亡村の影4
夜になっても雨は止まなかった。
ルジェは黒眼鏡を窓辺に置き、分厚い窓硝子の向こうの歪んだ磔台を眺めた。群雲の中でも彼の目には炭化した木材がはっきりと見える。けれど風向きの変わった雨が窓硝子に打ちつけ、全てが黒く滲んでしまった。
「ん……」傍らの寝台でラトゥールが寝返りを打った。その周りには豊かな金髪が広がっている。雨音に紛れて穏やかな寝息が聞こえた。
この狭く簡素な部屋は、かつてルイ‐レミィが使っていたものらしい。あちこちにある小さな傷がその名残だろう。ルジェが手を置く窓枠にも子供のものと思われる爪跡がついていた。心なしにその傷を撫でていると、ふわりと真珠色の光が寄ってきた。
〔ルジェ、ちょっとお話ししましょう〕
眠らないフェルネットは夜をルジェと話す時間だと思っている。見張りの片手間に話し相手をしているうちに、異様に懐かれてしまったのだ。しかし今日のルジェはあまり相手をしたくなかった。面倒くさい気分をそのまま視線に乗せて睨んでみる。
けれどフェルネットは全く怖じけなかった。生真面目な顔で窓枠に腰掛けている。実際はその位置に浮いているだけなのだが、元が人間の彼女はそうすると落ち着くらしい。
〔さっきのルジェ、変でした。どうしたんですか? いつものルジェらしくないです〕
その諭すような口ぶりが、消えかけていたルジェの苛立ちを煽った。
「俺らしい?」きつく眉をしかめる。「俺らしいってなんだよ、お前に何がわかる」
〔わからないけど、わかります。さっきのルジェはなんていうか……わがままでした。ルジェはいつも、もっと――〕フェルネットは言葉を探してもがく。〔もっと、ちゃんと向きあって話をしてくれます〕
「それは……」中途半端に外面がいいだけだ。
そう言い返そうとする前に、フェルネットがたたみかけた。
〔ルジェはいつも真っ直ぐなことを言います。きついことも言うけど、それもよく考えると必要なことで。それって相手のことをきちんと考えてないと言えないと思うんです〕彼女はふわりと花のように笑った。〔だからずっと、すごいなぁって思ってました。優しい人なんだなって〕
「ちが……っ」否定が喉の奥で絡まった。同時に遠く聞こえる、母の声。
『あなたのお父さんはね、とても優しい人だったの』
幼い頃、たった一度だけ告げられた言葉。弱いくせに負けん気が強く、いつも生傷が絶えなかった彼へ、母が初めて語った父親に関するものだった。
『あなたにも、そんな人になって欲しいの』
幼心に何の疑いもなく受け入れていた願い。それが惚れた女の妄言だったと気づいたのは、父の名とその所業を知ったときだった。
「……違う。俺はそんな奴じゃない」
今だって、こんなにもお前を欺いているじゃないか。
重い断言をフェルネットは軽やかに覆した。
〔ほら、そうやってちゃんと注意してくれる〕彼女は無防備に微笑む。〔大丈夫、ルジェが言うことすることつれないのはわかってますから〕
ルジェはとっさに返す言葉に詰まった。何から否定しようかと考えて、どれもこの少女には通じないのではないかと思う。ここまで好意的に解釈されているとは思ってもみなかった。もう真実を話す以外に彼女の目を覚まさせることはできないのではないか。
そもそもフェルネットは疑うことを知らなさすぎる。人生の先達として手酷い目に遭う前にどうにかしてやりたいのだが、その手酷いことをしているのはルジェ本人だ。全くもってふざけている。ふざけたうえに胃まで痛いとは何事か。
彼が呆れと虚脱感の混じった複雑な沈黙から回復する前に、ふっと少女の顔が曇った。
〔……でも、さっきのルジェは変でした。まるでマルタンさんじゃなくて、他の誰かに話してるみたいで……。声も怖かったし〕
図星の一言だった。
ルジェはマルタンの話と自分の過去を重ね合わせていた。フェルネットが我侭と感じたのは、彼の主張が自分の経験に寄り添っていたからだ。普段ならこんな真似は絶対にしないはずなのに、ルイ‐レミィの件と様々な事象が重なって、手ひどい言い方になっていた。
苦く口を噤んだ彼を見て、フェルネットははっと我に返った。
〔ごめんなさい、お説教したかったんじゃないんです。ルジェの様子がおかしかったから、わたし、心配で……〕
おろおろと頭を下げられて、ルジェは小さく溜息をつく。彼は腹を括った。
「……わかった、俺が悪かった」額に頭を当てて呟く。「いくつか気になることがあって……それで、苛ついてたんだ」
〔気になること、ですか?〕フェルネットがきょとんと緑の目を瞬かせた。
「俺も子供の頃、目の前で母親を殺されてるからな。昔の自分と重なったんだろう」
フェルネットが大きな目を瞠った。そんな顔をするな、と言いたくなるほどに。
◆
ルジェはヴァルツの最下層で生まれた。
母は娼婦だった。もとは軍の関係者だったが、ルイ‐レミィが軍に殺されたのを知るや、大きな腹を抱えて非合法の娼館へ逃げ込んだという。一人の女が軍に抗うには、ヴァルツの闇に紛れる他なかったのだ。名と姿を変え、身体を売って隠れ続けた生活は、それでも十年しかもたなかった。
母を殺したのは前総統の密命を受けた軍人だった。抵抗した母をいとも簡単に斬りつけ、少年だったルジェを散々に痛めつけた後、攫った。
前総統のもとへつれられていく間の記憶は曖昧だ。二人の大人に挟まれながら、彼らの軍服に付いた母の血の痕を見つめ続けていたことだけは覚えている。
ルジェの記憶は、総統執務室の扉が開いた瞬間から鮮やかに色づく。
むせ返るような血の臭いと、一面の血の海。扉脇に転がっていた生首は、銅像や張り紙で街のいたるところにある顔だった。
ヴァルツの頂点に君臨していた男の四肢が、バラバラになって床を転がっていた。
「お仕事ご苦労様。でも残念だけど、そんな命令を下した男はもう、いないんだ」
キィ、と正面奥にある執務椅子が鳴ってこちらを向いた。
その椅子には銀髪の少年が優雅に足を組んで座っていた。にこやかに微笑みを浮かべる顔は恐ろしいほど整っている。十歳のルジェとそう変わらなく見えるが、軍服を着ているから大人なんだろう。その両手は真っ赤な鮮血に染まっていた。
ルジェの両脇を固めていた軍人たちが動揺した。一瞬の隙を突き、掴まれた両腕を振り払う。がむしゃらに殴りかったものの、相手は軍人。すぐに押さえ込まれ、勢いで喉を掴まれそうになった。大人の力で勢いよく掴まれれば、簡単に首がつぶれるだろう。
思わず目を閉じた。
けれど、その手はいつまで経っても届かない。
恐る恐る目を開けると、二人の軍人はいなかった。正確には、彼らもまた引き裂かれて床を転がっていたのだ。まるで操り人形の糸を四方から同時に引っ張ったかのように、きれいに分解されていた。
ルジェの目の前には銀髪の少年が立っていた。
「ふうん」少年はつまらなそうな顔でルジェの頬に付いた血をぬぐい、ぺろりと舐めた。「総統就任後、初の謁見者が『この顔』とはね」
皮肉げに笑う、その美しい顔に殴りかかろうとして、ルジェは軽く床へ転がされた。全身が血に染まる。すぐさま起き上がり、もう一度殴りかかった。
「テメェ、なんで殺しやがった!? あいつらはオレが殺すんだ!」
片手で簡単に受け止められて、もう一度転がされる。今度は上から背中を踏まれ、起き上がれなくなった。
少年は鼻で笑ってルジェを見下した。
「君の事情なんか知らないよ。僕は僕のしたいようにしただけだもの」
「あいつらは母さんにッ――したんだ! オレが、オレがこの手で殺してやる!!」肺を押さえつけられながら、ルジェは切れ切れに叫んだ。
目の前に転がるバラバラ死体が許せなかった。こいつらだけは絶対に殺す、そう心に決めてここまでついてきたのだ。それをこんなにもあっさりと殺してしまった少年が憎い。軍人なんて大嫌いだ。死ね。全部死ね。死してなおいたぶられた母のように!
わめき続けるルジェを少年が蹴り飛ばした。本人は軽く転がしたつもりのようだが、ルジェは背中を壁に強か打って呻いた。
「まったく。よく吼える仔犬だなぁ、殺っちゃったものはしょうがないでしょ。大体、君の親の仇なんて軍には五万と……」そこで少年は何かに気づき、にやぁっと嫌らしく笑った。「――いたんだから、二人ぐらいで騒ぐことないでしょ。あーあ。本当なら感謝されてもいいはずなのに、なんだか可愛くない子だなぁー」
少年はうんざりと言って肩を揉み解した。それからふと、意外げにルジェを見下ろす。
「……っ、かあさっ……!」
「泣いてるの? もう、しょうがないんだから」
少年は緊張感のない足取りで歩み寄り、ルジェの傍らにしゃがみ込んだ。
母を呼び続けるルジェの頭に、血まみれの手が乗った。
「悲しめるなら泣いておあげよ。そのほうがずっと建設的だ。――復讐なんかよりね」
他人事のように呟いて、少年はルジェの頭をなでた。
たとえ彼が実父を殺めていても、その手は温かかったのだ。




