二日目
「んじゃ、行ってきやーっす!」
どたどたと廊下を駆けていく姉・美智佳。別名断末魔。いや、でもまだまだ死にそうにない。
彼女はいつものように忙しそうだ。朝早く起きているはずなのに、いつも遅刻ぎりぎり。なんでこうなるんだろうなぁ。不思議。
「聡もそろそろ行ったら?」
のんびりしている母に急かされて、僕はスクールバッグを斜めに背負って玄関に走っていった。のんびりしているくせに急かすくせをどうにかしてほしいものだ。
ああ眠い。朝から断末魔を助けるなどという体力を使うことをしてしまったため、疲れも出てくる。ああしんどい。
こんなので今日一日乗り切れるかなぁ……。すごく心配になってきた。
まあそんなわけでさっそく僕も学校に行くことにした。誰かさんみたいにぎりぎりになってからバタバタ出て行くのは少し見苦しい。だからそういうことにはならないように早め早めの行動もいいと思う。たまには。
「じゃ、いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
朝の別れの挨拶を口にしてから家を出る。あーっ、今日も快晴ですなあ。
「おはよっ、聡♪」
突然の背後からの声に、僕は咄嗟に振り向いた。昨日のハイテンションな女子――――片間裕実だと思ったからだ。しかし、そんな僕の予想は大きく外れた。
「え、えーっと……」
「あれ? 名前、もしかして忘れちゃった? そうそう、君、確か記憶喪失になったんだって? 真紀、だよ」
知っている。あと、記憶喪失になったっていう噂はどこからきたんだ。本人である僕はまったく知らないぞ。それからもう一つ、なんで真紀さんの性格が地味に変わってるんですか?
「あ、そうそう。聡さ、前本貸してくれるって言ってなかった?」
は? 言った覚えまったくなし。っていうか、昨日の夜あったばっかりだからそんな約束するはずないんだけど。ほぼ倒れてたし。
あっ、彼女を怒らせたらまた気絶させられそうだな。うんうん。じゃあ、何の本だったかとりあえず聞いて、帰ってきてから渡そう。
「何の本だったっけ?」
「ん?『ルジュワーヌの森』だよ」
『ルジュワーヌの森』と。そんな本あったっけな。まあいいや。
「じゃあ帰ってきてから渡すよ。じゃあ」
そう言って別れようとすると、腕を掴まれた。ま、真紀さん、どういうことですかこれは。
「なに先に行こうとしてるの? いつも一緒に行ってるでしょ」
少し不機嫌そうな声色に僕はびくびくしながらも、疑問が頭の中をよぎっていく。最近疑問が多いよ~。あと殴られたくないよ~。
「そ、そう、だよね。ごめんごめん」
そう言ったものの、聡と真紀が毎日一緒に学校に行っていたとは知らなかった。まるで僕とヒカリみたいだ。ま、まさか聡、お前も母親に隣の子の面倒を見てやれと無理やり一緒に学校に行かされ続けのか!? かわいそうに……同志よ……。ってまあこんなこと考えててもしょうがないか。パイナップル食べたい。
「じゃ、行こーかー!」
何故か真紀は楽しそうだ。毎日一緒に行ってるんじゃなかったっけ? あ、でもそうはっきり言われたわけではないのか。まあまあそれはいいとして。
「そういえば、今日ってマラソンの練習あるよね」
「え?」
こんなクソ暑いのに? なんで、マラソン?
やだなぁ、僕走るの嫌いなんだけど。遅いし。聡はどうなんだろう。彼がもし運動神経抜群とかだったらやばいなー。アウチ。
「え? じゃないよぉ。楽しみにしてたじゃん、昨日も一昨日もその前も……」
ん? おかしい。今の言葉はどこかおかしい。昨日の午後はともかく、一昨日は真紀はいなくてあそこにいたのはヒカリだった。その前の日は僕はいなかったから、聡が言ったのかもしれない。
でも、少なくとも僕は昨日一昨日にマラソンの練習が楽しみだとは言っていないし、真紀とも会っていない。じゃあ、その間ここの世界の二人はどこに行ってたんだ?
一つ考えられるのは、僕らがもといた世界にいるということ。これなら、入れ替わったことに気がつかずに聡と会話していたという仮説が立てられる。
しかし、僕らの世界にいたのなら、ヒカリと呼ばれることもあるだろう。それなら気づくと思うんだけど……なにも言わない。でも、なんで昨日僕の部屋にいたのかはわかっていない様子だった。
うーん、記憶は持ち越されるのかこっちとあっちで切り離されるのか……わからん。僕も帰れないし、どうすればいいんだろう。ヒカリもいないし、一人じゃ無理だー。誰か助けてー。
「聡? だいじょ――――」
おそらく「大丈夫?」と聞きたかったのだろう。しかし、僕がその言葉を聞くことはなかった。キキィーーーーッと耳をつんざくような大きなブレーキ音とともに、ドンッという鈍い音が青空に吸い込まれていった。ああ、空が綺麗だなぁ……。
気がつけば、そこは病院だった。どうやらトラックに轢かれかけたらしい。実際僕は轢かれなかった。轢かれたのは、真紀一人だ。僕を助けようとして轢かれたらしい。
その話を聞いた僕は無意識に体が震えた。もし、もしも真紀が死んでしまったりしたら……帰れなくなるんじゃないか、と。
そもそも僕らは四人いるからこそ魂のみを入れ替えたりすることができる。だから、一人いなくなれば、少なくともこの世界に真紀という存在がいなくなれば、ヒカリが再びこちらに干渉することはできなくなるだろう。ヒカリがこちらに身体ごと来れば、死んだはずの人が生き返ったようにしか見えないからだ。どちらにせよ、こちらに魂が入り込む身体がないのだから、来ることはできないだろう。
つまり、結論を言えば真紀が死んだらヒカリはこちらに来れない。僕は聡と入れ替わって帰らなければならない。でも、その場合こっちでの記憶が持ち越されるかもわからない。なにをすればいいのかもわからない。帰りたい。帰れない。どうすればいい?
考え込んでいると、病室のドアが開いた。
「聡いぃっ!!」
がばぁっ。え、え、何この状況。ええぇ? だ、抱きつかれてる? 誰?
「ちょっ、離れ、てくれないかな」
「えっ、あっ、ごめん」
ぱっと離れたのは、えーと、誰? 知らない、ような……見たことがあるようなないような。若そうな女性。うーん、誰?
「わかる? あたし。美鳥ななだよ」
は? どなた? 美鳥なな? 知らないなぁ。でも、顔は見たことある気が……うーん、気のせいかなあ。うん、多分気のせいだ。
「すみません、わかりません」
「うーん、じゃあやっぱり仕方ないのかな? 記憶喪失なんだよね?」
だからそれは違うんです。記憶喪失ではなく、聡と入れ替わってしまったんです。って、こんなこと言っても事故で頭でも打っておかしくなったとしか思われないよなぁ。それは嫌だ。頭おかしい人扱いは避けたい。なんでみんな僕が記憶喪失になったって思ってるんだ。まあ、仕方ないのかなあ。
「あたしはあなたの叔母よ」
聡の、叔母。突然の登場に動揺する。叔母。ん、叔母? 若くない? 気のせい?
「あ、こんにちは」
挨拶をし忘れていたと思ってそう口にすると。
「え? うん、こんにちは」
なんか彼女も動揺していた。え、僕なんかしましたか。そんなに嫌でしたか。いや、僕そこまで嫌なことしてませんが。何故動揺しているのですか。それとも僕の勘違いですか。
「それで、体の方は大丈夫?」
「あ、僕は全然大丈夫です。元気です。ところで、母たちは?」
僕は一つの疑問の解決をするために早速僕の叔母と名乗る女性に質問をした。ななさんは「ああ」とうなずいて話してくれた。
「創さんとヒカリさんは今お医者さんと話をしているそうよ」
「……は?」
「だから、創さんとヒカリさん。あなたのご両親でしょう?」
は? ご両親? ゴリョウシン? この人、両親の意味をきちんと知ったうえで言ってる? 親だよ?
「なら、ここは――――」
聡が、僕とヒカリの子供……? つまりここは未来。僕とヒカリの子供となった僕が、ここにいて――――。火星に移住するっていうあのニュースも、お金持ちかと思ったうちの家の玄関のオートロックも、未来だからあったってことなんだ。
うん? 待てよ。ヒカリは確か真紀になった。というか、入れ替わった。しかし真紀は血のつながりのないただのお隣の女の子、だ。なんでヒカリが真紀と入れ替わったんだ? うーん……。
「って!!」
僕は大声を出した。ご両親、だ。つまりは、僕とヒカリがその、いろいろああしてこうしてそうして、あーあーあーってなって? そういうのは、だめだろーよぉ……。うーん、僕と、ヒカリが? えー。信じられん。どうしようどうしよう。なんか重大なことに気がついてしまったよ……。泣きそう。
「ん? 聡君どうした?」
彼女は首を傾げながらそう尋ねてきた。いやー、それにしても若そうな女の人……んん? 待てよ。僕の兄弟に妹や姉はいない。僕にいるのは尋常じゃないほど僕をパシリに使ってくる暴力的な弟、琢だけ。もちろんヒカリにもいない。じゃあ、この人は一体誰? あっ、やっぱり僕とヒカリと同じ名前だっただけ? そうだよな~、まさか、僕がヒカリとなんてバカみたいな話、あるわけないしなあ。あっはっは。
「大丈夫です」
薄ら笑いをしながら答えると、彼女は満足そうに「ならよかった」と頷いた。あ、心配させてたんですね。ごめんなさい。あー、それにしても驚いた。はっはっは、有り得ないだろー。僕とヒカリなんて、笑いじゃ納まんないよ~。はーははは。
「あ、じゃあ琢呼んでくるね」
「琢?」
琢は僕の弟の名前。琢? これは、信じないといけない感じのシチュエーションなのだろうか。いや、でも、まさか、そんな。アリですか、こんな展開。
「やっぱり、聡は僕とヒカリの――――」
考えているだけで恥ずかしくなってくる。大体なんでよりによってこんなことを知らなければならないんだ。余計にヒカリと気まずくなるだろー! 今でも十っっ分に距離が開いているっていうのにさ! 何の目的があってわざわざ僕とヒカリの未来での関係を……。恨むぞ、琢のお嫁さん!
どうせあれだろ! ファンタジー的な小説とか漫画でよくある『お前の息子は将来俺たちの存在を脅かす者となる。よってここで父親であるお前を殺してやるうううう!!』っていう展開になるんだろ! うわああああふざけんなああ! お前の存在なんてどうでもいいんだよっ、ってか黒幕誰だよ!
……心の中で叫んでただけなのに疲れた。超疲れた。そろそろ死んじゃいそう。あーもう、何で事故に遭ってこんな不幸に見舞われないといけないんだー。ばかばかばかばかー。
どうせなら僕の方が意識不明にでもなって三日間くらい目覚めなかったら、こんなことにはならなかったのかもしれない。真紀、守ってくれたのはありがたいけど、今だけはちょっと余計なお世話だったぞ。
「あ、そうだ。真紀は?」
病室を出て行こうとする叔母さんに訊いた。しーん。えっえっ。なにこの状況。し、死んじゃったとか、もしくは意識不明の重体とか? やめろー、そんな悲しげな顔をするんじゃなーい。
「無事よ」
「はい?」
無事なんだ? ならなんでそんな残念そうな顔してるんだ? そしたら叔母さん、鬼婆みたいな恐ろしい形相で金切り声をあげ始めた。
「せっかく、あの子を消せると思ったのにっ! あたしのかわいいかわいい甥っ子にあんな虫つけてやりたくなかったのにっ!!」
あのー、なんか自分の世界に入っちゃってますけど。帰ってこーい。あと、暴露しすぎですよ叔母さん。つまり、彼女はかわいいかわいい甥っ子についている悪い虫をどうにかして追い払いたかったわけだ。そして殺る方にいってしまったというねー……。はいはい、話はあとで警察の方にお願いしますねー。……このくそったれが!
「なんで、なんで死ななかったのよー! しかもっ、脚を骨折しただけ!? ふざけんなっ、あの野郎、百万も払ってやったってのにっ!」
は? 殺し屋でも雇ってたんですか? それならなおさら警察のお世話になってもらわないといけないなあ。というか、僕、このままここにいたら発狂したこれに逆ギレされて殺されたりするんじゃ……。嫌だよ! なんで未来で殺されなくちゃいけないんだ! とんだ不幸だよ!
予想は大当たり。ポケットからカッターナイフを取り出した。ひぎゃーーーー!
「仕方ないわ……こうなったら、あなたを先に……あたしの手で、殺してしまえば……」
「早まるなー!!」
ぎゃあぎゃあ喚く僕を押さえつけて、彼女はカッターナイフの刃を出していく。多分それじゃ殺せないよ! 僕がただただ痛いだけだと思うよ! って、もしかしてそれが目的? 変態だろ!!
心の中だけだけど、突っ込みすぎて息が切れ始めた。た、体力ないなー、もう。こんなときくらい非常用に体力残しとけっての。あーあー、こーろーさーれーるー。
真紀のこと、聞かなかったら良かった……おとなしくしておいて、琢を呼んできてもらうんだった……。琢がいたらさすがに殺さなかっただろうなー。もしかしたら、琢も共犯になるつもりだったのかもしれないけど。
呑気な僕とは裏腹に、叔母さんは目をぎらぎらさせて僕の心臓に刃を突きたてようとしていた。わーわー! 誰か助けてーーーー!