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北限の獅子と謳われた、優秀な武人があった。
我が国の有す広大な国土は、その多くを永久凍土に閉ざされている。そのために、国力のほとんどを軍事によって支えていた。
その中にあって、もっとも優れた軍人だと言われていたのが北限の獅子。若くしてもはや伝説に近い、ハーディー将軍だ。
獅子には、牙と呼ばれる二人の部下がいた。その一方がワイルダー・バーで、もう一方がコーネリアス・ウォルフだ。
コーネリアスは母の弟であり、クレメンス叔父の兄であり、当然私の叔父でありながら、獅子と故国を裏切った男の名だ。
ワイルダーとコーネリアスは、すでに二人ともこの世にない。二年ほど前になされたアイディーム攻略の折、ともに命を落としたと聞いている。
しかしこれには、気になる噂もあった。
ワイルダー・バーは、稀に見る剣豪だったと言われている。それを殺した者は、さぞや優れた武人だっただろう。
例えば、同じく獅子の牙と並び称されたコーネリアス・ウォルフのように。
事実は解らない。ワイルダーの死にざまを見た者はいなかったし、コーネリアスに真偽をたずねた者もない。
けれども少なくともこの噂は、気弱なところのあるクレメンス叔父を打ちのめしていた。そう気づいたのは、たった今だ。
クライヴ殿下の執務室は、以前はアイディーム王のものだった。高い天井も飾られた柱も、数種類の石を使い分けて美しく模様を描いた床もそのためだ。
テラスの方から少しかたむいた日差しを受けて、受け取った書簡に目を通した叔父は少し興奮しているようだった。
「クライヴ様、どうか、この方をわたくしに預けては頂けないでしょうか」
嫌な予感がしたらしい。部屋から下がろうとする私を、赤髪の主が身振りで止めた。
「なぜだ? クレメンス」
「ワイルダー殿のご令嬢から、ご父君を奪ったのはわたくしの兄であると聞きました。償うべき理由がございます。償わせて頂きたいのです」
冷たげに薄い緑の瞳から、あたたかい涙が流れるのは何だか不思議だと思う。それには半分感心し、もう半分はあきれていた。
いい年をした叔父が泣くのは恥ずかしいような気持ちがするし、そもそも短絡的過ぎる。
クライヴ殿下は琥珀色の目を隠すように手を当てて、うつむけた顔で低くうめく。
「フェイス、どう思うか言ってやれ」
「率直に?」
「辛辣に」
なるほど。これは、私以上にあきれているのに違いない。
私は叔父の隣に立って、有無を言わさず書簡をよこせと手の平を見せた。
その丸めた羊皮紙の外側に、開封によって割れた封蝋。そこに残った印章は、リシェイド軍で広く使われているものだった。
内容は簡潔。城下の巡回にある兵の報告だ。
――ワイルダー・バーの娘と名のる二十前後の女が現れ、アイディーム領を治めるクライヴ殿下に謁見したいと申し出た――。
最後に指示をあおぐ一文が言い訳のように添えられてはいるが、それだけだ。
書簡に記された日づけから、現時点で三日ほど経過していた。これは、城下の警備兵から上がってくる報告としてはかなり遅い。
報告した兵も、報告書に記した官も、信憑性は薄いと感じているのがよく解った。無理もない。それに、私も同感だ。
女が一方的に主張するだけで、証拠はおろか後ろ盾さえも確認できない。しかも、訴えた相手は巡回中の一兵卒。本気で訴えるつもりだとすれば、もっと相手を選ぶべきだ。
「これを信じるくらいなら、質の悪い相手にだまされて財産と名誉を失う前に死んだ方がましですね」
もちろんこれは、報告にある女を頭から信じようとする「純真」な叔父への皮肉だった。
しかし、正しく伝わったかは解らない。叔父は信じがたいとでも言うふうに薄緑の目を見開いて、私を非難しているようだった。
「お前の言う辛辣は、随分と優しいな」
「恐れ入ります、殿下」
胸に手を当て礼を取る。が、クライヴ殿下はもっと何かを言わせたいらしい。私の心を覗き込もうとでもするように、琥珀の瞳が意地悪そうに輝いている。卑怯だ、と思う。
秘めた愛を抱える身には、刺激が強い。
「……そうですね。ですが、捨て置くこともできないでしょう。殿下が英傑の遺児を邪険にしたと、悪評が立っても困ります」
しぶしぶつけ加えて言うと、殿下は満足そうに笑みを深める。厄介なことをたくらんでいるのだろうと、それだけは解った。