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何と言った?
この人は。あんなに優しく、喜ばしげにほほ笑んで。
「それは……」
「スタンリー、控えよ」
抑揚のない声で、パースがとがめた。はっとして、手を引っ込める。思わず、白絹の袖をつかんでしまっていた。
「ご無礼を」
「構わないよ」
本人は気にしてないように笑ったが、そばに控えた侍女たちは気分を害しているらしい。言葉で直接責めはしないが、彼女たちの表情だけでそれは充分伝わった。
「歩こうか」
「……はい、殿下」
優雅に、軽やかに。気ままに歩き始めたそのあとを、不安を押し殺してついて行く。
この数か月、私の中にはずっと不安がくすぶっていた。それが今、胸で破裂しそうにふくらんでいる。押し潰されるようで恐ろしく、自分がちゃんと歩けているかも解らない。
体の後ろで手を組んで、長衣の裾を優雅にゆらす。散策のように城の中を移動しながら、クリフォード殿下は思いついたように問う。
「クライヴが療養して、どのくらい?」
「五か月ほどに」
「その間、姿を見た者はいないそうだね」
「お詳しいですね」
皮肉のように聞こえただろうか。口にしてから、そう思う。
でも、どうでもいい。実際、不審だ。この人は、何もかもを知り過ぎている。
しかし相手は気にもかけず、優しい笑みで「うん」と答えた。
「これでもね、心配事は多いんだ。だから、部下に見張らせてもいた」
この城のすべてを。エスのことを知っていたのも、そのためだ。
当然、五か月前にクライヴ殿下が魔術師に襲われたと言うことも。以来、誰も姿を見ていないことも。お世話についた使用人が、ひとりもいないと言うことも。
すべてを知ったその上で、ここにいる。
「城の中で、誰にも知られず療養するのは不可能だろうね。報告では、どこかに逃れたとも考えられない」
つまり、結論はひとつだと。
クリフォード殿下は足を止め、私に向かってほほ笑んだ。薄紫の瞳を優しく細め、恋人にでも向けるようなやわらかな顔で。
「あれは、とっくに死んでいるよ」
やはり。
瞬間的に、そう思ってしまった。
聞かされたのは、一番聞きたくない言葉だった。ずっと感じていた不安を、目の前に突きつけられた。こんなにも優しく、残酷に。
じわりじわりと、しみだすように。
遅れて心の中に生まれた拒絶は、ほとんど祈りのようなものだった。
城の中をしばらく歩き、石像のある庭に出る。蔦がたれ下がる隔壁の向こうへと進んで行くと、庭に一人、官服のまま地面を掘る人影があった。
「叔父様」
呼び声に、灰色の頭が振り返る。私の隣にクリフォード殿下の姿を見つけ、しかし叔父は大しておどろきはしなかった。
「お越しでしたか」
土に汚れた格好のまま、地面に膝をついて礼を取った。だから相手が誰か、解っていないと言うことはない。
「うん。きてしまったよ」
顔を伏せた叔父に向かって、赤い髪に彩られた顔が楽しげに笑う。
「どうしても、自分で確かめたくなってね」
「お役に立てず、申し訳ございません」
「ハーディーに会った。あれがいたのでは、仕方がない」
「見事に締め出されました」
「それまでは、よくやってくれた」
「恐れ入ります」
庭の空気は、秋を感じさせるものになっていた。ひやりとした風が下草をゆらし、木々からは葉が落ち始めている。
私はただ呆然と、その中に立ち尽くした。風が体温を奪うのか、それとも戦慄に血が冷えたのか。解らない。
どうして、叔父は。当然のように。
クリフォード殿下と。
「……何の話をしているの」
口から勝手に言葉がこぼれた。
目の前の状況が、理解できない。
私の叔父であるクレメンス・ウォルフは、クライヴ殿下の片腕だ。なのに今、頭をたれている相手は違う。
赤髪と白絹の長衣を風に遊ばせ、叔父から捧げられた忠誠を当然のように受け取った。
その人は、クリフォード殿下は。私に対し、悪びれることなくやわらかに笑んだ。