
「了解いたしました!」
後輩が背筋を伸ばして敬礼したとき、彼の持つ紙束から一枚の紙が抜け落ちた。
慌てて拾おうと腰を屈めた青年の頭上で、ひゅるりと風の舞うような音が鳴る。無気音だけで構成された簡易魔法の呪文だ。
重力に逆らって紙が舞い上がり、紙束へ吸い込まれた。
目を瞬かせる後輩に背を向けて、ルジェはゆったりと歩き出す。
魔法使いのほとんどいない同族にも、ごく稀に魔法の才を持つ者がいる。けれど彼らの魔力は少量で、人間の魔術師にも遠く及ばない。ゆえに彼らは魔術の才能を磨くより、剣や他の武器を極める。手品に毛が生えた程度の魔法では、魔物に歯が立たないからだ。
だから士官学校で魔術を専攻したような考え無しは、ほとんど文官のような事務仕事へ回される。例えば、ルジェのように。