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一夜明けても、クライヴ殿下は見るからに不機嫌だった。
お茶を運んでも不自然なくらいに手をつけないから、この重苦しい空気は完全に私のせいだろう。
書簡を届けにきた若い兵士が何も言われない内にちょっと泣き、報告に訪れた大隊長が無表情ながら入口でわずかにたじろいだ。
そんな中、元気なのはクレメンス叔父だけだった。殿下の机に書類の束を置くついでに、悪気のない顔でこんなことを言うほどに。
「おや、クライヴ様は何やらお顔の色が優れませんね。わたくしと一緒に土いじりなど如何です? 自然に触れると、煩雑な日常を忘れて心が洗われる様な気が致しますよ」
優秀ではあったのだが人間関係にとことんうとく、そのため周囲が全力で王宮勤めをあきらめさせた。――と言う、以前母から聞いた叔父の経歴をこの瞬間に思い出す。
殿下はしばらく無言で叔父を見上げて、それから静かに席を立った。
「好きなだけ土をいじってこい」
叔父を扉の外へ放り出し、抑えた声でそう言うに留めたのは充分大人の対応だろう。部下に対する殿下の配慮に感銘を受けていると、そんな場合ではないことに気がついた。
叔父なき今、執務室に残されているのはクライブ殿下と私だけだ。取り急ぎ、逃げなくては。
そんな私の考えなんてお見通し、と言うように。急いで立ち上がったところをつかまって、あっと言う間に部屋の隅に追いやられた。
殿下は壁に両腕を突いて、その中に私を閉じ込める。息を感じるほど近いところから、きらめく瞳が私だけを熱っぽく見つめた。
簡単に言うと、失神するほど近過ぎる。
「あれは何だ?」
「……あれと申しますと」
「昨日の、あれだ。寝台から突き落とすとは何事だ? あれか? お前の閨には不釣り合いな汚物だとでも言いたいのか?」
あれか。やっぱり。解ってはいたが、できればこのまま忘れたかった。しかし、本人にすればそうは行かないと言うのも解る。
ここはひとつ、素直になってあやまろう。
「申し訳ございません。もう二度とあのようなことはないように」
「ほう、二度と」
「お約束いたします」
「そうか。では、これからは自由にお前の閨で眠って構わないと言う事か」
「ええ、それはもう。……え?」
「いいだろう。昨日の件は水に流してやる」
琥珀の瞳に笑みを含んで、殿下は満足した様子で私から離れた。
許してもらえたのなら、何よりだ。
なのに、なぜだろう。何だかとんでもないことを約束させられたような気がする。
これからしばらく、私は眠れない夜を過ごすことになった。
着替え中に扉を開けられたらどうしよう。外から部屋に戻ったら殿下が寝てたらどうしよう。朝起きて隣に殿下がいたらどうしよう。
私の不安は尽きなかったが、まあ、実際にそう言うことは一切なかった。
身分のある方だし、意味ありげな約束をしたところでからかう以上の目的はない。解ってはいた。しかし頭では解っていても、割り切れるかどうかはまた別の話だ。
日を追うごとに寝不足がたたって、仕事のミスも増えてきた。元はと言えば自分のせいだが、話がこじれたのは殿下のせいだ。だから話をまとめると、全部殿下が悪いと思う。
ある日、殿下の悪口をつぶやきながら長い通路を歩いていた。誰もいないはずだった。
「疲れて凄え顔になってるけど、大丈夫?」
優しいと言うべきか、余計なお世話と言うべきか。迷うより前に、反射的に体が跳ねた。声は、ギクリとするほど近くからした。
誰もいないと思っていたから、おどろきもする。しかし声の方を振り向いて、さらにまたおどろかされた。
そこに立っているのは、どうみても冒険者と言う風体の人物だったからだ。もちろんこれは、ほめ言葉にはならない。服も靴も髪も剣も、すり切れてぼろぼろだと言う意味だ。
城下ならともかく、城内でこう言う人間に出会うことはかなり稀だ。
「お気づかい恐れ入ります。失礼ですが、ご用向きは何でしょう。ご案内いたします」
かなり警戒しながら言ったつもりだ。しかし相手はぱっと明るい笑顔を見せた。その表情が、助かった! と強く語る。
「よかった! 実はスゲー迷っちゃってさー、ツレとはぐれて困ってたんだよ」
「お連れ様がおありで?」
「うん。サイモン様とランサって言うベタベタした二人なんだけど、知ってるかな」
別の人だろうと思った。殿下が手紙を出してから、まだ半月ほどしか経っていない。