- 021 -
ヴィンセント・L・ハーディーは領主名代としてかなり厳しく職務に当たった。
同時に、奥様への愛情をかいま見る限り、優しい人なのだろうとも思う。
それでもクライヴ殿下の様子を聞くと、「つつがなく」としか答えてくれない。私には優しくするつもりがないのか、それとも殿下のことはあくまで職務の一環なのか。
何も解らないまま時間が過ぎるのに従って、もしかしてと思う気持ちが強まった。
あまりにも、不自然だった。噂好きの下女たちでさえ、殿下のことは解らない。まるで、どこにも存在しないかのように。
「実はね、誰も領主様のお世話をしてないって言うのよ」
エイミーがそう教えてくれたのは、いつだっただろう。私のために、彼女はどうにか殿下の様子を探り出そうとしてくれていた。
「誰も見ていないと言うの。嘘って感じはしないのよ。みんな、ほかの仕事をしているし。手が空いていないから、実際にムリだもの。これって……変、よね」
「ええ……。そうね」
申し訳ないとでも言うような、それとも心配しているような。表情を曇らせて言うエイミーに、私はほとんどうわの空でうなずいた。
殿下のような立場の人が、城の中で誰の手も借りずに過ごすことは不可能だ。食事も着がえも、使用人の助けがいる。療養が必要な身なら、なおのこと。
解らない。
じわじわと胸を汚すのは、絶望のようなものだと思う。
でも、あきらめられない。もしかすると、殿下は死んだと仮にはっきり言われても、あきらめられないのかも知れない。
ならば心臓を火であぶるような事実を知って、何か意味があるのだろうか。
解らない、と。何度も何度も、ぐるぐると同じことを考えた。
「フェイス、酒とか手に入んない?」
使用人たちが忙しく働く厨房に現れて、エスがある日そう言った。滞在して何か月にもなるのに、酒を欲しがったのは初めてだ。
「めずらしいですね」
「いやあ、オレじゃなくて。地下のおっさんがさー、酒くらい持ってこいってうるさくて」
なるほど、とうなずいて酒の瓶と肴になりそうなものをバスケットにつめる。それをよいしょと持ち上げて、エスの前に立った。
「さ、行きましょうか」
「えっ、行くの?」
とても嫌そうな顔だった。でも私も、彼女に荷物を持たせるのは嫌だ。
見た目はいまだに男の姿で、それも世慣れてすり切れた冒険者だ。でも事実、女の人だし、傷を負った時のことも忘れられない。
エスには全力で過保護に接しよう。これに関しては、完全に叔父と意見が一致していた。
それは、ワイルダー・バーの娘にできる唯一のことでもあった。私と叔父の謝罪の言葉さえ、彼女は受け取ろうとしなかった。
地下の、と言うのは、あの地下牢にいる男のことだろう。エスの素性をさらりと暴露したのを見ると、古い知り合いなのだと解る。
せめて途中まで一緒に行くと言い張って、隣を歩きながら少し話した。
「古いって言うかなあ……。ガキの頃、ちょっと剣を教えてもらったんだよ」
「まあ、女の子に剣を?」
「そうなんだよ。さすがに、最初は誰も相手にしてくれなくてさ。あのおっさんが教えてくれて、ちょっと使えるようになって。それで、道場のじじいが通うの許してくれた」
エスの故郷は、隣国にあるダルダガ村だ。小さな村だが、高名な剣士が道場を構えている。そのため、腕を磨こうと他国からも剣の使い手が多く集まる土地だった。
地下牢の男も、そのひとりらしい。
「あの方、あなたに剣の才能があるって解ってらしたのかしら」
「いや、何にも考えてないだけだと思う」
笑いながら言い切ったエスが、ふと、足を止めた。何ごとかといぶかるように眉をよせ、長い廊下の先の方へと目を向ける。
ざわざわとこちらへ近づいてくるのは、浮き足立つような騒がしい空気だ。
優雅に、と。そう表現するべきだろう。
まるで城の主のようだ。王宮から連れてきた麗しい側近たちをはべらせて、ゆったりと歩く姿はあふれそうな気品で満ちていた。
白絹の長衣は一見すると簡素だが、よく見ると袖や裾には同色の糸で繊細な刺繍が刺してある。それだけで身分の高さがうかがえた。
その人のことを、私は知っていた。
肩からたらした薄絹をふんわりとゆらし、蝶が羽を休めるように私たちの前に止まる。
「フェイス・スタンリー。息災で何より」
優しげなその男の声は、クリフォード・リースのものに違いなかった。




