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亡村の影3

 ルジェの捕った鳥はマルタンへの手土産になった。

 傾いだ壁を補強した質素な家は、中のほとんどが工房だった。土間には大きな炉が置かれ、内部は真っ赤に焼けている。打ちかけの鉄と金槌、桶に入った水、あとはよくわからない古い器具。こうした昔ながらの製法で作られる剣は、ヴァルツの鋳型抜きの剣よりも硬くしなやかだと、ルジェは書物で読んだことがあった。


 マルタンは鳥を軽く火であぶって羽を焼くと、見事な手つきで捌き、吊るして血抜きをした。刀剣工なだけあって、包丁も磨きぬかれた良いものだった。


 彼が作業をしているうちに、ルジェは寝室でラトゥールを着替えさせた。耳元でフェルネットがぎゃあぎゃあ騒ぐのに耐えつつ、こんな平坦な体で何を恥じることがあるのかと思う。無駄に曲線的な同族の女を見慣れているせいか、少年のようにしか見えなかった。


 ラトゥールを寝かせて戻ると、マルタンは焼いた肉と酒瓶を机に置いていた。おそらく大麦の蒸留酒だ。香りは強いが、人間用に薄めてあるので酔いはしないだろう。


 ルジェは古そうな木の椅子に腰掛ける。足が一本短くて不安定だった。傍らではフェルネットが小さな手で顔を覆って〔もうお嫁に行けない……〕と項垂れている。


 マルタンが正面に座ると机全体が軋んだ。ルジェへ酒を注ぎながら、彼は静かに言った。


「お前さんみたいな客は昔から稀に来ていた。大抵は、ルイ‐レミィの昔話を聞きに」

「昔話?」ルジェは酒を一口含む。「なぜ?」

「彼はこの村の出身だった」


 ルジェの手が止まった。


〔たしかルイ‐レミィさんって、ルジェの本当のお父さんですよね?〕フェルネットが心配げに見上げてくる。ラトゥールにでも聞いたのだろう。


 マルタンは淡々と告げた。


 ルイ‐レミィは村外れの小さな家に住む娘の元で生まれたという。赤子の頃から外には一切出されず、村人にも存在を知られていなかった。彼が二歳になる頃、母親は理解ある男の家に嫁いで、そこで弟を産んだ。


「それがわたしだ。兄とわたしはこの家で育った」

 ルジェが小さく息を飲む。「だが、あんたは……」

「両親とも人間だ。兄は、母が吸血鬼に襲われた際にできた子供だった」


 今度はフェルネットがはっきりと息を飲んだ。


 昔はそういうことがよくあったのだ、とマルタンは語った。事実、地方勤務者が人間に手を出すことはある。主な被害は直接摂取だが、その行為は彼らにとって情事にも等しい。気が盛って人間と、ということもあるかもしれない。そいつが本当の下種ならば。

 ルジェは冷たくも見える無表情で、じっと相手の言葉を待った。


「お前さんがたと同じように、兄の顔立ちは美しかった。いつも寂しげに微笑んで、長いまつげを伏せていた。自分の瞳がわたしたちを怯えさせるからと、気を遣ってくれていたんだな。その穏やかな横顔を眺めるのがわたしは好きだった。いつもそこから……」と、ちょうどルジェの背後にある窓辺を指さして、すっと炉の方へ指を向ける。「炉の前で仕事をする父の背中を、一人で見ていた」


「これを?」ルジェは片眉を上げて炉を見た。炉の穴からは紅く焼けた光がこぼれている。黒眼鏡がなければ、ルジェにはそちらを向くことすらできなかっただろう。


 マルタンは悲しげに頷く。「きっと、父を手伝いたかったんだろう」


 この家に黒眼鏡を買い与えるような余裕があったとは思えない。ルイ‐レミィはずっと裸眼でこの光に耐えてきたのだ。力だけなら簡単に父の仕事を手伝えるはずなのに、それが出来ないもどかしさと戦いながら。


 ルジェの杯に酒を足し、マルタンはぼそりと呟いた。「兄は心の優しい人だった」


 瞬間、遠い記憶が甦り、ルジェはとっさに身を硬くした。『あなたのお父さんはね――』憂いを帯びた母の言葉。『――とても優しい人だったの』


 違う。忘れろ。


 視線を落とすと、机に座り込むようにして彼を見上げているフェルネットと目があった。その透明な甘藍石の瞳に内心を見透かされている気がして、目を逸らす。

 そんな彼の様子には気づかず、マルタンは朴訥と続けた。


「兄はほとんど家から出られないにもかかわらず、心倦むことなく母を愛し、父を敬い、わたしを思いやってくれていた。家族の誰かが風邪をひけば、夜のうちに二山も向こうの薬草を泥だらけになって探してきたし、わたしが山で迷ったときには誰よりも早く駆けつけてくれた。わたしを捜している大人たちに見つかれば、自分のほうが危うかったというのに……。泣き続けるわたしに母の好きな輪鋒菊の花を差し出し、『母さんに渡すまで泣くのは我慢だよ』と笑って、麓まで背負ってくれた」


 その背は温かかった、と彼は息を吐くように言った。


「ある日、兄が本当は父の後を継ぎたかったが、瞳のせいで諦めたと言い出した。わたしが炉の番をするから兄が打てばいいと答えると、兄は心から嬉しそうに笑った。わたしの頭を撫で、『おまえはきっと一人でも立派な刀剣工になれるから、おれは他のことをするよ』と寂しそうに微笑んだ目元をよく覚えているよ。その次の日、兄は見知らぬ男に連れられて村を出た。そこから先はお前さんがたのほうが詳しいだろう」


「よくご存知で」ルジェが肩をすくめた。


「二十年ほど前から、西からの客が来るようになった。男女を問わず、えらく別嬪ばかりでな。盲人のふりをしていた者もいたが、わたしにはすぐに兄の同類だとわかったよ」


「現政権になってルイ‐レミィの評価が転換したからな」皮肉げに呟いて、ルジェは酒に口をつけた。「どうせ、彼に心酔した者が聖地巡礼のごとくやってきたんだろう」


「彼らは遠巻きに村を眺めるだけだったが、わたしがルイ‐レミィの弟だと知ると好意的に接してくれた。皆礼儀正しく、紳士的で、噂に聞く吸血鬼と同じものとは思えなかった。お前さんは……」そこでマルタンは一度言葉を句切り、視線を宙へ彷徨わせた。


 ルジェが不思議に思って眉を寄せると、相手は口元を抑えて小さく首を振った。


「いや、これまでの客に比べて静かだと……思ってな。いつもこちらが口を挟む隙もないぐらい、立て続けに兄の武勇伝を話されたものだから」

「黙ってたほうがいいこともある」静かに言い、ルジェは酒杯をなめた。


 同族は基本的に饒舌だ。彼らは長い間、話術で人間を翻弄し、狩ってきた。ルジェもその気になれば早口言葉くらいはできたが、ルイ‐レミィのことはろくに知らないし、自分のことは言いたくもないから、語るべきことがないだけだ。

 マルタンは彼の言葉に何を思ったか、深く感銘を受けた様子で頷いた。


「そうだな、余計なことを言った。……どうも、今日はよく舌が回るようだ」

「いい酒だからな」さらりと酒を呷る。焦がし樽の香りがしっかりとついた蒸留酒はルジェの口に良く合った。ヴァルツの酒精の強い酒より、こういった香味重視のほうが旨い。


 マルタンはしばしの間目を細めてルジェを眺めていたが、「ああ……。本当に、よい酒だ」と自分も実に旨そうに呑んだ。


 つられて酒に口をつけてから、ルジェはやっとこの程度の酒ならこの地では決して高くはないはずだと思い至った。それでもマルタンは心の底から旨そうに、ちびりちびりと酒をなめている。その飲み方がルジェは気に入った。同期と呑むとキツい酒を浴びるほど呑まされるが、もともとルジェは一人で嗜む程度に呑むのが好きだった。こうして酔う手前のところで少しずつ酒をつぎ足していくと、自分の体を上手く乗りこなせている気がする。


 しばし穏やかに酒を酌み交わした後、マルタンは酷く真剣な様子で語り出した。


「二十年ほど前、村に美しい女吸血鬼がやってきた」語る声は低い。「彼女は熱心な兄の信奉者だった。何度も来るうちに村の若者と恋に落ちてな。盲目と偽って嫁いできた」

〔結婚したんですか!?〕それまで大人しく話を聞いていたフェルネットが、突然身を乗り出した。胸の前で手を組合わせ、〔そんなことできるんだぁ〕と目を輝かせている。


 結婚という耳慣れない単語に、ルジェは目を瞬かせてマルタンを見た。


「……というと、肉体関係をもったうえに同棲までしていたと? 人間と?」

「有体に言えばそうなるか」苦笑してマルタンは続ける。「彼らは幸せな家庭を築いた」


 夫婦はたまにしか姿を見せないとはいえ人柄もよく、人付き合いにも不審な点はなかった、とマルタンは述べた。彼は女の正体を知っていたが、黙って見守っていた、と。


「その年は作物が不作だったうえ、近くの村で疫病が流行ったということもあって、村全体が不安に包まれていた。そんな中、村の若者が坑道の奥で死んでいるのが見つかった。首を引き抜き、四肢を八つ裂きにされていた。明らかに人や獣の仕業ではなかった」

「魔物か?」


「遺体には一滴の血も残されていなかった」決まり悪げにマルタンは続けた。「この付近は昔から魔物より吸血鬼の被害のほうが多かった。人死にはおろか、山で子供が遭難しても吸血鬼の仕業と考えたんだ。わたしの母も……若くして不本意に兄を身籠っている」


 ルジェは頭の中でこの付近の地図を展開する。確かに支部が近い。同族によって魔物の討伐が成されてきた一方で、歴史的にそういったことが繰り返されてきたのは事実だろう。昨今は規律が厳しくなるばかりだが、昔は地方官吏はやりたい放題だったと聞く。


 頷いて異論がないことを示すと、マルタンは少し安心したように頬の力を抜いた。だがすぐに強ばった表情へ戻る。


「……人々ははじめに、村はずれにいつからかあった墓に目をつけた。あれが吸血鬼の住処ではないかと疑ったんだ。村人総出で墓を暴き、骨は二度焼かれた後に谷へ捨てられた」

〔どうしてそんな……〕フェルネットが悲しげに呟いた。

「昔話の吸血鬼と混同したのか。墓場に住み、棺で眠るという、くだらない作り話を」

「ああ。だがすぐに二人目の犠牲者が出た。村人はついに、彼女たち一家に目をつけた」


 マルタンが拳を握りしめる。その顔には苦渋が浮かんでいた。

 責める口調にならないよう、ルジェは冷静に口を動かした。


「人間が狂乱して我々を血祭りにあげるのはよくある話だ。だが、その女が一人で村を壊滅させたとは思えない。ここまでの破壊行為は常軌を逸している」

「彼女ではない。わたしたちも吸血鬼の対処は心得ている。村人たちは彼女を油断させて毒を飲ませ、磔にして心臓に杭を打った。夫も同様に。二人はすぐに死んだ」


 なるほど……。ルジェはなんとなく酒杯を机に戻した。もちろんおかしなところはない。だが同族が騙されるというのだから、無味無臭かつ即効性の劇薬なんだろう。

 薄ら寒い思いをしたのはフェルネットも同じのようで、そそと寄ってきた。


「彼女には幼い子供がいた」


 低い呟きに、ぴたりとルジェの動きが止まった。


 それに気づかずマルタンは続ける。「子供が吸血鬼の特徴を持っていると見るや、村人は同様に磔にして、心臓に杭を打血つけた。伝承では吸血鬼はそれで死ぬ。事実母親はそれで死んだ。にもかかわらず、その子供は死ななかった。何日も泣き叫び、生き続けた」


 〔ああ〕と溜息のような切ない声がフェルネットから零れた。


「その間も人々は子供を罵り、唾を吐きつけて、石をぶつけた。近づこうとする者は一人もいなかった。鎖を解こうとする者も……。そうして十日目に、火を放つことが決まった」


 ルジェは目を閉じて細く息をついた。口の中がひどく乾いていた。

 窓からのぞく焼け焦げた磔台がどうしようもなく彼の心を乱す。目の前で母を失った子供。その姿が遠いあの日と重なった。


〔ルジェ。大丈夫ですか、顔色が……〕


 下からフェルネットが覗き込んでいた。心配そうに見上げる顔は、ルイ‐レミィの話を聞いていたときよりもずっと真に迫っている。


 小さく首を振って応え、ルジェは彼女を安心させた。


 マルタンは組んだ手に額を押し当てていた。その手は震えている。「村の男たちが子供を取り囲んで火矢を射かけた。子供が炎に包まれた時、低い声が響いた。『幼子一人にここまでするか……生かせば見過ごしたものを』」呪詛のような呟きだった。


「『残念だ』、と」


 次の瞬間、広場を囲んでいた家々が一つ、また一つと吹き飛んだ、と彼は言った。目にも留まらぬ速さで何者かが人々を放り投げ、四肢を引きちぎっては頭を潰したのだと。


「一瞬だった。本当に一瞬で、この村は壊滅した」


 その声は震えていた。手を当てる額には脂汗が滲んでいる。


「わたしは倒壊した家の下敷きになって難を逃れた。這い出したときに見えたのは、親しい者たちの亡骸と、吸血鬼の子供を抱えて去っていく巨大な魔物の後ろ姿だった」

「魔物……?」ルジェが呆然と呟く。「魔物が喋った? ばかな。魔物は言葉を解さない」

 マルタンは静かに首を振った。「わたしには見たものしか語れない」

「だがっ」無意識に語気を荒げ、ルジェは慌てて自分を制した。落ち着け、これ以上は動揺するな。マルタンが嘘をつく必要などないと、わかりきっているではないか。


 マルタンは酒を口に含み、しばし黙考した。「……一人で剣を打っているとな、あの時、自分がどうすべきだったのかを考える。人として、兄の弟として、何を為すべきだったのか。……わたしには、妻と娘のために黙ることしかできなかった」


 フェルネットがマルタンへ何か言葉をかけようとして、やめた。声が届かないからではなく、慰めても無駄だという気配が彼の周りに滲んでいたからだろう。

 ルジェには慰めるつもりはなかった。代わりに酒杯に口をつけて淡々と問いかける。


「あんたがこの村に残ってるのは後悔からか? それとも誰かを待ってるのか?」

「……あの子供にはまだ息があった。生きているなら、いつかは帰ってくるかもしれない」

「その時にもこうやって昔話をして謝り倒すつもりか? そんな言葉が通じると?」押し殺したはずの感情が端々に滲み出していた。

「身勝手だと思うか?」

「ああ」真っ直ぐに問いかけられて、ルジェは反射的に睨み返していた。「それで命の一つでも差し出して満足するつもりなら、代わりに俺が一発殴って、ここから叩き出してやる。断罪を待ってるのはさぞや気が楽だろうが、さっさと諦めてやれよ」

〔ルジェ?〕フェルネットが怪訝そうに彼をうかがった。


 ルジェは話すうちに感情が抑えきれなくなっていた。相手へ正面から苛立ちをぶつける。


「本当にその子供のことを思うなら、こんな場所、いっそ誰もいないほういい。憎いものを叩き潰した奴はなんであれ、そいつにとっては英雄だ。それで終わりでいいじゃないか。あんたは自分のくだらない感傷で、その英雄の所業にケチをつけているにすぎないんだよ」

「しかし……」

「俺たちには人間を殺すなんて簡単なんだ」その気になればな、とルジェは皮肉げに笑う。「あんたが今生きてるってことは、誰もあんたを恨んじゃいないってことの証でもある。……せっかく拾った命なんだ、全部忘れて生き直したほうが賢明だと思うがね」


 がっと一息で酒を呷り、杯を机に叩き付けて彼は席を立った。

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