ハルに会った日
霧の立ち込める秋の森を、子ウサギのポッシュはたったひとりで歩いていました。
こんなこともう、彼にとってはなんてことありません。初めは恐ろしかった暗い森も、幽霊のようにゆらゆらと漂う霧も、今ではすっかり慣れてしまいました。
一体、どうして彼が一人旅をしているのか気になるところですが、詳しいことは、また別の機会にお話しましょう。とにかく、今の彼は確かに自分だけの自由を手にしていたのです。
ああ、ひとりでこんなに広い朝の森を歩き回るのは、なんて気分がいいんだろう。
ポッシュは頭の中でそうさけびました。今の彼にとっては、ひとりでいることが何物にも代え難い幸せだったのです。これは、彼がこうして一人旅をしている理由のひとつでもあります。
しかし実のところ、この時彼は一人ではありませんでした。そんな彼を、ものかげからこっそりと見ている者がいたのです。
それは、ハルと言う名の小さな子猫でした。
「なんだかヘンな奴がいるぞ」
ハルは小さなおでこにしわをたくさん寄せて、草の間からじっとポッシュの姿を見ました。彼がじっと見たくなるのも当たり前でしょう。ポッシュの姿は普通のウサギとは少しちがっていましたから。
体中が真っ白な毛に覆われているのに、耳と手足だけは炭のように真っ黒で、丸いふたつの目は空の色より真っ青でした。おまけに腰には小さなかばんを巻きつけ、背中にもゴツゴツした袋を背負っていました。
友達のいないハルは声をかけたくて仕方がなくなりました。
「おい! おまえどこから来たんだ?」
そう叫んで草の中から勢いよく飛び出しました。あまりにも元気よく飛び出したので、子ウサギのポッシュはびっくりしてその場に尻もちをつきました。
「なんだきみ! 僕はお金なんて持ってないぞ」
ポッシュは動転してぶんぶん首を振りました。
「お金なんていらないよ」
ハルはふしぎそうな顔をしました。
「おまえがあんまり変わった見た目をしてるから、どんなやつだか近くで見に来たのさ。おまえ、どうしてそんな見た目なんだ? どうしてひとりでこんなところにいるんだ?」
さらにハルはそう言うと、ポッシュの真っ青な目を眺めました。
ポッシュは砂で汚れたお尻を短い両手ではたくと小さく溜息をついて言いました。
「さあね、自分でもどうしてなのかわからないよ。誰が僕のお父さんで、誰がお母さんかも知らない。前に住んでた村でもいろいろあって、今はひとりで旅をしてるんだ」
ポッシュのその言葉を聞いたとたん、ハルの目はぱっと輝きました。
「それはうらやましいなあ! おれも今から冒険に行きたいと思ってたんだ。良かったら一緒に連れてってくれよ」
ハルは嬉しげに叫びました。
しかしポッシュは残念でなりませんでした。このハルという名の子猫は彼の苦手な性格だったのです。ハルの大きな声は彼の鼓膜を容赦なくゆさぶるりました。
「きみ、名前は?」
ポッシュは元気のない声で言いました。
「おれはハル。おまえは?」
「ぼくはポッシュ」
「うわあ、名前までヘンだなあ」
ハルの容赦ない言葉にポッシュは少しムッとしました。しかしぐっとこらえて言いました。
「そうかいハル。で、君はどうして冒険なんかがしたいんだい?」
「一緒に住んでる伯父さんと伯母さんが、おれを本当の子じゃないからって散々こき使うんだよ。いい子にすればするほどキツく当たるし...... それでおれ、ヤになってこんなとこにいるんだ。最初は一人で出て行くつもりでいたけど、正直言って怖いんだ。 だから、誰かが一緒にいてくれたら心強いんだ」
ハルは早口でまくし立てました。
「ついでに連れてってくれよ!」
ポッシュは聞かなければよかったと後悔しました。彼はもっと馬鹿げた答えが帰ってくると思ったのです。そこにつけこんで、なにか適当なことでも言って彼の誘いを断るつもりでいたのです。それなのに、そんな風に言われたら断るに断れません。
しかし......
「ヤだよそんなの。ぼくはひとりがいいのに」
つい、本音が口をついて出てしまいました。ポッシュは慌てて自分の言ったことに気づき口をおさえましたが、遅すぎました。
ハルの目から、一筋の光が薄れてゆくのが、はっきりとわかりました。
「そうだよな。いきなりこんな話をされったって、困るよな。悪かったよ」
そう言って、ハルはポッシュに背を向けて歩き出すと、さらにこう付け加えました。
「でも、もし...... もし、ちょっとでも気が変わったら、声をかけてくれよ。おれはこの森を抜けたすぐとこの村に住んでるからさ」
その声は、少し震えていました。
それから、ポッシュはハルが歩いて行った方向とは逆の方向へ歩いて行きました。
これでよかったんだ。ぼくはひとりになれたんだから。他人の家の都合なんて、やたらに構うことはないのだから。
彼はそう自分自身に言い聞かせました。そしてずんずんと歩いて行きました。しかし、しばらく歩いたところで突然足を止め、考え込みました。
あのハルのことがどうしても気にかかって、先に進もうという気が起こらないのです。それどころか、むしろ進みたくないくらいでした。
そうか、これじゃダメなんだ。
心の中でそう呟くと、ポッシュはもときた道を戻り始めました。
そうだ。これでいい。
そう思ったとたん、ぐんぐん力が湧いてきて、ついにポッシュは走り出しました。
ハルの言ったとおりに森を抜けると、確かに小さな村が姿を現しました。
赤や青の瓦屋根、山吹色の壁の家々が不規則に建てられています。まるで自分の気に入った場所に何も考えずに家を建てたようでした。
あのハルってやつの家はどれなんだろう。
ポッシュは村の周りを囲んでいる垣根をぴょんと飛び越えました。この村はとても小さな村でしたから、ちゃんとした門も城壁もなかったのです。
もし彼の言っていたことが本当なら、ぼくは助けてあげるべきなんだろうなあ。話し合うべきなのかな。それとも逃げ出すべきなのかな。それとも話し合ってダメだったら、逃げ出すべきなのかな。
ポッシュはそう思いましたが、彼を助け出す方法は何も思いつきませんでした。それどころか、ハル本人がどこにいるのかさえわかりません。
ポッシュがうんうん頭を悩ませながら同じところを行ったり来たりしていると、少し離れたところから大きな怒鳴り声が聞こえてきました。
ポッシュはびっくりして一瞬その場に縮こまりました。しかしすぐにその声のする方向にハルがいるのだと直感しました。
「あの家だ!」
赤い屋根の今にもひっくり返りそうなボロ屋敷からその声は聞こえていました。
ポッシュは汚れた窓ガラスを静かに拭って中の様子を探りました。
中では、まさにハルがお説教を受けているところでした。
「おまえは相変わらず聞き分けが悪いね。これだからあたしはあんたを引き取るのが嫌だったのさ」
彼の伯母らしき猫が言います。
「よせよせ、どうせ何度言ったって聞かないさ。明日には忘れちまうよ」
その後ろには、たばこを咥えた伯父らしき猫も見えます。
「そうね、ニワトリの脳みそだもの。それでまた同じ過ちを繰り返すんだわ。かわいそうに。どうして言われたことがちゃんとできないのかしら」
「全くあきれるね。単に薪を割って、洗濯物を干すだけなんだがね」
ふたりは嫌味ったらしい言葉をハルに浴びせかけていました。
ポッシュはこっそりと裏庭の方にまわってみました。
裏庭には切り株に突き刺さったオノと、だらしなく干された洗濯物がありました。どうやらハルはこのことで怒られていたらしいのです。体の小さな彼にとってはかなりの重労働だったことでしょう。
あいつのことだ。きっと途中で嫌になってしまって、こっそり抜け出したりしたんだろうな。ひとりでどこかへ行く勇気もないくせに。
ポッシュは思いました。
とにかく今彼を逃がすのは無理だ。とりあえず、夜になったらもう一度ここへ来てみよう。
ポッシュはそう決めて、一旦家から離れた林の中へ移動しました。
林の中にいるあいだ中、彼は地面に腰を下ろしてあの意地悪な夫婦のことについて考えていました。どうして彼らはあんなことを言ったりするのか、彼らはハルのことをなんだと思ってるのか、本当にハルのことが嫌いなのか......
きっと何か理由があると思ったのです。しかし、考えても考えても、今の彼には理解できませんでした。
何度も頭の中を行ったり来たりしているうちに、どんどん時間は過ぎ、あっという間に太陽も山の向こうへ沈んでいきました。
「考え事っておそろしいな。どんどんぼくの時間を吸い取っちゃうんだから」
ポッシュはそうつぶやくと、お尻についた砂をはらい落としてハルの家に向かいました。背中に背負っていた荷物は置いていきました。
途中、誰かに遭遇しやしないかとポッシュはどきどきしていましたが、幸い見回りの猫がひとりうろついているだけでした。
ポッシュはうまく見回り猫の目をかいくぐり、誰にも見つかることなくハルの家の裏庭へたどり着きました。
「さて、問題はこれからだぞ。なんたってぼくは、ここに来たらどうするかなんてなんにも考えてなかったんだから......」
全くその通りでした。彼は先のことを見通して行動するのが少しばかり下手くそでした。
頭をかかえてうんうん言いながら考え込みます。
しかし、その時奇跡が起こりました。
「おまえ......! 戻ってきたのか」
なんと裏口の戸が開いて、ハルがひょっこり顔を出したではありませんか。
「大きな声を出さないでくれっ」
ポッシュは人差し指を口の前に持ってきて、顔をしかめました。
「どうせ来るなら裏口だと思って、今日一日ここで待ってみようと思ってたんだ。でもまさか、こんなに早くおまえの気が変わるとは......」
「静かに」
早口でぺらぺら喋るハルをポッシュは睨みつけました。
「君、本気でここを出る気があるんだろうね? 荷造りはすんでるんだろうね? もちろん、ちゃんと置き手紙は書いたんだろうね?」
ハルを睨みつけたままポッシュは言いました。
「しまった。おれ、そんなこと考えてもみなかった」
ハルは頭を抱えて悔しそうにくねくねと動きました。その拍子に彼のすぐ隣に立てかけてあったホウキにしっぽを引っ掛けて倒してしまいました。
ポッシュが「危ない」と叫んだ時にはもう手遅れでした。運の悪いことに、倒れたホウキは逆さまに置いてあったバケツの上に落ち、ものすごい音を立ててしまったのです。
「おい! そこで何してる!」
家の中から恐ろしい怒鳴り声がして、ふたりは同時に飛び上がりました。
「大変だ! 伯父さんに捕まっちゃう! おまえも逃げなきゃひどいぞ!」
ハルは恐ろしげに叫ぶと、勢いよく外に飛び出しました。
「きみのせいで見つかったんじゃないか! 待ってくれ! こんなとこに置いていかないでくれ」
ポッシュは夢中で彼のあとを追いかけました。ポッシュは走りながら何度も後ろを振り返りました。しかし、どういう訳か誰も追っては来ませんでした。途中、見回りの猫にもふたりは姿を見られてしまいましたが、彼もまた、何も言っては来ませんでした。
「ヘンだな」
ポッシュはつぶやきました。
村を出て森の中に入ったふたりは、少し休憩することにしました。
ポッシュは自分の腰に巻きつけた小さなかばんからマッチを取り出すと、そこらに落ちていた枯葉や枝を集めて火をつけました。
「おれ、なんにも準備できなかったよ」
ハルは心配そうにうつむいて自分のしっぽをいじっていました。その間にポッシュは背中に背負っていたふくろの中から小さな鍋を取り出して、どこかへ立ち去りました。ハルが訳もわからず混乱していると、すぐにポッシュは鍋に水を入れて戻ってきました。
「何をするんだい?」
ハルは興味深そうに言いました。
「スープを作るんだ」
ポッシュはそう言って鍋を火にかけました。鍋の中に、乾燥したとうもろこしとじゃがいもを適当にばらまき、少しの小麦粉を入れました。彼はクズノハが好きだったので、途中でクズノハを入れようとしましたが、ハルに止められてしまいました。
スープを飲んでしばらくすると、ハルもだいぶ気分ちが落ち着いてきたので、ポッシュはいくつかの質問を彼に持ちかけました。
「なあ、君。どうして君は伯父さんと伯母さんの家に引き取られたんだい?」
「おれのお父さんとお母さんが、早くに死んじゃったからさ」
ハルはなんともないような顔をして言いました。
「じゃあ、あの村に友達はいたかい?」
「いなかったさ。ひとりも」
ハルは相変わらずけろっとしていました。
「なぜ?」
ポッシュは尋ねます。
「知らない。気がついたら、子供はいなくなってた。もとから、家の仕事ばかりさせられて、外ではあまり遊ばせてもらえなかったけど」
「なるほど。ああそうだ。それからね、君の村は貧しかったのかい?」
ポッシュは彼に最後の質問をしました。
「見てわかったろ? 裕福なはずがないよ。家はボロだし、食べるものは少ないし、みんなすぐ引っ越していくし」
「そうか」
「何で、そんなこと聞くのさ」
ハルは目を丸くして言いました。
「なんでもないよ」
ポッシュがそう言うと、ハルはしかっめ面をして、首をかしげました。
「へんなの」
「まあ、あくまで僕の考えなんだ。ただの推測だよ。あまり気にしないでくれ」
ポッシュはそう言うと、静かに横になりました。
それを見たハルも、ポッシュの真似をして横になると、すぐに寝息をたてて眠ってしまいました。
ポッシュはハルが眠ったのを確認すると、ゆっくりと音を立てずに起き上がり、森の奥へと姿を消しました。
彼は、ハルの家にもどってみようと思ったのです。
ポッシュがハルの家に戻ってみると、家にはまだ明かりがついていました。
「ずいぶん遅くまで起きているんだな」
ポッシュは用心深く窓際に近づくと、そっと中を覗き込みました。
中ではハルの伯父さんが、伯母さんを慰めているところでした。
「あの子、ついに行ってしまったわ。それも、何も持たずに......」
伯母さんは目にハンカチを当てて泣いていました。
「なに、心配いらないさ。私が見た限り、彼は一人ではなかった。それに、こんな生活の苦しい村にいたって、きっと幸せにはなれないだろう」
「だけど、あの子は気が弱くて甘えん坊なところがあるわ」
「そのために厳しくしたんじゃないか。他人に甘えず、しっかり生きていけるように。きっと大丈夫さ。だけど......」
伯父さんはそう言うと深い溜息をつき、こう言いました。
「もっと違うやり方もあったはずだ。私たちは、少し厳しすぎた」
「ああ、私たちはなんて子育てが下手なのかしら。頭ではわかっているはずなのに...... どうして素直じゃないのかしら!」
ポッシュは、二人の口から改めてその言葉を聞き、なんだかとても複雑な気持ちになりました。
「いったい、ぼくはどんな選択をしたらいいんだろう...... 何が正しいことなのかわからないよ」
彼は、暗がりの中でそうつぶやきました。
次の日、朝早く目を覚ましたハルの伯父さんは家の戸を開け、朝の涼しい空気を胸いっぱいに吸い込みました。そして、そのまま朝の散歩に行こうと足を踏み出した時、あることに気がつきました。
ポストに何かが入っています。
「これは、サネカズラか?」
ポストの中には、しわくちゃの一通の手紙とサネカズラの赤い実が三つ入っていました。
手紙には、下手くそな文字でこうありました。
『しばらく旅に出てきます。勝手なことをしてごめんなさい。どうか、お元気でいてください。』
伯父さんは手紙をぎゅっと握り締めると、ついにこらえきれなくなって、ぽろぽろと涙をこぼしました。
初めて書く童話ですので突っ込みどころが多いですが、もしよろしければお付き合いください。