▼標的1・狂愛の母4
裏手に回ると、ピルラちゃんの影も形もなかった。
赤い大岩が組まれた屋敷の壁面を見ていくと、壁と斜面の間にある岩の足下が抉れているのに気づいた。二人掛りで動かせば、中からむあっと生臭い匂いが。この甘ったるい腐敗臭にエグさを足したような臭いには覚えがある。あーこれは嫌な予感だぞう。
岩の向こうから現れた真っ暗な人間式の階段を眺めて、リダーが呟いた。
「……ここで何も見なかったことにして帰るなんて、できませんよね?」
「どっちにしろ相手は甲種だぞ。ルモルトンも、ウチの連隊長も」さらっと脅してみたものの、ぶっちゃけ俺としてもこいつが居ないほうが助かる。どうせこいつの資質じゃ一通り覚えたら内勤になるんだろうし、無理して危ない目に遭わせなくてもいいか。「よし、お前はここで待ってろ。十分経っても戻らなかったらジープの無線で救援を呼べ」
情けない顔でうろたえるリダーを置いて、俺はちょこまかとした階段を下りていった。人間式とはいえ同族のために作られた階段はめちゃくちゃ急で、手すりもない。落ちたら下まで一直線だ。絶対に踏み外さないように、かつ足音を立てないように、つま先へ全神経を集中させて降りていくと、階下から鈴を転がすような少女の笑い声が響いてきた。
「今日は素敵なお友達ができましたのよ」吐息のひとつまで上品さの行き届いた幼い声に、妙な色気があった。「もう、あなたったら。私のお話をお聞き遊ばして?」
答える声はない。キィ、と金属が軋む音がするだけだ。
俺は慎重に階下へ降りた。鉄の扉へ張り付いて、耳をそばだてる。
聞こえるのはピルラ・ルモルトンの声と、心音が二つ。音の反響から小さな部屋だと推測できる。笑い声のする中央辺りにピルラがいるんだろう。もう一人はじっと動かず、声も立てない。代わりに部屋のあちこちでカチャカチャと金擦れの音がした。
……誰だ? この館に居住登録されているのは二人だ。もし三人目がいるとしたら、そいつは血液の配給を受けずに生きていることになる。
俺が眉根を寄せたとき、扉の向こうでうめき声がした。酷く衰弱した老人のような。
さらに耳を澄ませようと目を閉じた瞬間、遠い背後でカカンッと硬い音が鳴った。
「せんぱ、助けっ――!」
振り向けば、上からリダーが降ってきていた。小柄とはいえ野郎の体が急な階段に引っ掛かるはずもなく、奴は二、三度身を打ちつけて俺の頭上に――落ちたところを、引っ掴んで受け止める。「ほんと鈍くさいな、リダー君はっ!」
呆れる間もなく上からもう一度カカンッという音がして、俺の背筋が凍りついた。
即座にリダーをつれて部屋の中へ飛び込む。
盾代わりに閉じた鉄扉が一瞬後にぐにゃりと歪んで吹っ飛んだ。その向こうから現れたネグリジェ姿の貴婦人の手には、無残に折れ曲がった杖が握られている。
「……本当によいお鼻をお持ちのようですね、ロイ執行大佐」
「お褒めに預かり光栄であります、ラルテ・ルモルトン中将殿。つきましては――主人である貴女に、これをご説明願えますでしょうか」
引きつった愛想笑いで俺が手を差し向けた先には、一匹の魔物がいた。猿轡を噛まされた口元を残して、全身を分厚い鎖帷子に包まれている。その上から何重にも巻きつけられた鎖は四方八方へと伸び、それを宙に縫いとめていた。
魔物は身動きできないながら全力で抵抗しているようで、鎖がキイキイと軋みあがっている。猿轡からは時折枯れた唸り声のようなものが零れていた。
その鎖を愛おしげに撫でながら魔物にしな垂れかかっているのは、金髪の美少女。
……OK、面白い。
薄く笑って呼吸を整える。室内は生臭く、息をするだけで吐きそうだ。それすら気にならないほど集中し、俺は右手に剣、左手にはリダーを掴んでラルテ女史を見据えた。
彼女は四十五度に曲がった鉄杖を投げ捨て、恐ろしいほどの無表情で告げた。
「貴方に教えることは何もありません」
「――良いではございませんの、ラルテ」柔らかくも有無を言わせぬ語調で、少女が母親を呼び捨てにした。優雅にネグリジェの裾を持ち上げる。「改めてお目に掛かりますわ。私はこの家の当主、マルム・ルモルトンと申します。こちらは恋人のアラン。素敵な殿方で遊ばしましょう? ほほほ」
お上品に小首を傾げて、愛らしい口元へ小さな手を添える。今時じゃあ劇場でしかお目にかかれないくらい、古めかしくも洗練された所作だ。あどけない少女の姿でこの仕草にこの口調――いやあ、鳥肌が立つね。
先代のマルム・ルモルトン大公は、生きていれば齢八十をこえる大老嬢だ。六十以上の同族がまずいない中で、珍無類の長寿にあたる。
「これはこれは……。ここまで若返った例は初めて窺います。見事な『崩我』だ」
俺の慇懃な言い回しに、ラルテ女史の目元がついと細まった。
崩我ってのは、自我の崩壊に伴う肉体の急激な変化のことだ。大幅に若返るのも典型的な症状だけど、ピルラ、いやマルムの場合、かなり重症だな。
俺たちの仕事はその崩我がどの程度か見極めること、なんだけど。
俺に支えられるようにして立っていたリダーが掠れた声で囁いた。
「個人による魔物の所有は、ヴァルツ大憲法第二三五条に違反……ですよね?」
「そうだ。……チッ、審判も何もあったもんじゃねぇな。普通に犯罪じゃねぇか」
あーあと盛大にため息をつく俺の袖を、リダーがぎこちなく引っ張った。
「いや、ですから、常識的に考えて、これはどう見ても……」
「警邏の範疇だ。――ご婦人がた。ヴァルツ領民の義務に則り、あなた方の行いは速やかに警邏隊へ報告いたします。よろしいですね?」
「させはしない、と申しましたら?」口元を手で隠し、マルムが軽やかに笑う。
「する、と申し上げているんですが。我々の任務はあなた方に法を犯させないためにあるんです。すでに犯してしまったなら、相応の罰を受けるべきでしょう」
苦々しく顔を歪める俺を、マルムは首を傾げて見やった。瞳に浮かんでいるのは、侮蔑。
「わたくしの言葉が通じていないようですわね。『殺す』と申しているのです」
「でしょうね、よく言われます」
俺は歯を見せて笑い返した。本当によく言われるんだよ、この陳腐な台詞。
マルムが小さな手をすっと俺へ差し向けた。
「ラルテ」
「御意にございます、母上」
カツンとラルテの義足が床を叩いた。軽い一歩で目前まで距離を詰められる。
義足が顔面を狙うのを、上体を捻って躱した。後ろにくっついていたリダーがすっ転ぶのを、腕一本でつり上げる。
「ごめん、リダー君!」そのまま床スレスレを投げ転がした。ラルテの軸足を狙って。
うひゃあと情けない声をあげるリダーを、ラルテは頭上の鎖を掴んで飛び避けた。片手で鎖に捕まりながら、踵落としの要領で鉄棒を俺へ食らわせる。
とっさに飛び退ったら壁だった。鼻先を義足が通り過ぎていく。やっべぇ、狭すぎる。慌てて剣を横薙ぎに払ったが、ひらりと鎖の上に逃げられた。くそっ、部屋が狭いうえに鎖が縦横に張られてて、やたらめったら剣を振り回せねぇ。
相手が武器を持ってなくて助かった、と思う間もなく、ラルテが太股に隠し持っていた小刀を投げてきた。この至近距離で、頭上から。
逃げる余裕はなかった。剣で二つ弾き、三つめに頬を切られる。四つめが額を狙うのを、膝をくず折って避けた。は、いいが、仰向けに倒れちゃ次が出遅れる。
ラルテが鎖から飛び降りた。義足が俺の腹を貫こうとする。
間一髪、床を転がって避けた。石床に突き刺さった義足を抜かれる前に、寝転がったまま体をねじって、横から蹴りつける。
太い鉄棒が付け根から吹っ飛んで、ラルテが短く呻いた。だが俺が立ち上がったのを見るや、血が滴る接合部を地につけて、逆の脚で足払いをかけてきた。
俺は背後へ宙返りして彼女から距離をとった。このまま一端体勢を立て直して――
「ロイ先輩!」
その時、わざわざ出口へ投げ込んでやったリダーの声がした。奴は扉のすぐ横で、へっぴり腰で剣を構えて……ああ、ダメだこりゃ。足元ガクガクしてんじゃん。
「バカ! なんで逃げなかった!」
「だって置いてったら先輩、死んじゃうじゃないですか!」
自信満々に言い切られて、俺は絶句した。いやそこは救援を呼ぶだとか、戦略的撤退だとか、もっと前向きに言うとこだろ。確かに俺は捨て駒だけど……だからってお前がいても、ねぇ? それよりコトを外へ漏らせば、彼女らだって諦めるかもしんないじゃん?
とか目で訴えても気づく余裕のないリダーは、へっぴり腰のままラルテへ剣を指し向け、「文官だからってバカにしないでください。僕だって戦えるんですよ、お、オバサン!!」甲種に挑発までしやがった。無謀を通り越して勇者だろ。しかも言ったはいいが、目が泳ぎまくってんじゃねーか……よ?
ラルテがリダーに飛びかかった。あからさまな暴言よりも、能力差で相手を選んだんだろう。素手で腹を殴りつけようとして、ひゃわあと全力で逃げられる。
壁に突き刺さった腕を引き抜きながら、彼女は氷のような目をリダーへ向けた。
「情けないこと。それでもヴァルツの民ですか?」
「僕は生まれも育ちも地方ですからッ!!」
わけのわからんキレ方をしてリダーが剣を振り下ろした。ラルテじゃなく、壁に埋まった大岩に。彼女の一撃で罅の入っていた岩には、魔物を繋ぐ鎖がぐるりと巻かれていた。
剣が半分に折れ飛ぶのと同時、大岩が派手な音を発てて割れた。張りつめていた鎖が凄まじい勢いで引き戻されて、とっさに掴もうとしたラルテの手を強か打つ。
「今です、先輩!」
その鎖は魔物の頭をがっちりと巻き込んでいた。束縛が解けるのに合わせて、鎖の下で頭部を包んでいた鎖帷子がずれる。すかさず俺が剣を向けた。魔物の最大の弱点、眼球へ。
「やめて!」切っ先が角膜へ触れる寸前に、マルムが俺の服を掴んだ。
「交渉しましょう、マルム婦人。この魔物と引き換えに我々の命を保障してもらいます」
「いたします、なんでもいたしますから、お止めくださ――あああああ!!」
懇願が、魔物の顔が現れるにつれて絶叫へ変わった。ついさっきまで愛おしげに撫でていたそれを、ラルテは顔を歪めて凝視する。その目は現在を見ていない。
「いっ、いやああああ! 化け物! 助けてお父様!! 嫌、嫌よ、この私が魔物と――」
瞬間、小さな手があらん限りの力で魔物の横っ面を引っ叩いた。
頑丈な猿轡が弾け飛び、鋭い牙の羅列がぱかりと開く。
細い腕が返される間もなく、鋭利な牙が食い込んだ。「きゃ――」首を振る力で、小さな体は簡単に引き寄せられてしまう。その白く華奢な首元に、魔物の顎が迫った。
瞬時に、俺の剣が魔物の首を断つ。
頸椎の間を正確に斬られた魔物は、首のみになってなお、少女の首元に喰らいついた。
ごきりと嫌な音がした。
「お母様!」ラルテが駆け寄るのと、魔物の首が少女と一緒に落ちたのは同時だった。
むせ返るような甘い香りが部屋いっぱいに広がる。目眩がするほど官能的で、死の興奮を増長させる、甘い甘い血の香りが。
不謹慎にもうずきそうになる喰歯を抑えるために、俺は歯を食いしばった。
ラルテは無言で母親の体を横たえると、瞳孔が開いて真っ黒になった目を閉じさせた。
「……皮肉ね。死ぬときまで一緒なんて、まるで本物の恋人同士のよう」
静かに呟く横顔は、さっきまでの抑圧されたそれとは違い、空っぽの無表情だった。母を失った子供というよりも、長く病に苦しんだ娘を看取った母親のようだ。
「彼女の思いは……崩我による妄執、ですか?」
俺の質問へ、彼女はゆるゆると首を振った。
「いいえ、本当に恋人なのです。この魔物は、私たちの実の父親ですから」
「!?」俺たちは当時に息を飲んだ。リダーが胸元を握りしめる。
「我が家に古くから伝わる、資質を強化する秘術です。母は魔物を拒みながらも私たちを愛してくれていた。その矛盾に耐えきれず――やがて魔物をも愛するようになりました」彼女は天井を仰ぐ。「そうなって初めて、私たちを心から愛してくれた。それが狂気の末のことだとは気づいていたけれど……」
次の瞬間、彼女は自身の腹に右手を突き刺した。
「――私たちは、もっと早く満足するべきだったのね」微笑みには諦めがあった。
彼女は静かに腹を横へ引き裂いていく。細い腰からずるりと白っぽい内蔵が広がった。
……これは助からんな。一段と濃くなった血の香りで麻痺した俺の頭が、冷静に呟いた。
ラルテが目を閉じるのと同時に、リダーが口元を抑えてうずくまった。
◆
地下で二回、地上で一回。すっかり胃の中を空っぽにした新人が、汚れた黒手袋を切なげに投げ捨てた。その手はもう予備の手袋に収まっている。変なところでしっかり者だ。
暗い庭から館を振り返り、リダーは小さく呟いた。
「……愛情が、彼女たちを狂わせたんでしょうか」
「俺は二人とも狂ってなかったと思うけどなぁ?」
リダーが目を丸くして俺を振り仰ぐ。「ですが! あれはどう見ても常軌を逸して――」
「普通の奴だって常軌を逸した行動ぐらいするさ。警邏の言う黒と俺たちの黒は根本的に違うんだ。混同するな」最後の一言をぴしゃりと言い切る。
「それに、さ」黙ってしまったリダーの頭を、俺はわしゃわしゃとかき回した。「もう審判はできないんだ。それを今さらどうこう言うのは、無粋だぞ、新人」
リダーは不満げに口を尖らせて、ぐちゃぐちゃになった黒髪をなでつけた。そのまましばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……はい、先輩」




